うらこちゃんの裏話

1 緑好きの印

 六月に突入しても、未だ梅雨入りの気配はない。天気予報によると、例年より遅れてきているとのことらしい。しかし、夏の気配はすぐそばまで迫ってきていて、家を出た瞬間にむしっとした暑さが感じられた。
 駅を出て、同じ制服姿の学生たちに混じって歩く。木々の隙間からやわらかい光が射し込み、さわさわと爽やかな風が葉を揺らす。
 制服の移行期間が終わり、初めて身に着けた半袖シャツの袖口から軽い空気がすっと入ってきた。
 無意識に胸元のリボンを見下ろす。チェック柄の深みがかった緑色のデザイン。ちなみにスカートも同じ柄。私の好きな色が制服の一部なのが嬉しくて、毎朝着替えるたびに頬が緩んでしまう。
 正門を抜け、なるべく端を選んで歩いていると、背後から「こーこちゃんっ」と高めの可愛らしい声が聞こえた。振り向くと、にっこりと笑みを浮かべた唯ちゃんがおはよう、と挨拶した。
 唯ちゃんは入学式の日に初めて言葉を交わした子だ。席が前後なのもあって、仲良くなるのに時間はかからなかった。
 ぱっちり二重の目とくるんとカールしたまつ毛、潤いのある唇は、アイドルかと思わせるほどの可愛さを纏っている。だが唯ちゃんはどちらかと言うと、自他ともに認めるアイドルオタクだ。推しの髪型を真似て、いつもサラサラのロングヘアを頭の高い位置でツインテールに結んでいる。私には到底勇気が出ない髪型だが、唯ちゃんだからこそ似合っていると思う。
 唯ちゃんは私の横にぴったりとくっついて歩き出す。普段から自分の腕を私の腕に絡めてきたりとスキンシップ多めだけど、不思議と嫌な感じはしない。
 私にはアイドルを推す趣味はないし、唯ちゃんと共通点が多いわけじゃない。けれど、不思議と気まずい空気にはならない。唯ちゃんとの温度感はなぜか心地いい。
 校舎に入ると建物の影で直射日光が遮られ、わずかに涼しく感じた。歩きながら唯ちゃんが、そういえばさぁ、と話を切り出した。

「そろそろ日焼け止めを買いたいんだけど、どれが一番いいのか迷っちゃうんだよねぇ。8月にライブもあるし、絶っ対に焼けたくなくて。ここちゃんは肌白くていいなぁ」

 唯ちゃんは袖口から露わになった私の腕を眺める。褒め言葉と受け取っていいのかわからず、曖昧な笑みを浮かべた。

「私、休日は基本引きこもりだから」
「日焼け対策くらいはするでしょ?」
「んーまあ、一応日焼け止め塗ったりはするけど……。でも日焼け止めって、ほんとは年中塗ったほうがいいらしいね」

 唯ちゃんがぴたりと足を止めて、「そうなの!?」と愕然とした顔になる。

「うん。冬でも紫外線は出てるってなにかで見たことある」
「え、ヤバいじゃん。もう唯の肌はシミまみれだ……終わった……」
「いやいやいや。まだ高校生だからさすがに大丈夫でしょ」
「でも唯、冬はなんも紫外線対策してなかったもん……」

 しょぼんと肩を落とす唯ちゃんが、だんだん私に寄りかかってくる。真に受けやすいというか、時々ちょっと被害妄想が激しくなるところも可愛いと思えてくる。
 身体が若干斜めに傾きながら、唯ちゃんを支えて下駄箱へ向かった。なんだこの体勢。
 三組の下駄箱の前まで来ると、顔見知りのクラスメイトたちに遭遇した。口々におはよう、と挨拶を交わす。
 
「そういえば唯ちゃん、バイト始めるんだっけ」上履きに履き替えながら訊いた。
「うん。期末が終わったらすぐにね」

 一年生は期末テスト後にバイトの許可が下りる。そのことを思い出して、そうか、と納得した。

「どこでバイトするの?」再び歩幅を合わせて歩き出す。
「家の近所のスーパーだよ。品出し作業がメインなの」
「そっか。頑張ってね」
「ありがと。これでもっと推しに貢げる……ふふふ。あ、もちろんここちゃんと遊ぶ時間もつくるから心配しないでね」
「うん。唯ちゃんの都合に合わせるから大丈夫」

 一年生の教室があるのは四階。エレベーターも一応あるのだが、主に来客用で生徒たちの使用は認められていない。つまり、移動手段は階段のみ。四階までの上り下りは山登りをしているみたいだ、と体力がない私は常々思う。
 三階に到達した時点ですでに息が上がっていた。教室までの道のりが遠すぎる。一方で、右隣の唯ちゃんは軽い足取りで上っていく。唯ちゃんの長いツインテールも追いかけるように跳ねている。
 Uターンしかけた時、突如左側から大きい人影がぬっと現れた。

「おはよ!」

 よく通る声が頭上で響き、思わずビクッ、と肩が震えた。声の主はクラスメイトの鹿嶋くんだ。唯ちゃんがおはよう、と返すのに合わせて、私も同じ言葉を発した。
 鹿嶋くんは日本とアメリカのハーフらしく、彫りの深い顔立ちやシュッとした高い鼻、ヘーゼル色の瞳からは日本人離れした風貌を感じられる。イケメンってよりかは、『美形』の言葉のほうがしっくりくる。
 一段先を行く鹿嶋くんがくるりと振り返った。その反動で、おそらく天然のものと思われる、緩くウェーブがかった髪がふわりとなびく。

「ねえねえ、今日の小テストの勉強した?ボク、朝ラインでてるに言われるまですっかり忘れててさー。でもワンチャンいけるんじゃないかって、謎の自信が出始めてるんだよね」

