その日は朝からざわついていた。
2学年生として最後の登校日に、アナベルは人生で初めて寝坊した。レディ・クロックと呼ばれる彼女にとって、初めて体内時計が狂った瞬間だった。
おおなんてこと。キャンベル家での休日の余韻がまだ残っているのか!
アナベルは自身の頬を強く叩き、気合いを入れる。急いで身支度を済ませ、朝食も食べずに馬車に乗り込んだ。今は腹の虫の悲しい声など聞いていられない。
使用人や妹たちに見送られ、アナベルは学園へと向かった。
注意を受けないギリギリの早歩きでクラスに到着すると、まだ教師はいなかった。時計を見れば、始業数分前。遅刻しなかったことに安堵したアナベルは、瞼を閉じて、息を整える。
(よし)
アナベルが目を開けると、奇妙な光景が広がっていた。
クラスメイトのほとんどが彼女を見ているのだ。一言も発さず、ひそひそと言葉を交わすわけでもなく、ただじっと、1人ひとり、アナベルに注視している。
廊下には騒がしい声が聞こえていたはずだが、今はやけに静かだ。
思い当たるのはロベールとの婚約解消についてだが、雰囲気が少し違う。特に女子生徒の目線には、やけに熱く、期待に満ちている。
アナベルは教室に入るのが恐ろしくなり、入り口から動けなくなった。
始業の鐘が鳴ると、教師がやって来た。その掛け声によって教室の緊張感は解け、アナベルはようやく席に着いた。落ち着けると思ったのも束の間、時折チラチラと視線が送られ、集中できない。居心地が悪いまま、アナベルは終了式が終わるのをひたすら耐えるしかなかった。
3学年への期待を語る教師の言葉で、2学年生最後の時間は締めくくられた。
教師が教室を出たため、アナベルも荷物をまとめ教室を出ようと立ち上がった。
その瞬間。
恐ろしい速さで、女子生徒たちに取り囲まれた。彼女たちは皆、難しい顔つきで、状況が若ならいアナベルの胃がキリキリと痛み出す。
一体何をしでかしてしまったのか。確かに人付き合いが悪かった自覚はあるが、こんなに睨まれるようなことをしていたのか。
恐ろしさに足がすくむも、問題解決は早い方がいいと腹を括ったアナベルは、息を吐き、吸う。数度繰り返し、心を落ち着かせた彼女は、話を切り出した。
「皆さん、どうかなさいましたの?」
一転。
令嬢たちはたちまち顔を輝かせた。
「婚約おめでとう!!!!」
まったく、ほんとうに、なんなのだ。
「イーサン・キャンベル様と婚約したのでしょう?」
「…………………………………………………………………………………………………………はい?」
理解が追いつかず、アナベルは返答するまでにたっぷり1分も溜めてしまった。婚約?イーサンと?いや、そんなことよりも、まずは勘違いを解かなくては。
アナベルは、はっきりと、しっかりとした口調で否定する。
「いいえ、誰とも、婚約、してないわ」
すると彼女たちは互いに顔を見合わせる。その内の1人が言った。
「けど、お父様が話していたわ。『キャンベル侯爵がご子息とアナベルの婚約を取り付けた?!』って」
「私も」「私もよ」「私はお兄さまから」「私は叔母さまからよ」などと次々と声が上がる。
何故そんな噂が流れているのか。教室に残るの子息たちも、話に加わらないだけで興味深そうに耳を済ましている。これは想像以上に噂が広まっている証拠だ。
「とにかく、私とイーサン…様は、婚約していないわ」
理由はどうあれ、噂の火消しが特急案件だ。イーサンに、キャンベル侯爵夫妻に迷惑がかかってしまう。それは絶対に避けなければいけない。
「けど、今日イーサン様はお休みを取られてるわよ?」
「それは…もう保養地区に出かけられているんじゃないかしら…」
昨日そんな話は聞かなかったが、急に予定が変わることもある。それとも急に体調が悪化したのか。キュッと不安が広がるアナベルに、1人の令嬢がつかさず否定した。
