長年身に染みた習慣は、簡単には消えない。
アナベルは6時に目が覚めた。それでも心も体もすこぶる軽やかなのは、楽しい体験と部屋のフレグランスのおかげだろうか。
アナベルは自宅に帰ったら部屋が散らかっていないかを確認する予定だったが、家具も合わせて自室を見直すのもいい機会なのかもしれないと思い直す。しかし明後日から夏休みが始ま理、両親の手伝いや夜会への参加で忙しくなってしまう。
イーサンに聞けば色々と教えてくれるだろうか。タイミングを見て聞いてみようと、アナベルは心に決めた。
ベッドの上でストレッチをしたり、サイドテーブルに置いておいた本を読んだりと、アナベルはのんびり時間を過ごす。
そして8時58分を時計が指し示し、メイドたちが起こしに来るだろうと考えたアナベルは、改めてベッドに横になった。
9時になるとアナベルの想像通り、ソフィアが部屋に入ってきた。アナベルは声をかけられ、ゆっくりと起き上がった。
テキパキと身支度が進められる。「気持ちよく寝れた」とメイドたちに伝えれば、彼女たちは嬉しそうに頷きながら、それでも手は止まらない。
ソフィアが持ってきたのは、白いエンパイアワンピースとサンダルであった。袖や裾に細かな刺繍が施されており、生地もローンで仕立てられていて涼しげだ。暑くなりそうな外で過ごすには快適そうな装いだが、どちらもアナベルが持ってきたものではない。
一体これは?
ソフィアにに聞いても微笑むだけだ。用意されたものを無碍にできず、アナベルはワンピースに着替えるのであった。
支度を整え、食堂に向かえば
でにイーサンと夫妻が揃っていた。
現れたアナベルに、イーサンが真っ先に声をかけた。
「おはようアナベル」
「おはようイーサン。本当に素敵な部屋をありがとう。お陰でぐっすり眠れたわ」
「それはよかった!それにしても今日のドレスは…一段と軽やかで夏らしいね。靴もよく似合ってる」
イーサンのお世辞にアナベルが曖昧に微笑むと、彼はどうしたのかと首を傾げた。彼も何も知らないようだ。
「ありがとう。けど私が持ってきた服じゃないのよ…」
「え」
少し声を潜めて伝えられた事実に、イーサンはすぐさま母親を見た。
ニコニコと笑っていた彼女は舌を少し出すと、イタズラがバレた子供のように、自分が全て買い求めた、と白状した。驚いて声を上げた息子たちに、彼女は拳を握り、熱く語り始めた。
「うんと前に街に出かけたら、アナベルにとっっっても似合うお洋服があって」
しかしアナベルには婚約者がいた。友人の母親から服を贈るのは躊躇われ、ずっとレティシアは歯がゆい思いをしてきた。アナベルが婚約を解消したと聞いた途端、我慢してきたアレやコレが頭の中を駆け抜け、彼女は居てもたってもいられなくなった。
「別室に10組ほどあるから見てってね!」
望みをやり切った清々しいレティシアの発言に、アナベルは絶句し、イーサンは頭を抱えた。
「10組…」
「母さん、そういうのはアナベルにきちんと断ってから…」
「そうよね。…けど後悔はないのよ!アナベル、今日ぜひ持って帰って、着てまた遊びにいらしてね!!」
「母さん!」
3人のやり取りを和やかに見ていたデービッドが、困っているアナベルを見かねて助け舟を出した。
「ほら、そこまでだ。朝食を食べないと、遊ぶ体力がなくなるぞ」
「はい」
「はい」
「はぁい」
イーサンとアナベルが席に着くと、アイザックたち料理人がテーブルに朝食を並べていく。
朝から目の保養になるメニューに、今日も素敵な日になりそうな予感にアナベルは胸がときめいた。
今日の予定は正午まで、中庭にある池で魚釣りだ。
デービッドに許可の下、料理人たちが食用の魚を育てているのだ。屋敷で養殖の研究をしているなんて他では聞いたことがないが、流石キャンベル家というところ。
釣れた魚は昼食にアイザックが魚を焼いてくれるため、昼食にメインがあるかはアナベルとイーサンにかかっている。
アナベルは竿を持ち、人生で初めての釣りに意気込む。
彼女はイーサンにエサの付け方や、竿の投げ方を教えてもらうと、勢いよく竿を振った。するとルアーは狙ったところに届いた。
あとはのんびりと、魚がかかるのを待つ。気長に待つ。焦ってはいけない。
静かに水面が揺れる様に、気持ちが落ち着いていく。肌を撫でる、少しだけ涼しい風に心地よさを感じていたアナベルだったが、ぐんっ!と突然腕が強く引っ張られた。
アナベルの釣り竿が強くしなり、左右に揺れる。彼女は必死に引っ張り上げようと全身に力を入れるものの、竿は全く上がらない。
「ど、ど、どうすればいいの?!」
戸惑うアナベルの後ろにイーサンは回ると、彼女の手に自身の手を重ねた。
「引くよ」
イーサンの声に合わせ、さらに腕に歯に力を込めて引き上げる。
びしゅん!