 その自信は一体どこからきてるのだろう。たしかこの前の中間テストの結果で、追試がどうのこうのって嘆いていた記憶があるんだけど。
 
「一応、勉強しといた方がいいと思うよ。一応」あえて一応、を繰り返す。
「うらこちゃんが言うなら真面目にやるかぁ。ボク暗記系苦手だし。じゃあ、また後で!」

 そう言うと鹿嶋くんはタタタッ、とテンポよく階段を駆け上がっていった。
 するとグイ、と右腕を軽く引っ張られ、唯ちゃんがいつもの調子であのさぁ、と話し始めた。
 鹿嶋くんの周りは、いつも笑い声で溢れている。でも私は、未だに鹿嶋くんの空気感に慣れない。百八十センチを超えるであろう彼の身長に圧を感じることもままある。
 歌のテストの時、一緒に楽しもう、と緊張で震えていた私に声をかけてくれた。テストが終わった後も、私の歌声を褒めてくれた。やや大袈裟にも聞こえたけど、嘘とは思えないくらい屈託のない笑顔が真っ直ぐ向けられた。
 悪い人じゃないのはわかってる。素直な人だってことも。
 最近は少しずつ話せるようになってきた。それでもどこか、一線を引いてしまう自分がいる。

 英語の授業中。渡部先生が教科書の本文を読み上げると、自身のトレードマークである眼鏡を癖のように上へ持ち上げた。

「じゃあ今からペアリーディング、隣の席の人と本文を読み合ってください。交互に読めたら立場を入れ替えてみましょう」

 始め、の声とともに一斉に椅子が軋む音が響く。隣に座る鹿嶋くんが「どっちから読むー?」と訊いてきた。

「先、どうぞ」
「オッケー。じゃあボクからね」

 向き合う形になり、鹿嶋くんはページの真ん中を指で押さえながら、ぐい、と前屈の姿勢になった。
 座っていても身長差が隠れることはなく、私はほんの少しだけ椅子を後ろに引いた。そんな私に目もくれず、鹿嶋くんは教科書の本文を声に出し始めた。

「One day, a girl found a cinnamon roll in a coffee shop. 」

 おお……と思わず感心してしまう。
 少なくとも、私の発音とは比べ物にならないくらい、彼の口から発せられる音はあまりにも滑らかだった。ただ英文を読むというより、短い物語のように聞こえる。
 一文ずつで交代するため、すぐに順番が回ってくる。私は教科書を持つ手にぎゅっ、と力を入れた。

「ザ、ボーイ……ア、アスケッド……?」
「あ、それ、『asked』って読むよ」
「アスクト?」
「そうそう、上手」鹿嶋くんが親指を立てる。
「ザ、ボーイアスクト、ザ、クラーク……」
 
 英語ペラペラな人の前で、下手なカタカナ英語を聞かせるのはだいぶ滑稽だ。海外なんて行ったことがないから話せなくて当たり前なんだけど……。にしても酷すぎて恥ずかしくなってくる。だからこの時間はあまり好きではないのだ。
 二周目を読み終えると、忘れないうちに教えてもらった発音をカタカナ表記で教科書に書き込んだ。よし、これで読み間違える心配はない。

「うらこちゃんて、緑好きだよね」
「え?」 唐突な言葉に、心臓がドキッ、と鳴った。
「ペンも筆箱も付箋も、ぜーんぶ緑」

 ひとつひとつ、指さし確認するような動きをさせながら、鹿嶋くんは笑いかけてきた。
 
「……バレたか」
「ハハッ、やっぱり当たってた。リュックに付けてるクマ?のマスコットもたしか緑だよね?」
「え、そんなとこまで見てたの」
「うん。朝、階段でうらこちゃんたちを見た時、二人お揃いのやつ付けてるなーって」

 私のリュックにぶら下がっているクマのマスコットは、ほんわかした雰囲気が可愛いと評判のキャラクターだ。前に唯ちゃんとガチャガチャで見つけて一緒に回したのだ。私のは抹茶をイメージした色合いで、鼻の部分がハート型になっているのが可愛くてお気に入り。ちなみに唯ちゃんのクマはアイボリーだ。

「緑ってなんか、優しい色って感じがする。自然の色、みたいな」
「うん、わかる」
「アメリカだと不気味なイメージを持つ人が多いけど」
「え……そうなの」
「映画でよく緑のゾンビとか見ない?緑色の血……」
「もう言わなくて大丈夫」

 私にしてはいつになく早口で鹿嶋くんの言葉を遮り、話は強制終了となった。想像したくもないのに、脳裏に見たこともない緑のゾンビが勝手に形成され、胃のあたりがきゅっとした。
 鹿嶋くんのいたずらっ子のような笑顔に向かって、訝しげな視線を送ってみせると——。

「あなたたち」

 女性にしては低めの声が教室内に落ちた。一瞬でその場が静まり返る。

「今は雑談する時間じゃありませんよ。ちゃんと読んだの?」
「すみま――」せん、と言おうとして横から声が被さる。「すいません!ボクが勝手に喋りかけちゃって。あ、でも読むのは完璧です!」

 笑顔で堂々と言い放つ鹿嶋くんに、クラスメイトたちは笑いを堪えきれない様子だった。一斉にこちらに向けられた視線が私には痛く感じる。ああ……穴があったら入りたい。
 渡部先生は、はあ、と短く息を吐いた。
 