「私、今朝キャンベル家の馬車がバーンズ家に入るところを見かけましたわ」
「まさか!」
「馬車のマークはキャンベル家のものでしたし、窓からイーサン様のお顔が見えましたもの」
そういえば。アナベルは今朝、両親の顔を見ていないことを思い出した。
(いや、そんなはずは…)
戸惑うアナベルに、「あっ」と令嬢が何かに気づいた声をあげたかと思うと、今度は声を潜める。
「まだ公表前だから、言えないのね」
「違うわ!まったく違う!」
思わず叫ぶも、令嬢たちは勝手に納得し、どんどん、どんどん話は盛り上がっていく。
「隠さなくったって大丈夫よアナベル」「えぇ!とっても嬉しいお話じゃない!」「だってイーサン様よ?”紳士の中の紳士”。信頼がおける方だわ。よかった」「彼なら貴女を幸せにしてくれる」「2人ならお似合いだわ」「えぇ!やだドキドキしてきたわ」「おめでとう!本当に!おめでとう」「アナベル!イーサンと婚約したとは本当か?!」「アナベル先輩、おめでとうございます?!」
アナベルがいくら否定しようとも、令嬢たちは次々とアナベルに祝いの言葉を贈る。隣クラスのニコラや生徒会の後輩たちまで駆けつけて来た。
アナベルはひたすら焦る。なぜイーサンとの婚約話なんて、あり得ない噂が広まったのか。そもそも彼女たちがこんなにも祝福を送ってくる意味もわからない。こんなに喜んでくれるクラスメイトや友人たちを持てて幸せ者だと思うべきか…。
遠きそうになる意識をの中で、アナベルの視界に教室の入り口にイーサンの姿が見えた。今日は休みと聞いていたが、いるじゃないか。ようやく正しく説明をしてくれる人物の登場に、アナベルは「イーサン!」と名前を呼ぶ。
(彼女たちの誤解を解いて!)
そう心の中で願った、その時だった。
「アナベル」
優しく、優しく名を呼ばれ、アナベルは喉まででかけた言葉を飲み込んだ。
今までそんな風に名前を呼ばれたことなど1度もない。イーサンの、己を見つめる瞳に熱を感じ、アナベルはふいに心臓が速くなった。
教室は途端に静まり返る。
いつもと雰囲気が違うイーサンと、動かなくなったアナベルに何かを察した令嬢たちは、イーサンの前に道を作る。
その道を通り、アナベルの元に着いたイーサンは、彼女の手を取った。
そして、周りの令嬢たちに笑いかけ、全体に聞こえるように告げる。
「悪いけれど、彼女と大切な用があるので、これで失礼します。それでは皆様、良い夏休みを」
行こうと優しく手を引かれたアナベルは、一歩、一歩と丁寧に歩く。一方で心臓は尋常じゃないほど早く打ち鳴らし、背中から汗がとりどめなく溢れ出す。
令嬢たちから逃れ、アナベルがイーサンの手を離そうとすると、すがるように弱く力を込められてしまい、振り解けなかった。
2人は手を繋いだまま校舎を出た。アナベルは何か話したかったが、今は彼の後ろ姿を見るだけで思考が止まってしまう。
2人は校門に止まっている馬車に乗り込んだ。
ゆっくりと馬車が動き出した。一体どこに向かうのだろう。アナベルは窓を見る余裕もなく、ただ手元を見つめるしかできない。
イーサンも黙ったままだ。時折落ち着きがないような動きをする時もあったが、アナベルと目が合うと、綿あめを彷彿させる笑顔を浮かべる。
アナベルはますます体を硬くする。
なにか、大変な事が起こっている。
自分が知らないうちに、
何かが進行している。
✴︎
馬車がたどり着いた場所は、バーンズ家屋敷であった。
出迎えたメイドがアナベルとイーサンの手荷物を受け取り、執事長が案内したのは客間である。入ると、アナベルの両親に、妹たち、さらにはキャンベル侯爵夫妻まで揃っていた。テーブルを挟んだ長ソファに、対面するように座っている。