勢いよく魚が水中から現れた。2人は急に力が抜け、体勢を崩し地面に尻餅をついた。同時に、魚がアナベルの顔に見事当たり、思ったよりも痛みを感じた彼女は顔をさする。
水から大地へと釣り上げられた魚が、アナベルの目の前で元気に跳ねている。それを見て、アナベルは嬉しさのあまりに「やった!」と大きな声が出た。
それから2時間たっぷり時間を使い、イーサンと合わせて6匹魚を釣り上げた。
川辺にやって来た侯爵夫妻に報告すれば、すごいとしこたま褒められたアナベルはとても照れ臭くなった。
木陰にシートを広げ、即席昼食会場のできあがり。
4人の目の前で、アイザックが昼食を作っていく。調理法や料理の雑学などを説明してくれるので、まるでショーを体験しているようだ。
出来上がった本日の昼食、そのメインは魚の串焼き。丸めた米や、だしを効かせた焼き卵、発酵させた豆をペーストした調味料を溶かした海藻のスープ。
アイザックが東の国を旅行した時に、感動した食事を模したものらしい。見かけない料理にアナベルの好奇心はくすぐられたが、魚をどう食べるか迷う。イーサンを見れば串に刺さったまま食べている。夫人も侯爵もだ。彼らに倣い、アナベルも魚に齧り付いた。
皮のパリッとした食感に、柔らかで脂の乗った身が、口の中でほろほろと溶けていく。
「おいしい…!」
ぱっと笑顔を輝かせたアナベルに、キャンベル親子とアイザックは顔を綻ばせる。
来た時は緊張していたアナベルであったが、大分ほぐれたようだ。アナベルの様子に、イーサンはひっそり安堵の息をつく。母親が服まで用意していたのは想定外だったが、部屋も心から気に入ってくれたようで安心した。この時間を楽しく過ごしてもらえている姿が、なにより変え難いほどに嬉しい。
(誘って良かった)
急だったにも関わらず、準備をしてくれた両親や使用人たちに改めてお礼を言おうと、イーサンは美味しい焼き魚を食べ進める。
それぞれ楽しそうに過ごす2人を、夫妻は微笑ましく見つめていた。
✴︎
夫妻とアイザックは一足先に屋敷へと戻り、アナベルとイーサンは、腹ごなしに池のほとりを散歩する。
昨日からずっと話しているにも関わらず、2人の話題は尽きない。時にお互い口を閉じる時があっても、気まずさはない。気の合う相手と、美しい自然の中で過ごせるのは、なんて心地の良い時間か。
「こんな日が続けばいいのに…」
アナベルは夢心地な気分に浸り、叶わない思いすら言ってしまうほど心は解放的になっていた。
「しばらくは余裕があるだろう?」
「何を言ってるのよ。社交シーズンはこれからが本番じゃない。夏休みが来れば出れる夜会には全て参加して、未来の旦那様探しよ」
彼女は珍しく、ため息混じりに愚痴をこぼした。
社交シーズンを迎える夏は貴族では重要な季節だ。ビジネスと政治の場、そして出会いの場でもある。
婚約者がいなくなったアナベルは、伴侶探しをしなければならない。
アナベルも17歳だ。世間では若い娘の分類だが、1度婚約していた身。元婚約者側に非があろうと、話は誇張されているに違いない。今から婚約者のいない相手を探すとなると、相当年上か…考えたくないが大分年下になるだろう。
とにかく相当時間がかかるに違いない。
アナベルは昔、祖父に連れられていろんな夜会に出席した夏を思い出した。知らない場所に出向く不安。知らない人たちと話し続けてくたびれ、慣れないヒールで足が痛くてしょうがなかった。
そんな腐った心を慰めてくれたが料理だった。ある貴族がどの家だかわからないが、あらゆる会で、美味しい食事が取れるようになったことに本当に感謝しきれない。他の参加者のように、踊りや会話を楽しめれば良いのだが、ロベールと婚約してから、ますます好きではなくなってしまった。
考えるだけで、憂鬱でたまらない。
しかし家のために頑張る家族のためにも、そう考える彼女には「結婚をしない」選択肢は、ない。だから精々、愚痴をこぼすだけだ。
「……………………………………そう、なのか」
イーサンが立ち止まり、アナベルも足を止めた。