「読み終わってるなら、まあいいでしょう。それじゃあみなさん、大体終わったようなので説明に入りますね」

 半ば諦めたような口ぶりだったが、今回は見逃してくれたらしい。ふぅ、と息をつく。
 鹿嶋くんは私の方を見て、小声で「sorry」と一言。そしてニカッ、と笑った。

「ボクは赤が好きだから、クリスマスカラーだね」

 そう言って、そのまま前を向いた鹿嶋くん。私はぽかんとして、口を半開きにさせていた。
 え、どういう意味?
 赤と緑がクリスマスカラー……はイメージでわかるとしても、言葉足らずのせいで、完全に置いてけぼりにされた気分だ。
 やっぱり変な人。でも嫌な気持ちにはならなかった。いや、嘘だ。途中出てきたゾンビの話には心底嫌な気持ちにさせられた。
 それはそれとして、私の好きな色のことだ。
 傍目で見れば、あの人緑が好きなんだな、とわかるくらい持ち物は全部緑で揃えている。自分でも意識していなかった癖を見抜かれた気がして、恥ずかしさがありつつも嬉しかった。
 先生の説明を小耳に挟みながら、私は教科書に貼られた付箋を人差し指でそっと撫でた。


 2 交わる視点

 梅雨入りした途端、ニュースの週間天気予報では傘マークが全体を占めていた。朝目が覚めると、聞こえてくるのは雨の音。しとしと静かに降る日もあれば、ザーザーと本降りの日もある。
 最後に晴れた日はいつだったか。まるで、空が晴れることを忘れてしまっているみたいに雨の日が続いている。
 私は雨の日が好きだ。
 幼い頃はよく、周囲に人がいなければお気に入りの傘をくるくると回してみたり、『あめふり』の歌を歌いながら、じゃぶん、と長靴を履いた足を水溜まりに突っ込んでいたっけ。
 さすがに今はそんな勇気はないけど、晴れた日には見られない景色、体感できないことがあると思う。雨音を聞くことも、雨の独特な匂いを感じることも。
 
「ここちゃんお疲れ。今日はごめんね。また今度、一緒に帰ろう」
「うん、お疲れ。またね」

 音楽室の前で、同じ合唱部で隣のクラスのなっちゃんと別れたあと、中央階段から下駄箱へと向かった。
 珍しく今朝は晴れていた。しかし、午後からどんよりと厚い雲があたりを覆い尽くし、今や廊下にいてもはっきり聞こえるくらいの雨が降り注いでいる。
 雨のせいか、明かりは点いているのに学校の中はいつになく活気がない。タン、タン、と階段を降りる私の靴音がやけに大きく響き、物寂しい雰囲気を一層漂わせている。
 一階まで降りてすぐの角を曲がると、ずらりと並ぶ下駄箱が見えてきた。履いていた上履きを脱ぎ、代わりにローファーを手に持った。足を入れてかかとを合わせた、その時だった。

「あれ、うらこちゃんだ」

 聞き馴染みのある声がして、反射的に顔を上げた。
 三組の下駄箱は昇降口を入ってすぐ、右端に設置されている。そこのちょうど死角になる、昇降口に等間隔に並ぶ柱の物陰から、鹿嶋くんがにゅっ、と顔を覗かせていた。今までずっとしゃがんでいたのだろう。パンパン、とズボンのお尻部分を払う仕草をしながら「部活?お疲れさま」と笑いかけてきた。
 うん、とだけ返して、それ以上なにを言えばいいのかわからず、視線を足元に落とす。お気に入りで使っている、緑色の傘の石突き部分。それが目に入った時、ふと気がついた。

「鹿嶋くんは、雨宿り?」
「ピンポーン、大正解!よくわかったね」
「だって……傘持ってないみたいだし」

 傘立ては各教室内に設置されているため、私の傘は音楽室を出た時からずっと手に持っている。
 
「いやー完全にやらかした」鹿嶋くんは柱に寄りかかった。「うらこちゃんは偉いね。ちゃんと傘持ってきてて」
「偉いっていうか……最初折り畳みでいこうとしたんだけど、親が長いほうにしなさいって」

 梅雨の時期は天気の移り変わりが激しいから、とのことらしい。
 
「そっか。てかさ、朝めっちゃ晴れてたじゃん?だから今日は絶対傘いらない自信あったんだよね。そしたら見事に騙されちゃった。で、今は誰か知り合い来ないかなーって、暇つぶししてたとこ」

 明るい調子で話す鹿嶋くんに、私も思わずふふ、と笑ってしまった。
 昇降口のガラス越しに見える景色はどことなく白く霞んでいて、いつもの見慣れた校舎が別の場所のように思える。
 ぴちゃん、と滴が小さく地面を跳ねた。その光景を意味もなく見つめる二人の間に沈黙が流れる。真向かいでも横並びでもなく、対角線上と言う絶妙な距離感を保ったまま。
 き、気まずい……。
 鹿嶋くん、口調はいつも通りだけど、今は親しいクラスメイトがいないからか、教室にいる時よりもいくらか大人しい気がする。そりゃあそうだよね、相手が私だもん。鹿嶋くんやその周りの人たちみたいに社交的ではないし、いつも一歩引いて距離を保ちたがる。そもそもお互い、属してるグループすら違うのだ。
 だからこそ不思議に思う。どうして鹿嶋くんは、私に話しかけてくるんだろう。口下手で、対して面白い返しができるわけでもないのに。それこそ入学式からしばらくの間は、自分でも自覚するほどまともな会話が成り立っていなかった。
 ——なんせ、男子が苦手だから。

 小学生の頃から背の順は一番前だった。牛乳を飲んだり縄跳びをするといった努力も虚しく、今の身長で成長のピークは終わってしまった。そのうえ手先が不器用なのもあって、男子たちからは揶揄われたり、時には体育で私にだけパスが貰えなかったりと、今思えば馬鹿馬鹿しい嫌がらせも受けたこともある。
 高校も本当は女子高志望だったが、私立ということもあって、高い学費を出してもらうことは躊躇われた。共学なのは目を瞑り、なるべく男子とは関わらないように平穏な高校生活を過ごそうと思った。
 なのに——ガラス戸の向こうを見つめる鹿嶋くんの横顔が目に映る。口は真っ直ぐ横一文字に、瞳はじっとなにかに囚われているように揺れ動かない。なにを考えているのかさっぱりわからないけど、黙っていれば容姿端麗さが際立っている。
 もしやなにも考えていない?だから誰彼構わず話しかけてしまう、そういう特性だったりして。
 一人で答えを導き出そうとしていたところで、不意にうらこちゃん、と呼ばれた。
 顔を上げると、目線は外に向けられたままの鹿嶋くんが「雨、好き?」と訊いてきた。唐突すぎて言葉に詰まる私に、鹿嶋くんは続ける。