アナベルは制服のスカートを少し摘み上げ、侯爵夫妻に頭を下げる。
「ごきげんよう侯爵ご夫妻。昨日はありがとうございました」
「やあアナベル」
「ごきげんようアナベル。ごめんなさいねバタバタとさせてしまって」
「おかえりなさい。2人とも」
チャーリーに着席を促され、アナベルは父親の右隣に、イーサンは侯爵の左隣に座った。しばしの間、沈黙が流れる。おもむろにチャーリーが口を開いた。
「帰ってきたばかりだけど…アナベル。夫妻から大事なお話があってね」
チャーリーがイーサンに目線を移す。
「デービッド様が、イーサンと婚約を結ばないか、とおっしゃるんだ」
な、ん、と。
彼女達の話は本当だったのか。イーサンに顔を向けても、彼は頬を少し赤らめ、微笑むだけ。
チャーリーに代わり、デービッドが話を始める。
「どうかな。悪い話ではないと思うんだけど。君にこそ、息子の伴侶になって欲しい」
良し悪しのレベルではない。こちらとしては天の恵みに値する。
(だけど…)
アナベルは納得がいかない。
「…確かにありがたいお話ではあります。ただ、あまりに突然のことで…」
「君にとっては、そうだろうね」
侯爵の髭が微かに上がる。夫人はライトグリーンの瞳を目を細め、至極嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「これから君は婚約者探しに奔走しなければならない。しかし1から相手を探すのは酷く大変だ。夏中に決まらなければ、秋までかかる。休みが開ければ最終学年になって、より勉学に励まないといけない。生徒会も引き継ぎなどで、しばらくはばたつく。だろう?」
痛いところをついてくる。イーサンから生徒会の件も聞いたのだろう。アナベルは黙ったまま、侯爵の話の続きを聞く。
「そこで、私たちの息子だ」
デービッドは大きな手を、息子の肩に置いた。いつもよりも、しっかりと力強く置かれる。
「事業を継がせるのに、昔からいろいろ教え込んでいる。まだまだ甘い部分もあるが、任せている仕事は徐々に成果を上げてきている。これからもっと伸びていくだろう。社員からの信頼も厚い」
「容姿だって妻譲りで美しいし、身体の方は…まぁ無茶はできないが、おかげで健康そのもの」
「もし…家の後継が心配ならバーンズ家にイーサンが婿入りすれば良い。親の引き目から見ても、イーサンはかなりメリットがあるはずだよ」
「我々には、です」
いつになく熱く語るデービッド。たまらずアナベルはその言葉を遮った。彼の言うことは重々理解している、承知している。彼女が知りうる中で、イーサンは全ての条件を叶えている。なイーサンの他に、信頼できる男性もいない。
正直理想以上だ。
しかし。
「侯爵、夫人。イーサンと婚約を結べるなら願ってもないことです。彼ほどの男性は、2人といません。しかしイーサンは、自分の意志で婚約をしないのではないのですか?」
アナベルがイーサンを婚約者候補から外していたのは理由がある。
ロベールとミシェルの関係が発覚してから、身の回りの人間関係を改めて見直した際、疑問を抱いたのだ。
『イーサンに本当に婚約者はいないのか』
人柄も家柄も申し分ない子息に相手がいないなんてあり得るのだろうか。もしかしたらアナベルが知らないだけなのかもしれない。その場合、友人同士とは言え相手が女性と仲が良いのを、その恋人や婚約者が快く思わないだろう。そう考えたアナベルは、イーサンに疑問をぶつけたことがあった。
『貴方に婚約者、もしくは恋人は本当にいないの?』
彼はたった一言。
『今は、ね』
真剣な眼差しに、アナベルはそれ以上は聞かなかった。イーサンには本当に相手がおらず、また自身の意志で作らないのだと分かった。
そんな彼の意思を無視して、アナベルと婚約を結ぼうなど酷い話ではないか。
「…君は、考えていた以上に