しばらく2人の間に、沈黙が流れた。
夏のぬるい風が、その頬や髪を撫でてゆく。
「………ダメだな。夏は保養地区にいたから。分かってはいたけど…理解してなかった」
毎夏キャンベル家はサイドハウスで過ごしている。体調のこともあり、特にイーサンが社交シーズン真っ盛りの、特に王都で開かれる夜会に出るのは稀だ。だからあまり、この季節のことを知らないのだろう。
そう考えたアナベルは、少し顔を伏せるイーサンが呟いた言葉に、納得した。
パッと顔をあげたイーサンは、突然妙なことを言った。
「アナベル、この間話したこと。答えをもらってもいいかな」
この間、とは。
首を傾げれば「この間の夜会で話したこと」だと言われ思い出した。
『…君の考えをまとめると、価値のある男ならば彼でなくてもいいんだよね?』
なぜ今そのようなことを聞くのかわからなかったが、イーサンは真剣に答えを待っている。アナベルは彼と向き合うと本心を告げた。
「そうね。そんな人がいるならば、願ってもないわ」
時間はあっという間に過ぎてしまい、アナベルは帰る時間を迎えた。
2人がキャンベル家屋敷に戻ると丁度アナベルの父、チャーリーが馬車から降りてくるところだった。
チャーリーと挨拶を交わしたイーサンは、両親を呼びに2階へと階段を登っていく。
「いい顔をしている。よかった、素晴らしい時間を過ごせたみたいだね。皆さまにお礼を言わなければ」
アナベルは頷いた。本当に素晴らしい時間を過ごせたし、少しだが休み方がわかった気がする。積もる話はあるが、まずは帰りの準備をしなければならない。
直ぐにイーサンがデービッドを連れて、バーンズ親子の元に来た。
「やあチャーリー。おかげで楽しい時間を過ごせたよ」
「デービッド様。こちらこそ。感謝するばかりです」
父親と共に頭を下げると、アナベルはデービッドにレティシアを迎えに行って欲しい欲しい、と頼まれた。
「今温室にいてね。迎えに行ってあげてくれるかい?」
「はい、わかりました」
「私たちは書斎で待っているよ。さぁ、伯爵」
デービッドはチャーリーの背を軽く叩きながら、イーサンと共に2階にある書斎に向かって、再び階段を上がっていった。
レティシアは温室で植物の手入れを行っていた。帰る旨を伝えると、彼女の表情が至極残念だと眉が落ちる。
「まだアナベルといたいのに…。あっという間ね」
「はい、本当に。夢のようなひと時でした。この度はお誘いいただきありがとうございます。とても、とても楽しかったです」
部屋も、料理も、植物園も、全て全て。夏を前に素敵な思い出ができたことは一生の宝物になる。満面な笑顔で、アナベルは夫人に礼を伝えれば、彼女はアナベルを深く抱きしめた。唐突にどうしたのか。
(この家族には、ずっと驚かされる気がするわ)
先の見えない未来であっても、彼らは何度もアナベルの想像を超す出来事を起こし、それを当たり前に受け入れて隣で笑う自分の姿が目に浮かぶ。
妙な確信を抱きながら、アナベルはそっと夫人の背中に腕を回した。
レティシアから贈られた大量のプレゼントを積んだ馬車に揺られながら、アナベルは父親にひとつ質問した。夫人と侯爵の書斎に入った際に、3人の雰囲気が少し固いように感じたからだ。
「お2人と何を?」
するとチャーリーは、優しく笑った。
「…アナベルの話だよ。今日は楽しく釣りをした、とかね」
アナベルは6時に目が覚めた。それでも心も体もすこぶる軽やかなのは、楽しい体験と部屋のフレグランスのおかげだろうか。
アナベルは自宅に帰ったら部屋が散らかっていないかを確認する予定だったが、家具も合わせて自室を見直すのもいい機会なのかもしれないと思い直す。しかし明後日から夏休みが始ま理、両親の手伝いや夜会への参加で忙しくなってしまう。
イーサンに聞けば色々と教えてくれるだろうか。タイミングを見て聞いてみようと、アナベルは心に決めた。
ベッドの上でストレッチをしたり、サイドテーブルに置いておいた本を読んだりと、アナベルはのんびり時間を過ごす。