 「ボク、昔雨で滑ってお気に入りの服ダメにしちゃってさ。それからずっと雨を目に敵してるんだ」

 それを言うなら——ツッコもうか迷っていると、鹿嶋くんが振り返って言った。

「雨ってテンション下がらない?濡れるし、せっかくセットした髪もすぐにぐちゃぐちゃになるし。いや、ボクの髪はもともと天パなんだけどね?」

 ノリツッコミまでするとは。いつも教室で見る鹿嶋くんとなんら変わりはなかったようだ。

「あー早く止まないかなぁ」

 鹿嶋くんは再び外の様子を窺いながらぼやく。その横顔に向かって、私は口を開いた。

「たしかに雨は嫌なこともあるけど……私は好きだよ」
「え?」鹿嶋くんの眉がわずかに上がる。
「雨の滴が葉っぱに落ちる瞬間とか、水溜まりに広がる波紋とかって、雨の日じゃないと見られないと思うし。あ、あと、雨音は読書のBGMにはぴったりなんだよね」
「へえー……」

 うわ、なんか微妙な反応。ちょっと喋りすぎてしまったかもしれない。
 しかし、それは私の杞憂に過ぎなかった。鹿嶋くんは一瞬きょとんとしたあと、パッ、と表情を明るくした。

「それ、めちゃくちゃいい!そうか、あえて雨の日しか見れない景色を写すのもいいな……ああでも、それなら防水のカバーを買わないと……」

 後半はぶつぶつ独り言を呟き出して、なんのことだかさっぱりわからない私は困惑していた。今のうちにこっそりと抜け出してしまおうか、そんなことを思い始めた時、鹿嶋くんが白い歯を見せて笑った。
 
「やっぱりうらこちゃんて、いい感性してるよね」

 思いがけない言葉に、その瞬間、雨音がサーッと遠のいた。
 今のは褒め言葉……だよね。淀みない、あまりにも自然な言い方に、どう受け止めたらいいのかわからなくなった。

「それは……ちょっと大袈裟だよ」
「えっ、そう?ボク、カメラで写真撮るのが好きなんだけど、いつも天気のいい日しか出かけなくて。でも、今のうらこちゃんの話聞いて、雨の日ならではの写真を撮るのも面白いなーって思ったんだけど」
「カメラって……え、自分のカメラ持ってるの?」
「そう。いつも持ち歩いてる」

 そう言って私の隣にくると、背負っていたリュックを前に抱くように移動させ、じゃーん、と鹿嶋くんの顔よりもミニマムなサイズ感の黒色のカメラを取り出した。

「この子がボクの相棒」

 滅多に見る機会がないためか、まるで初めてそれを目にした時のように、私の視線はカメラに注がれていた。
 
「こんな小さいカメラもあるんだ。もっとこう……ゴツゴツしたのを想像してた」
「ああ、一眼レフとかね。ボクのも一応一眼だけど、これはミラーレスってやつで、ミラーがないぶん、一般的なものよりもちょっと小さくて軽いんだよ。さすがにあんなゴッツいカメラ、毎日持ち歩いてたらしんどいなぁ。筋トレにはなるかもだけど」

 いまいちピンときていない私は、はあ、と乾いた返事しかできなかった。でも鹿嶋くんは、自分の好きなものに注力して、いろんなことを勉強して吸収したんだろう。なんだか彼の新しい一面を知れた気がする。
 ふと、私の脳裏に桜の光景が浮かび上がった。
 春、高校の入学式の日。
 
「ねえ。もしかして、そのカメラで桜を撮ってたの?」

 私の急な問いに、鹿嶋くんは目をぱちくりとさせて、「あ、覚えてたの?」と照れたように笑った。

「うん。なんか、やけに熱心に桜と向き合ってる人がいるなぁ……って」
「やだ、結構しっかり見られてんじゃん」ハハッ、と笑う鹿嶋くん。
「そこまでジロジロ見てはないけど……目立ってたから」

 あの時は、チラ見程度しか鹿嶋くんの姿を捉えることはできなかった。けれど、一枚撮ったら次は別の角度からカメラを構える俊敏さは、傍目から見ても印象的だった。しかも膝を曲げて、少し窮屈そうな体勢で。
 その数秒後、まさか彼にぶつかられるとは思いもしなかったけど。
 鹿嶋くんはカメラを操作しながら、これこれ、と私の前に一枚の画像を表示させた。
 
「あの日撮った桜だよ。この子にピントを合わせて、まわりがうまくボケてくれたおかげで主人公感が強いでしょ。あ、これはちょうどいいところに花びらが舞ってきたんだよね~。焦って撮った割にはいい感じじゃない?」

 身長が低い私を気遣ってか、腰を屈めて順番に写真をスライドさせていく。最近のカメラはスマホと同じように手動で液晶画面に触れるらしい。

「すごい……プロ並みだね」
「へへっ、ありがとう」

 顔は見えないけれど、声色だけで満更でもないことがわかった。でも、たとえ自画自賛していようが、鹿嶋くんが撮った写真は、どれも素人目に見てもわかるくらいの腕前で、ボケ感や構図など、様々な要素をしっかりと活かしている。
 今はもう緑の葉に覆われている正門のところの大きな木は、入学式の日、満開の桜を咲かせていた。何気なく通り過ぎていたあの一瞬、鹿嶋くんがファインダー越しに覗いていた世界は、まるで物語のワンシーンのように映っていたのだろう。それを写真という目に見える形で如実に写し出せている鹿嶋くんのほうこそ、いい感性を持っていると私は思った。