イーサンを思っているんだね」
「なにより」
デービッドが少し息を呑んだ。今度はレティシアが口を開いた。慈愛に満ちたーだが少し申し訳なさそうな色もあり、複雑な様子もあるー眼差しを、アナベルへ向ける。
「なによりね、アナベル。息子が幼い頃から慕っていた貴女だから。一途に想い続けて、他の令嬢とは結婚はしない、とまで決めた息子の想いを叶えたいの。申し訳ないけど、貴女の不幸を利用しようとね」
アナベルは耳を疑った。今、夫人はなんと言ったのか。
「この婚約を、誰よりも懇願したのはイーサンだ。あとは本人の口から聞くといい」
イーサンはすっと立ち上がった。
長椅子に座るアナベルの横に移動すると、イーサンは床に肩膝をつく。
そして、彼女の手を優しく引き寄せたのだ。ライムグリーンのまっすぐな瞳が、アナベルを見つめる。熱を伴ったその眼差しに、アナベルの心臓は再び速くなった。
「アナベル・バーンズ。幼い頃から、ずっと恋慕っていました」
ゆっくりと、それでもはっきり耳に届く、彼の告白。
アナバルは空色の瞳は、友人の顔をじっと見つめ、外すことができない。
「貴女に婚約者がいても、どうしても諦められなかった。一生に1度の恋だ。だから、気持ちを隠して接してきた。友達としてでも、貴方の隣に居たかったから。…ずっと、隠して行きていく決意だった。けど状況が変わった今、この機会を逃したくない。すぐに信じなくていい」
「愛しています。誰よりも、アナベル貴女を。どうか私と、伴侶として、この先の未来を共に歩んでくれませんか?」
まさか。
まさか。まさか。まさか。まさか。まさか。まさか!信じられない!イーサンが長年慕ってくれていたことも、キャンベル侯爵夫婦がそのことを知った上で了承していたことも!彼が告白してくれたことも、全て!
思考の処理に厳しいが、一方で冷静に現実とすり合わせる自分もいる。受けない選択こそありえない。貴族として、まして何もかも申し分ない子息からの婚約は、絶対に受けるべきだ。なにより信頼の置ける相手がパートナーになる幸せ、絶対に他にはない。
逃してはならない、本能が告げる。
(それに。それに…)
アナベルは呼吸を整える。意を決して、イーサンに告げた。
「イーサン・キャンベル。私でよければ、ぜひお願いします」
アナベルから返事を受け、イーサンは今まで見たことがない美しい笑顔に変わった。瞳にいっぱい光を受け、反射している。赤く染めている頬は、喜びに我慢できず緩んでいる。
その表情に、アナベルは罪悪感に駆られた。
わぁっと妹たちの喜ぶ声が上がる。姉よりも頬を赤く染めている。母も涙を流しながら拍手を送り、父は安心したように息を吐き出した。伯爵家としても、この婚約を喜んでいるのがよく分かる。
レティシアは笑顔を盛大に輝かしながら隣に座る夫に向けた。夫人は「ね、貴方?」と話を促せば、デービッドは頷いた。
「何。いきなり恋仲になれ、は難しいさ。2人は時間をかけて仲を深めるべきだろう。そこでひとつ相談なんだが…」
「アナベルをこの夏休み中、キャンベル家で預かりたいの!できれば今日から♩」
言いたくてたまらなかったようで、夫の言葉を奪いレティシアは続けた。
これでアナベルの思考は完全に停止した。置いてけぼりを食う時は、とことん遅れてしまうらしい。情報戦が命の世界で、ほんの少しは自信があったのだが、自分はまだまだだと痛感する。
石のように動かなくなったアナベルに、イーサンは告げた。
「アナベル。キャンベル家自慢の保養地で、この夏を楽しく過ごそう!」
2学年生として最後の登校日に、アナベルは人生で初めて寝坊した。レディ・クロックと呼ばれる彼女にとって、初めて体内時計が狂った瞬間だった。
おおなんてこと。キャンベル家での休日の余韻がまだ残っているのか!