そして8時58分を時計が指し示し、メイドたちが起こしに来るだろうと考えたアナベルは、改めてベッドに横になった。
9時になるとアナベルの想像通り、ソフィアが部屋に入ってきた。アナベルは声をかけられ、ゆっくりと起き上がった。
テキパキと身支度が進められる。「気持ちよく寝れた」とメイドたちに伝えれば、彼女たちは嬉しそうに頷きながら、それでも手は止まらない。
ソフィアが持ってきたのは、白いエンパイアワンピースとサンダルであった。袖や裾に細かな刺繍が施されており、生地もローンで仕立てられていて涼しげだ。暑くなりそうな外で過ごすには快適そうな装いだが、どちらもアナベルが持ってきたものではない。
一体これは?
ソフィアにに聞いても微笑むだけだ。用意されたものを無碍にできず、アナベルはワンピースに着替えるのであった。
支度を整え、食堂に向かえば
でにイーサンと夫妻が揃っていた。
現れたアナベルに、イーサンが真っ先に声をかけた。
「おはようアナベル」
「おはようイーサン。本当に素敵な部屋をありがとう。お陰でぐっすり眠れたわ」
「それはよかった!それにしても今日のドレスは…一段と軽やかで夏らしいね。靴もよく似合ってる」
イーサンのお世辞にアナベルが曖昧に微笑むと、彼はどうしたのかと首を傾げた。彼も何も知らないようだ。
「ありがとう。けど私が持ってきた服じゃないのよ…」
「え」
少し声を潜めて伝えられた事実に、イーサンはすぐさま母親を見た。
ニコニコと笑っていた彼女は舌を少し出すと、イタズラがバレた子供のように、自分が全て買い求めた、と白状した。驚いて声を上げた息子たちに、彼女は拳を握り、熱く語り始めた。
「うんと前に街に出かけたら、アナベルにとっっっても似合うお洋服があって」
しかしアナベルには婚約者がいた。友人の母親から服を贈るのは躊躇われ、ずっとレティシアは歯がゆい思いをしてきた。アナベルが婚約を解消したと聞いた途端、我慢してきたアレやコレが頭の中を駆け抜け、彼女は居てもたってもいられなくなった。
「別室に10組ほどあるから見てってね!」
望みをやり切った清々しいレティシアの発言に、アナベルは絶句し、イーサンは頭を抱えた。
「10組…」
「母さん、そういうのはアナベルにきちんと断ってから…」
「そうよね。…けど後悔はないのよ!アナベル、今日ぜひ持って帰って、着てまた遊びにいらしてね!!」
「母さん!」
3人のやり取りを和やかに見ていたデービッドが、困っているアナベルを見かねて助け舟を出した。
「ほら、そこまでだ。朝食を食べないと、遊ぶ体力がなくなるぞ」
「はい」
「はい」
「はぁい」
イーサンとアナベルが席に着くと、アイザックたち料理人がテーブルに朝食を並べていく。
朝から目の保養になるメニューに、今日も素敵な日になりそうな予感にアナベルは胸がときめいた。
今日の予定は正午まで、中庭にある池で魚釣りだ。
デービッドに許可の下、料理人たちが食用の魚を育てているのだ。屋敷で養殖の研究をしているなんて他では聞いたことがないが、流石キャンベル家というところ。
釣れた魚は昼食にアイザックが魚を焼いてくれるため、昼食にメインがあるかはアナベルとイーサンにかかっている。
アナベルは竿を持ち、人生で初めての釣りに意気込む。
彼女はイーサンにエサの付け方や、竿の投げ方を教えてもらうと、勢いよく竿を振った。するとルアーは狙ったところに届いた。
あとはのんびりと、魚がかかるのを待つ。気長に待つ。焦ってはいけない。
静かに水面が揺れる様に、気持ちが落ち着いていく。肌を撫でる、少しだけ涼しい風に心地よさを感じていたアナベルだったが、ぐんっ!と突然腕が強く引っ張られた。
アナベルの釣り竿が強くしなり、左右に揺れる。彼女は必死に引っ張り上げようと全身に力を入れるものの、竿は全く上がらない。
「ど、ど、どうすればいいの?!」
戸惑うアナベルの後ろにイーサンは回ると、彼女の手に自身の手を重ねた。
「引くよ」
イーサンの声に合わせ、さらに腕に歯に力を込めて引き上げる。
びしゅん!