「……ごめん、うらこちゃん時間大丈夫?」鹿嶋くんは少し慌てたように言った。
「あ、全然大丈夫。気にしないで」
「ほんと?ならいいけど。てかさ、まだ止みそうにないねー、雨」

 写真を見るのに夢中で、未だ雨が降り続けていることにまったく気がつかなかった。
 
「マジでどうしよっかなぁ」それから一拍置いて、「いっそ、相合傘して帰るー?」

 思いがけない言葉に、反射的に鹿嶋くんを見上げた。ザーザー、と雨音がノイズのように重なって聞こえる。
 と、そこへ——。
 
「おーい、レオン!」

 雨音を打ち消すかのようなよく通る声が響く。声のするほうに顔を向けると、二、三人の男子が楽しそうに話をしながらこちらに向かって歩いてくるところだった。遠目で顔までははっきりと見えなかったが、声の感じからして、鹿嶋くんと仲の良い中田くんだと確信した。

「あっ、海ちゃ~ん!」

 鹿嶋くんが手を挙げて応える。

「レオン、もしかして傘ないのかー?」
「うん、だから一緒に入れて!」
「やだよ。お前デカいから俺まで濡れるじゃんか」
「まあまあ、入れてやれよ。可哀想だろ」
「ふん、自業自得だよ。つか、生徒指導室で借りればよくね?」
「あっ、その手があったか!」

 だんだん近づいてくる足音と声。私は下駄箱の死角になる位置で、身を潜めるようにして鹿嶋くんたちのやりとりを聞いていた。
 バクバク、と心臓が不規則な鼓動をし始める。
 なんとなく、この状況を誰かに見られたくなかった。誤解を招きかねないし、クラスメイトとはいえ、これまで接点がなかった男子が臨場してきた場で、女子がぽつん、と一人でいる不自然さに私がいたたまれないのだ。
 早く、行かなくちゃ。
 
「……じゃあ、また」

 気づけば、先に口が動いていた。
 鹿嶋くんの前を横切り、閉め切られた昇降口の扉に手をかけた。湿気のせいなのか、扉がいやに重厚で、ガラガラガラ、と乱暴な音を立てる。視界が開けた先には、地面を叩き打つような勢いで雨が降っていた。

「あ、うらこちゃ——」

 私を呼ぶ声は、シャッターを下ろす時みたいに、雑音にかき消されて耳には届かなかった。もしくは、聞こえないふりをして。
 駅のホームは静寂に包まれていた。朝はうちの学校の生徒たちでごった返しているのに、遅い時間だからなのか人っ子一人見当たらず、だだっ広く感じられた。まるで私だけ取り残されてしまったみたいに。
 電車が来るまでまだ十分か——。
 暇つぶしにSNSを見る気分にもなれず、時間を確認して、すぐにスマホをリュックにしまった。反対側のホームをただじっと見つめている間、鹿嶋くんの一言がぐるぐると頭の中を駆けずり回っていた。

 ——いっそ、相合傘して帰るー?

 鹿嶋くんは、いつでも誰でもあんな風なのかもしれない。お調子者で、距離が近くて、ふわっと場を和ます存在。
 彼が放つ言葉には棘がない。反対に、手で掴めないほど軽くもある。だからあの一言も、鹿嶋くんにとっては深い意味がなく、冗談の範疇だったに違いない。そう、自分に言い聞かせる。
 でももし、中田くんたちが来なければ、私の反応を楽しむつもりだったのだろうか。鹿嶋くんの想像通りの反応を見せたら、しめしめ……と揶揄うつもりだった、とか?

「……わからん」

 首を横に振り、小さく呟いた。考えれば考えるほど胸の奥がざわざわする。
 でも……と、ドラマの回想シーンのように蘇る、下駄箱での光景。
 雨音を聞きながら問いかけてきた時の横顔。カメラの話になると少し落ち着いたトーンになる声。あれは、クラスで友だちと戯れている鹿嶋くんとは違う姿だったと思う。
 男子が苦手な私でも、初めて真正面から鹿嶋くんを見れた……気がした。
 雨が降る静寂に満ちた空間に、私と鹿嶋くんの視点が交じり合う。その空気感はとても新鮮で、だからこそ誰にも触れられたくなかった。もし誰かがやってきたら、鹿嶋くんはいつもの姿に戻るだろうし、私の方がその空気感に溶け込めない。だからあのまま去って良かったのだ、きっと。
 ようやく考えがまとまってきた頃、電車を知らせるアナウンスが流れ出した。


 3 風の噂

 期末テスト最終日。
 全ての終わりを告げるチャイムの音が鳴った途端、誰かが「やっと終わったー!」と高らかに声を上げた。その一言をきっかけに、周りの人たちも私語を解禁し始める。先生が口で注意するほどには、生徒たちの緊張感のなさは筒抜けだったのだろう。

「はい、号令お願いします」

 学級委員長が挨拶するのに合わせ、クラスメイトたちの声が重なる。先生が教室から出ていくと、張り詰めていた空気が一気に解き放たれ、いつもの賑やかな教室に戻っていた。

「ここちゃん、最後の問題の答え、どれ選んだ?」

 前に座っていた唯ちゃんが振り向きざまに訊いてきた。
 現代文の本文から読み解いて答える三択問題で、私は自分の記憶を辿るようにB、と言った。
 
「嘘、Aじゃないの!?」

 信じられない、とでも言いたげに目をかっ開く唯ちゃん。もともと目が大きいから、そこそこ迫力がある。

「え、だって、話の流れ的にAだと辻褄が合わないなって」

 私の言葉に、唯ちゃんは考える素振りをみせる。「言われてみれば……」
「うわぁ、もう最悪。唯さ、ギリッギリまでその問題で悩んでたの。Cは明らかに違うのはわかってたから、消去法でAかBのどっちかだろうなって……あぁ、見事に外れた……」
 