アナベルは自身の頬を強く叩き、気合いを入れる。急いで身支度を済ませ、朝食も食べずに馬車に乗り込んだ。今は腹の虫の悲しい声など聞いていられない。
使用人や妹たちに見送られ、アナベルは学園へと向かった。
注意を受けないギリギリの早歩きでクラスに到着すると、まだ教師はいなかった。時計を見れば、始業数分前。遅刻しなかったことに安堵したアナベルは、瞼を閉じて、息を整える。
(よし)
アナベルが目を開けると、奇妙な光景が広がっていた。
クラスメイトのほとんどが彼女を見ているのだ。一言も発さず、ひそひそと言葉を交わすわけでもなく、ただじっと、1人ひとり、アナベルに注視している。
廊下には騒がしい声が聞こえていたはずだが、今はやけに静かだ。
思い当たるのはロベールとの婚約解消についてだが、雰囲気が少し違う。特に女子生徒の目線には、やけに熱く、期待に満ちている。
アナベルは教室に入るのが恐ろしくなり、入り口から動けなくなった。
始業の鐘が鳴ると、教師がやって来た。その掛け声によって教室の緊張感は解け、アナベルはようやく席に着いた。落ち着けると思ったのも束の間、時折チラチラと視線が送られ、集中できない。居心地が悪いまま、アナベルは終了式が終わるのをひたすら耐えるしかなかった。
3学年への期待を語る教師の言葉で、2学年生最後の時間は締めくくられた。
教師が教室を出たため、アナベルも荷物をまとめ教室を出ようと立ち上がった。
その瞬間。
恐ろしい速さで、女子生徒たちに取り囲まれた。彼女たちは皆、難しい顔つきで、状況が若ならいアナベルの胃がキリキリと痛み出す。
一体何をしでかしてしまったのか。確かに人付き合いが悪かった自覚はあるが、こんなに睨まれるようなことをしていたのか。
恐ろしさに足がすくむも、問題解決は早い方がいいと腹を括ったアナベルは、息を吐き、吸う。数度繰り返し、心を落ち着かせた彼女は、話を切り出した。
「皆さん、どうかなさいましたの?」
一転。
令嬢たちはたちまち顔を輝かせた。
「婚約おめでとう!!!!」
まったく、ほんとうに、なんなのだ。
「イーサン・キャンベル様と婚約したのでしょう?」
「…………………………………………………………………………………………………………はい?」
理解が追いつかず、アナベルは返答するまでにたっぷり1分も溜めてしまった。婚約?イーサンと?いや、そんなことよりも、まずは勘違いを解かなくては。
アナベルは、はっきりと、しっかりとした口調で否定する。
「いいえ、誰とも、婚約、してないわ」
すると彼女たちは互いに顔を見合わせる。その内の1人が言った。
「けど、お父様が話していたわ。『キャンベル侯爵がご子息とアナベルの婚約を取り付けた?!』って」
「私も」「私もよ」「私はお兄さまから」「私は叔母さまからよ」などと次々と声が上がる。
何故そんな噂が流れているのか。教室に残るの子息たちも、話に加わらないだけで興味深そうに耳を済ましている。これは想像以上に噂が広まっている証拠だ。
「とにかく、私とイーサン…様は、婚約していないわ」
理由はどうあれ、噂の火消しが特急案件だ。イーサンに、キャンベル侯爵夫妻に迷惑がかかってしまう。それは絶対に避けなければいけない。
「けど、今日イーサン様はお休みを取られてるわよ?」
「それは…もう保養地区に出かけられているんじゃないかしら…」
昨日そんな話は聞かなかったが、急に予定が変わることもある。それとも急に体調が悪化したのか。キュッと不安が広がるアナベルに、1人の令嬢がつかさず否定した。
「私、今朝キャンベル家の馬車がバーンズ家に入るところを見かけましたわ」
「まさか!」