勢いよく魚が水中から現れた。2人は急に力が抜け、体勢を崩し地面に尻餅をついた。同時に、魚がアナベルの顔に見事当たり、思ったよりも痛みを感じた彼女は顔をさする。
水から大地へと釣り上げられた魚が、アナベルの目の前で元気に跳ねている。それを見て、アナベルは嬉しさのあまりに「やった!」と大きな声が出た。
それから2時間たっぷり時間を使い、イーサンと合わせて6匹魚を釣り上げた。
川辺にやって来た侯爵夫妻に報告すれば、すごいとしこたま褒められたアナベルはとても照れ臭くなった。
木陰にシートを広げ、即席昼食会場のできあがり。
4人の目の前で、アイザックが昼食を作っていく。調理法や料理の雑学などを説明してくれるので、まるでショーを体験しているようだ。
出来上がった本日の昼食、そのメインは魚の串焼き。丸めた米や、だしを効かせた焼き卵、発酵させた豆をペーストした調味料を溶かした海藻のスープ。
アイザックが東の国を旅行した時に、感動した食事を模したものらしい。見かけない料理にアナベルの好奇心はくすぐられたが、魚をどう食べるか迷う。イーサンを見れば串に刺さったまま食べている。夫人も侯爵もだ。彼らに倣い、アナベルも魚に齧り付いた。
皮のパリッとした食感に、柔らかで脂の乗った身が、口の中でほろほろと溶けていく。
「おいしい…!」
ぱっと笑顔を輝かせたアナベルに、キャンベル親子とアイザックは顔を綻ばせる。
来た時は緊張していたアナベルであったが、大分ほぐれたようだ。アナベルの様子に、イーサンはひっそり安堵の息をつく。母親が服まで用意していたのは想定外だったが、部屋も心から気に入ってくれたようで安心した。この時間を楽しく過ごしてもらえている姿が、なにより変え難いほどに嬉しい。
(誘って良かった)
急だったにも関わらず、準備をしてくれた両親や使用人たちに改めてお礼を言おうと、イーサンは美味しい焼き魚を食べ進める。
それぞれ楽しそうに過ごす2人を、夫妻は微笑ましく見つめていた。
✴︎
夫妻とアイザックは一足先に屋敷へと戻り、アナベルとイーサンは、腹ごなしに池のほとりを散歩する。
昨日からずっと話しているにも関わらず、2人の話題は尽きない。時にお互い口を閉じる時があっても、気まずさはない。気の合う相手と、美しい自然の中で過ごせるのは、なんて心地の良い時間か。
「こんな日が続けばいいのに…」
アナベルは夢心地な気分に浸り、叶わない思いすら言ってしまうほど心は解放的になっていた。
「しばらくは余裕があるだろう?」
「何を言ってるのよ。社交シーズンはこれからが本番じゃない。夏休みが来れば出れる夜会には全て参加して、未来の旦那様探しよ」
彼女は珍しく、ため息混じりに愚痴をこぼした。
社交シーズンを迎える夏は貴族では重要な季節だ。ビジネスと政治の場、そして出会いの場でもある。
婚約者がいなくなったアナベルは、伴侶探しをしなければならない。
アナベルも17歳だ。世間では若い娘の分類だが、1度婚約していた身。元婚約者側に非があろうと、話は誇張されているに違いない。今から婚約者のいない相手を探すとなると、相当年上か…考えたくないが大分年下になるだろう。
とにかく相当時間がかかるに違いない。
アナベルは昔、祖父に連れられていろんな夜会に出席した夏を思い出した。知らない場所に出向く不安。知らない人たちと話し続けてくたびれ、慣れないヒールで足が痛くてしょうがなかった。
そんな腐った心を慰めてくれたが料理だった。ある貴族がどの家だかわからないが、あらゆる会で、美味しい食事が取れるようになったことに本当に感謝しきれない。他の参加者のように、踊りや会話を楽しめれば良いのだが、ロベールと婚約してから、ますます好きではなくなってしまった。