 弱々しく嘆き、私の机の上に顔を伏せた。長いツインテールも唯ちゃんの気持ちと連動しているように、だらん、と垂れ下がっている。

「でも、テストの前まで漢字の勉強してたでしょ?そっちはどうだったの」

 目線の下にいる唯ちゃんの肩を軽く叩くと、むくっと顔を上げた。

「それは完璧!一瞬、読み方ド忘れしちゃったのがあったけど、ここちゃんが教えてくれた覚え方を思い出したの。それで事なきを得たって感じ」
「ああ、あれね」
「やーでも、今回のテストで唯一自信あるの、現代文だけかも。ここちゃんは?」
「私は……」少し間を置いて、首を左右に振った。「どれも自信ないや。ちゃんと覚えたつもりだけど、ちょこちょこミスしちゃってそう」

 テスト週間とは、学生にとって戦場へ立ち向かう準備段階とも言うべき期間。命を懸けるとまではいかずとも、結果次第では留年を免れない高校の定期テスト。ある意味、魂を削って勉強に勤しもうとする学生の姿は想像に難くない。
 毎朝乗る電車の中では、学生たちが所狭しと揺れに耐えながら、参考書や単語帳に目を走らせていた。私も座れる時は座り、時には満員で立ちっぱなしの中、肩身を狭くしてノートを見返していた。暗記系は夜のうちに頭に入れて、朝に見返すのが良い、とどこかで聞いた勉強法を実践して。
 しかし、朝が苦手な私には、だんだんノートに書いた自分の字が躍っているように見えた。それでも睡魔に負けず、家でも学校でも隙間時間を使って地道にコツコツと頭に詰め込んできた。
 それが功を奏したかは、すべて後日返ってくる答案が教えてくれる。無駄になっていないことを祈るのみだが、ひとまず肩の力が抜けた気分だった。
 今度は唯ちゃんが私の肩をぽんっ、と軽く叩く。
 
「今日はテストなんて忘れよっ。それより、一緒にデートするの楽しみだよ~」

 声を弾ませ、にっこり微笑みかけてくる唯ちゃんに、私も自然と口角が上がった。
 
「うん、そうだね」
「なになに、二人でデートするの~?」

 突然割って入ってきた声に、私と唯ちゃんは驚いて横を見る。
 隣で談笑していたと思えば、頬杖をつき、こちらに身体を向けてニヤニヤとした表情の鹿嶋くんが目に入った。

「なぁに、レオンくん。唯たちの邪魔しないでよ」

 口を尖らせる唯ちゃんをまあまあ、と宥める。

「ハハッ。別に邪魔しようだなんて思ってないよ。ただ仲良しだなーって思っただけ!てか、ボクたちもこれからトリプルデートするし。ねっ?」

 後ろを向いて問いかけると、鹿嶋くんの右隣の中田くんが「はぁ……?」と訝し気な視線を送った。
 
「キショいこと言うな。昼飯食いに行くだけだっつーの」
「しかもトリプルデートって、三組のカップルが一緒にデートするってことだろ?俺ら三人だけじゃ、ただの三角関係だよ」中田くんの前に座る照本くんがクスリと笑う。
「あ、たしかに!てると海ちゃんがボクを取り合ってバチバチに……」
「誰が取り合うかよ!お前ら二人がくっついとけ!」
「はは、海ちゃんは俺らがくっついてもなんとも思わないんだ」
「海ちゃん、いい奴!マジ大好き」

 そう言って鹿嶋くんが中田くんに抱き着こうと腕を伸ばす。中田くんは「おい、やめろ!」と声を荒げてそれを振り払う。そんな二人のやりとりを照本くんはやれやれ、とでも言いたげに、しかし止めることもなく眺めていた。
 なんていうか、男の子の友情って、いい意味であっさりしてると思ってたけど、鹿嶋くんたちを見ていたら意外とそうでもないらしい。まあ、鹿嶋くんに関しては、海外に住んでいた経験もあるから、人とのスキンシップに対するハードルが低いのかもしれないが。
 ……にしても仲良すぎじゃないか。
 と、戯れる彼らの普段の様子を見ていると思ってしまうのだった。

 
「ここちゃん、ちょっと自販機寄っていい?ジュース買いたい」

 廊下に出たところで唯ちゃんが言った。
 全クラスほぼ同じタイミングでホームルームが終わったからか、他クラスの生徒たちがドドド、と教室から溢れ出てきた。やはりテスト最終日の解放感から浮かれているのか、いつも以上に賑やかな声が飛び交っていた。私たちのすぐ後ろを、豪快に笑う女子二人組が通り過ぎていく。廊下には生徒たちがごった返していて、休日のテーマパークさながらの混み具合である。

「うん、いいよ」
「ありがと。にしても、梅雨明けしてから暑さ半端ないよね」

 唯ちゃんはトートバッグからハンディファンを取り出した。スイッチボタンを押すと、途端にブオオオン、と轟音を立てて風を吹きつけてた。強い風が唯ちゃんの長いツインテールをふわふわなびかせる。今は人の熱気が加算してあまり効果がなさそうだが、唯ちゃんにとっては、たとえ温風でもわずかな涼しさを求めているのだろう。

「ほんとにね。学校来るだけで汗だくになるし、うんざりしちゃう」
「あーあ、早く冬来ないかなぁ」
「でも唯ちゃん、八月にライブあるんでしょ?楽しみがあっていいじゃん」
「いや、それとこれとは別の話だよ。ライブの熱はまた違う暑さだもん」
「推しに会えた興奮的な?」
「そうそう!」