「馬車のマークはキャンベル家のものでしたし、窓からイーサン様のお顔が見えましたもの」
そういえば。アナベルは今朝、両親の顔を見ていないことを思い出した。
(いや、そんなはずは…)
戸惑うアナベルに、「あっ」と令嬢が何かに気づいた声をあげたかと思うと、今度は声を潜める。
「まだ公表前だから、言えないのね」
「違うわ!まったく違う!」
思わず叫ぶも、令嬢たちは勝手に納得し、どんどん、どんどん話は盛り上がっていく。
「隠さなくったって大丈夫よアナベル」「えぇ!とっても嬉しいお話じゃない!」「だってイーサン様よ?”紳士の中の紳士”。信頼がおける方だわ。よかった」「彼なら貴女を幸せにしてくれる」「2人ならお似合いだわ」「えぇ!やだドキドキしてきたわ」「おめでとう!本当に!おめでとう」「アナベル!イーサンと婚約したとは本当か?!」「アナベル先輩、おめでとうございます?!」
アナベルがいくら否定しようとも、令嬢たちは次々とアナベルに祝いの言葉を贈る。隣クラスのニコラや生徒会の後輩たちまで駆けつけて来た。
アナベルはひたすら焦る。なぜイーサンとの婚約話なんて、あり得ない噂が広まったのか。そもそも彼女たちがこんなにも祝福を送ってくる意味もわからない。こんなに喜んでくれるクラスメイトや友人たちを持てて幸せ者だと思うべきか…。
遠きそうになる意識をの中で、アナベルの視界に教室の入り口にイーサンの姿が見えた。今日は休みと聞いていたが、いるじゃないか。ようやく正しく説明をしてくれる人物の登場に、アナベルは「イーサン!」と名前を呼ぶ。
(彼女たちの誤解を解いて!)
そう心の中で願った、その時だった。
「アナベル」
優しく、優しく名を呼ばれ、アナベルは喉まででかけた言葉を飲み込んだ。
今までそんな風に名前を呼ばれたことなど1度もない。イーサンの、己を見つめる瞳に熱を感じ、アナベルはふいに心臓が速くなった。
教室は途端に静まり返る。
いつもと雰囲気が違うイーサンと、動かなくなったアナベルに何かを察した令嬢たちは、イーサンの前に道を作る。
その道を通り、アナベルの元に着いたイーサンは、彼女の手を取った。
そして、周りの令嬢たちに笑いかけ、全体に聞こえるように告げる。
「悪いけれど、彼女と大切な用があるので、これで失礼します。それでは皆様、良い夏休みを」
行こうと優しく手を引かれたアナベルは、一歩、一歩と丁寧に歩く。一方で心臓は尋常じゃないほど早く打ち鳴らし、背中から汗がとりどめなく溢れ出す。
令嬢たちから逃れ、アナベルがイーサンの手を離そうとすると、すがるように弱く力を込められてしまい、振り解けなかった。
2人は手を繋いだまま校舎を出た。アナベルは何か話したかったが、今は彼の後ろ姿を見るだけで思考が止まってしまう。
2人は校門に止まっている馬車に乗り込んだ。
ゆっくりと馬車が動き出した。一体どこに向かうのだろう。アナベルは窓を見る余裕もなく、ただ手元を見つめるしかできない。
イーサンも黙ったままだ。時折落ち着きがないような動きをする時もあったが、アナベルと目が合うと、綿あめを彷彿させる笑顔を浮かべる。
アナベルはますます体を硬くする。
なにか、大変な事が起こっている。
自分が知らないうちに、
何かが進行している。
✴︎
馬車がたどり着いた場所は、バーンズ家屋敷であった。
出迎えたメイドがアナベルとイーサンの手荷物を受け取り、執事長が案内したのは客間である。入ると、アナベルの両親に、妹たち、さらにはキャンベル侯爵夫妻まで揃っていた。テーブルを挟んだ長ソファに、対面するように座っている。
アナベルは制服のスカートを少し摘み上げ、侯爵夫妻に頭を下げる。