考えるだけで、憂鬱でたまらない。
しかし家のために頑張る家族のためにも、そう考える彼女には「結婚をしない」選択肢は、ない。だから精々、愚痴をこぼすだけだ。
「……………………………………そう、なのか」
イーサンが立ち止まり、アナベルも足を止めた。
しばらく2人の間に、沈黙が流れた。
夏のぬるい風が、その頬や髪を撫でてゆく。
「………ダメだな。夏は保養地区にいたから。分かってはいたけど…理解してなかった」
毎夏キャンベル家はサイドハウスで過ごしている。体調のこともあり、特にイーサンが社交シーズン真っ盛りの、特に王都で開かれる夜会に出るのは稀だ。だからあまり、この季節のことを知らないのだろう。
そう考えたアナベルは、少し顔を伏せるイーサンが呟いた言葉に、納得した。
パッと顔をあげたイーサンは、突然妙なことを言った。
「アナベル、この間話したこと。答えをもらってもいいかな」
この間、とは。
首を傾げれば「この間の夜会で話したこと」だと言われ思い出した。
『…君の考えをまとめると、価値のある男ならば彼でなくてもいいんだよね?』
なぜ今そのようなことを聞くのかわからなかったが、イーサンは真剣に答えを待っている。アナベルは彼と向き合うと本心を告げた。
「そうね。そんな人がいるならば、願ってもないわ」
時間はあっという間に過ぎてしまい、アナベルは帰る時間を迎えた。
2人がキャンベル家屋敷に戻ると丁度アナベルの父、チャーリーが馬車から降りてくるところだった。
チャーリーと挨拶を交わしたイーサンは、両親を呼びに2階へと階段を登っていく。
「いい顔をしている。よかった、素晴らしい時間を過ごせたみたいだね。皆さまにお礼を言わなければ」
アナベルは頷いた。本当に素晴らしい時間を過ごせたし、少しだが休み方がわかった気がする。積もる話はあるが、まずは帰りの準備をしなければならない。
直ぐにイーサンがデービッドを連れて、バーンズ親子の元に来た。
「やあチャーリー。おかげで楽しい時間を過ごせたよ」
「デービッド様。こちらこそ。感謝するばかりです」
父親と共に頭を下げると、アナベルはデービッドにレティシアを迎えに行って欲しい欲しい、と頼まれた。
「今温室にいてね。迎えに行ってあげてくれるかい?」
「はい、わかりました」
「私たちは書斎で待っているよ。さぁ、伯爵」
デービッドはチャーリーの背を軽く叩きながら、イーサンと共に2階にある書斎に向かって、再び階段を上がっていった。
レティシアは温室で植物の手入れを行っていた。帰る旨を伝えると、彼女の表情が至極残念だと眉が落ちる。
「まだアナベルといたいのに…。あっという間ね」
「はい、本当に。夢のようなひと時でした。この度はお誘いいただきありがとうございます。とても、とても楽しかったです」
部屋も、料理も、植物園も、全て全て。夏を前に素敵な思い出ができたことは一生の宝物になる。満面な笑顔で、アナベルは夫人に礼を伝えれば、彼女はアナベルを深く抱きしめた。唐突にどうしたのか。
(この家族には、ずっと驚かされる気がするわ)
先の見えない未来であっても、彼らは何度もアナベルの想像を超す出来事を起こし、それを当たり前に受け入れて隣で笑う自分の姿が目に浮かぶ。
妙な確信を抱きながら、アナベルはそっと夫人の背中に腕を回した。
レティシアから贈られた大量のプレゼントを積んだ馬車に揺られながら、アナベルは父親にひとつ質問した。夫人と侯爵の書斎に入った際に、3人の雰囲気が少し固いように感じたからだ。
「お2人と何を?」
するとチャーリーは、優しく笑った。
「…アナベルの話だよ。今日は楽しく釣りをした、とかね」