 私と唯ちゃんはのんびりとした歩調で階段を下りていく。その間、テストで出た内容についてああでもない、こうでもない、と話していると、あっという間に一階に到達した。
 下駄箱の真向かいに、カフェテリアのようなそこそこ広い空間がある。昼休みに友だち同士で昼食を摂る人もいれば、ただ立ち話をするためだけに集まる人もいる、フリースペースのような存在だ。そこには生徒たちの喉を潤す自販機が三台設置されている。そのうちの一台は菓子パンやお菓子コーナーだ。私はまだ利用したことがないけど、クラスの子曰く、短いスパンで商品が入れ替わるので飽きないのだそう。

「この学校にもアイスの自販機置いて欲しいなぁ。コンビニだと割高になっちゃうし」と、唯ちゃん。
「あれ美味しいよね。昔、プールで遊んだ帰りによく買ってもらってたなぁ」
「ここちゃんはやっぱ、抹茶でしょ」
「ふふ、大正解」

 喋りながら自販機の前まで近づくと、「あ、オイ!」と悲痛な叫びを上げる男性の声とともに、チャリーン……と小銭が落ちる音がした。足元に転がってきた小銭を咄嗟に手で受け止める。すると頭上で、悪りぃ、と低く呟く声が降ってきた。恐る恐る顔を上げる。その瞬間、私の心臓がヒュッ、と鳴るのがわかった。私を見下ろすその目は蛇のように鋭く、眼光が痛く突き刺さるような感覚がした。おそらく他学年の先輩であろうその人は、鹿嶋くんよりも身長は低いと思うけど、それでも一般的な男子高生と比べると身長も体格も大きく、なにより圧が強かった。
 ん、と差し出された大きな手。ゴツゴツとした質感を見て、もしや私は今からカツアゲされるのか……?と、心臓がバクバクし始めた。

「……金、返してくれん?」

 その言葉で私は、自分がお金をせしめるつもりだと誤解されていることに気がついた。

「すっ、すみません……」

 慌てて小銭を手のひらに落とすと、自販機の陰から「颯太ー?」と、女子にしては低めの落ち着いた声が聞こえてきた。

「あれ、心ちゃんだ」声の主と目が合った瞬間、反射的に「きらら先輩」と口に出していた。
「知り合い……?」唯ちゃんが私の顔を覗き込む。
「同じ合唱部の部長さん」

 私がこそっと耳打ちすると、唯ちゃんは納得したように頷いた。
 きらら先輩は女子の中でもスラリと身長が高く、ショートカットヘアで、伸ばした前髪を横に流したスタイリッシュさがよく似合っている。特徴的なつり目がちの三白眼の瞳やキリっと整えられた眉は、きらら先輩のはっきりとした顔立ちをより際立たせ、合唱部の後輩からはかっこいい、と称賛の声が上がっているのも事実。

「ねえ、さっきコイツになんか言われてなかった?」

 きらら先輩は親指を彼の方へ向ける。いつの間にか強面の先輩は自販機の方に移動していて、ピッ、ピッ、と慣れた手つきでボタンを操作していた。
 ただ自販機の横で突っ立っているだけなのに、きらら先輩のスタイルの良さが隠しきれておらず、モデルのポージングのようにも見える。本人はその自覚は一切ないのだろうけど。
 そんなことを考えながらきらら先輩の顔を眺めていると、「大丈夫?」と心配そうな目を向けられた。

「だ、大丈夫です……」首をぶんぶん振って否定する。
「怖がらせてごめんねー、ヤンキーだと思ったでしょ。いつも人を睨む癖をやめろっつってんだけどね」
「もともとこういう顔なんだよ」きらら先輩の背後から、ぬっ、と強面の人が顔を出した。「つーかお前も人のこと言えねーからな?後輩に嫌われたかも、っつって泣いてたくせに」
「はあ?それいつの話よ。今はね、可愛い可愛い後輩ちゃんたちが懐いてくれてんだから」
「はんっ。懐いてんじゃなくてお前が手懐けたんだろ」
「うるっさいなー、マジ蹴とばすよ」
「……ヘイヘイ」

 この夫婦漫才のようなやりとりを、笑っていいのかそっと見守るべきなのか正解がわからない。
 まるでお客さんが誰もいない小さなステージ上で、内輪ノリを繰り広げられている時の気分だ。
 
「あのぉ……お二人は、カップルなんですか?」話が一区切りついたところで、唯ちゃんが訊ねた。
「そうだけど」と、きらら先輩。
「へえー!やっぱり付き合ってるカレカノって雰囲気が似るものなんですね!それじゃあ唯たち、ちょっと飲み物じっくり選びたいので、前、失礼しまぁす」

 そう言って唯ちゃんは私の腕を組み、奥の自販機まで歩き出した。 
 
「……唯ちゃん」
「もう、急にラブラブなとこ見せつけられても困っちゃうんじゃんね」

 ひそひそ話をするように声のボリュームを抑える唯ちゃん。私はどう反応していいのかわからず、そうだね、と適当に笑っておいた。
 唯ちゃんが選んでいる横で、私は手持ち無沙汰の気分で隣の自販機のラインナップを眺める。無難にお水やお茶、ジュース類が陳列しているほか、大きなはてなマークが目を引くドリンクも端っこに鎮座していた。おそらく当たり外れを楽しむエンタメ系の商品なんだろうけど、そもそも私は普段、水かお茶しか飲まないため、ジュース自体それほど関心がない。パッ、と目を逸らそうとした一瞬のすきに、『抹茶ラテ』の文字を捉えた。お茶で有名なメーカーが手掛けた、期間限定の商品らしい。
 どうしようかな。今日は水筒持ってきてないし、買っちゃおうか。
 やはり好きなものには抗えない性分だ。そう思い、リュックの背面側のファスナーに手をかけた時。