「ごきげんよう侯爵ご夫妻。昨日はありがとうございました」
「やあアナベル」
「ごきげんようアナベル。ごめんなさいねバタバタとさせてしまって」
「おかえりなさい。2人とも」
チャーリーに着席を促され、アナベルは父親の右隣に、イーサンは侯爵の左隣に座った。しばしの間、沈黙が流れる。おもむろにチャーリーが口を開いた。
「帰ってきたばかりだけど…アナベル。夫妻から大事なお話があってね」
チャーリーがイーサンに目線を移す。
「デービッド様が、イーサンと婚約を結ばないか、とおっしゃるんだ」
な、ん、と。
彼女達の話は本当だったのか。イーサンに顔を向けても、彼は頬を少し赤らめ、微笑むだけ。
チャーリーに代わり、デービッドが話を始める。
「どうかな。悪い話ではないと思うんだけど。君にこそ、息子の伴侶になって欲しい」
良し悪しのレベルではない。こちらとしては天の恵みに値する。
(だけど…)
アナベルは納得がいかない。
「…確かにありがたいお話ではあります。ただ、あまりに突然のことで…」
「君にとっては、そうだろうね」
侯爵の髭が微かに上がる。夫人はライトグリーンの瞳を目を細め、至極嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「これから君は婚約者探しに奔走しなければならない。しかし1から相手を探すのは酷く大変だ。夏中に決まらなければ、秋までかかる。休みが開ければ最終学年になって、より勉学に励まないといけない。生徒会も引き継ぎなどで、しばらくはばたつく。だろう?」
痛いところをついてくる。イーサンから生徒会の件も聞いたのだろう。アナベルは黙ったまま、侯爵の話の続きを聞く。
「そこで、私たちの息子だ」
デービッドは大きな手を、息子の肩に置いた。いつもよりも、しっかりと力強く置かれる。
「事業を継がせるのに、昔からいろいろ教え込んでいる。まだまだ甘い部分もあるが、任せている仕事は徐々に成果を上げてきている。これからもっと伸びていくだろう。社員からの信頼も厚い」
「容姿だって妻譲りで美しいし、身体の方は…まぁ無茶はできないが、おかげで健康そのもの」
「もし…家の後継が心配ならバーンズ家にイーサンが婿入りすれば良い。親の引き目から見ても、イーサンはかなりメリットがあるはずだよ」
「我々には、です」
いつになく熱く語るデービッド。たまらずアナベルはその言葉を遮った。彼の言うことは重々理解している、承知している。彼女が知りうる中で、イーサンは全ての条件を叶えている。なイーサンの他に、信頼できる男性もいない。
正直理想以上だ。
しかし。
「侯爵、夫人。イーサンと婚約を結べるなら願ってもないことです。彼ほどの男性は、2人といません。しかしイーサンは、自分の意志で婚約をしないのではないのですか?」
アナベルがイーサンを婚約者候補から外していたのは理由がある。
ロベールとミシェルの関係が発覚してから、身の回りの人間関係を改めて見直した際、疑問を抱いたのだ。
『イーサンに本当に婚約者はいないのか』
人柄も家柄も申し分ない子息に相手がいないなんてあり得るのだろうか。もしかしたらアナベルが知らないだけなのかもしれない。その場合、友人同士とは言え相手が女性と仲が良いのを、その恋人や婚約者が快く思わないだろう。そう考えたアナベルは、イーサンに疑問をぶつけたことがあった。
『貴方に婚約者、もしくは恋人は本当にいないの?』
彼はたった一言。
『今は、ね』
真剣な眼差しに、アナベルはそれ以上は聞かなかった。イーサンには本当に相手がおらず、また自身の意志で作らないのだと分かった。