「なあ。一年に鹿嶋レオンって奴いるよな?」

 低い声で投げかけられた問いを、耳が正確に拾い上げた。

「……はい」

 位置的に、強面の先輩との距離が近い私が答える羽目になってしまった。
 なんだろう。もともと声が低い人って普通に会話してるつもりでも、なぜか怒ったような口調に聞こえてしまう。体育担当の長瀬先生がまさにそれだ。愛想の欠片もないような顔つきがより生徒を——というか私を——委縮させる。
 鹿嶋くん、三年の先輩にも知られてるんだ。日本人離れした顔立ちとあの高身長じゃ、異彩を放つというか、傍目から見ても存在感が大きいんだろうな。
 そんなことを考えていると、強面の先輩が冷めた目つきで「そいつさあ」と重々しく口を開いた。

「また手当たり次第、女子に手ェ出してんじゃねえだろうな」

 口ぶりから察するに、強面の先輩は面白半分で言っているわけではなさそうだった。けど……。
 
「ちょっと、颯太っ」すかさず、きらら先輩が口を挟んだ。「あれは根拠のない、ただの噂でしょ。それとも、颯太はそれ信じてるわけ?」
「別に信じちゃいねえよ。俺とそいつ、関係ねえし」
「だったら、わざわざこの子たちの前で話す必要なくない?」
「いや、俺はただ心配してんだよ。また不運に巻き込まれないように」
「アンタのお節介で巻き込まれかけてるけどね」
「なんだと」
「もーいいから帰ろっ。なんかごめんね。今の話、聞かなかったことにして」

 また部活で、と手を振り、私たちに背を向けて歩き出す——と、きらら先輩が一瞬振り返った。そして教師が生徒に対して諭すような、真剣な眼差しを私たちに向けた。

「噂ごときで人を決めつけないようにね」

 三白眼の瞳が、釘を打つみたいにして胸に深く突き刺さる。
 きらら先輩は部活のミーティングの際、部員たちのまとまりのない話を上手に収集させたり、顧問の香山先生が不在の時は指揮を執って、忖度なしに意見や足りない所を口にする。
 三年生だから。部長だから。そういう立場など関係なく、いつも冷静沈着で物怖じしないリーダーシップ性のあるきらら先輩を、私は心から尊敬している。だからこそ、きらら先輩の言葉には説得力があった。
 きらら先輩は強面の先輩の腕を絡み取り、下駄箱の方へ行ってしまった。取り残された私たちはその場に立ち尽くしたまま、恋人同士の小さくなっていく背中を見つめていた。

「今の話、ほんとなのかなぁ」

 唯ちゃんがぽつりと呟く。私は肯定も否定でもできずに口をつぐんだ。
 強面の先輩が口にした『噂』というのは、多分、あまり良くない話なのだろう。しかも、噂話の標的がクラスメイトの鹿嶋くんとなると、なかなか複雑な心境だった。
 たしかに鹿嶋くんは、誰にでもフレンドリーに接するオープンな性格だ。以前唯ちゃんも言っていたけど、黙っていればカッコいいので、きっと中学でも女の子たちにモテてきたに違いない。お調子者ではあるけど優しい面もあるので、本命の子のハートを射抜くことだってできそうではある。
 ……だからって。私には、鹿嶋くんがいろんな子をたぶらかすような遊び人には見えなかった。いや、私が勝手にそう思っているだけで、それもなんの根拠もないのだけれど。
 不意に蘇る、先月の出来事。下駄箱で偶然、雨宿り中の鹿嶋くんと会って少し話した日。
 カメラの話になると顔つきも声色も真剣そのもので、普段仲のいいクラスメイトといる時とは違う姿に見えた。それは、カメラが好きで熱量を感じる程だった。好きなものには一直線。そんな視線が、閃光ビームのごとく、彼自身が撮った写真に注がれていたのだ。
 まだ出会って半年も経っていない関係値なだけに、鹿嶋くんに直接聞くというのも野暮ではないのか。
 すると、隣で唯ちゃんが「ここちゃんもなんか買う?」と訊いてきた。
 そうだ、忘れてた。半開きだったリュックのファスナーから、緑色の二つ折り財布を取り出した。

「抹茶ラテ見つけちゃった」
「あ、これCMで見たことある!ちょっと気になってたんだよね~」

 小銭を投入し、ボタンを押す。ガコン、と音を立てて出てきたペットボトルに触れると、わずかに水滴が手についてひんやりとした感触が伝わってきた。
 
「唯ちゃんはなに買ったの?」
「んー」

 トクトク喉を鳴らし、ペットボトルから口を離した唯ちゃんが表のラベルを見せつけた。

「桃サイダー。めっちゃ喉乾いちゃって。これは痺れるねぇ……」
「おっさんみたいな口ぶりだね」
「失礼な!唯は正真正銘、乙女だもん」
「そうですね」

 含み笑いをして、ペットボトルのキャップに手を回した。

 ——また手当たり次第、女子に手ェ出してんじゃねえだろうな。

 強面の先輩が放った言葉が頭の中でリピートされた。
 噂は、信じるも信じないも聞いた人自身の判断に委ねられる。一番良いのは、聞かなかったフリをすること。
 そうだ。それがきっと正しいはずだ。
 乾いた口の中を潤すように、一気に抹茶ラテを流し込んだ。勢いをつけすぎたせいで気管支のどこかに入り込み、あろうことか思い切りむせてしまった。

「ちょっ、ここちゃん大丈夫!?」

 驚いた唯ちゃんに背中をさすってもらってしまい、恥ずかしいったらありゃしない。
 妙に甘ったるい抹茶ラテの味だけが舌に残った。