そんな彼の意思を無視して、アナベルと婚約を結ぼうなど酷い話ではないか。
「…君は、考えていた以上に
イーサンを思っているんだね」
「なにより」
デービッドが少し息を呑んだ。今度はレティシアが口を開いた。慈愛に満ちたーだが少し申し訳なさそうな色もあり、複雑な様子もあるー眼差しを、アナベルへ向ける。
「なによりね、アナベル。息子が幼い頃から慕っていた貴女だから。一途に想い続けて、他の令嬢とは結婚はしない、とまで決めた息子の想いを叶えたいの。申し訳ないけど、貴女の不幸を利用しようとね」
アナベルは耳を疑った。今、夫人はなんと言ったのか。
「この婚約を、誰よりも懇願したのはイーサンだ。あとは本人の口から聞くといい」
イーサンはすっと立ち上がった。
長椅子に座るアナベルの横に移動すると、イーサンは床に肩膝をつく。
そして、彼女の手を優しく引き寄せたのだ。ライムグリーンのまっすぐな瞳が、アナベルを見つめる。熱を伴ったその眼差しに、アナベルの心臓は再び速くなった。
「アナベル・バーンズ。幼い頃から、ずっと恋慕っていました」
ゆっくりと、それでもはっきり耳に届く、彼の告白。
アナバルは空色の瞳は、友人の顔をじっと見つめ、外すことができない。
「貴女に婚約者がいても、どうしても諦められなかった。一生に1度の恋だ。だから、気持ちを隠して接してきた。友達としてでも、貴方の隣に居たかったから。…ずっと、隠して行きていく決意だった。けど状況が変わった今、この機会を逃したくない。すぐに信じなくていい」
「愛しています。誰よりも、アナベル貴女を。どうか私と、伴侶として、この先の未来を共に歩んでくれませんか?」
まさか。
まさか。まさか。まさか。まさか。まさか。まさか!信じられない!イーサンが長年慕ってくれていたことも、キャンベル侯爵夫婦がそのことを知った上で了承していたことも!彼が告白してくれたことも、全て!
思考の処理に厳しいが、一方で冷静に現実とすり合わせる自分もいる。受けない選択こそありえない。貴族として、まして何もかも申し分ない子息からの婚約は、絶対に受けるべきだ。なにより信頼の置ける相手がパートナーになる幸せ、絶対に他にはない。
逃してはならない、本能が告げる。
(それに。それに…)
アナベルは呼吸を整える。意を決して、イーサンに告げた。
「イーサン・キャンベル。私でよければ、ぜひお願いします」
アナベルから返事を受け、イーサンは今まで見たことがない美しい笑顔に変わった。瞳にいっぱい光を受け、反射している。赤く染めている頬は、喜びに我慢できず緩んでいる。
その表情に、アナベルは罪悪感に駆られた。
わぁっと妹たちの喜ぶ声が上がる。姉よりも頬を赤く染めている。母も涙を流しながら拍手を送り、父は安心したように息を吐き出した。伯爵家としても、この婚約を喜んでいるのがよく分かる。
レティシアは笑顔を盛大に輝かしながら隣に座る夫に向けた。夫人は「ね、貴方?」と話を促せば、デービッドは頷いた。
「何。いきなり恋仲になれ、は難しいさ。2人は時間をかけて仲を深めるべきだろう。そこでひとつ相談なんだが…」
「アナベルをこの夏休み中、キャンベル家で預かりたいの!できれば今日から♩」
言いたくてたまらなかったようで、夫の言葉を奪いレティシアは続けた。
これでアナベルの思考は完全に停止した。置いてけぼりを食う時は、とことん遅れてしまうらしい。情報戦が命の世界で、ほんの少しは自信があったのだが、自分はまだまだだと痛感する。
石のように動かなくなったアナベルに、イーサンは告げた。
「アナベル。キャンベル家自慢の保養地で、この夏を楽しく過ごそう!」

