うらこちゃんの裏話

1 はじまりは余計な一言
 
 カシャ。
 手で構えたカメラが小さく心地いい音を響かせる。
液晶に写った写真を確認すると、手前に淡いピンク色の桜が写り、その奥に校門を通過する新入生たちの姿がある。桜にピントを合わせたので新入生たちの表情はわからないけれど、背中越しにワクワクする気持ちや自信に満ち溢れているのが伝わってくる。
 そしてそんな彼らを応援するかのように、桜は見守ってくれているみたいだ。
 今度は逆光になるように身体を半回転させた。再びカメラを構えるてファインダーを覗くと、視界は狭く、四角い世界に切り取られる。
 枝分かれしている桜の中から、最も綺麗な形で開く花びらに目をつけた。やわらかな光に包まれた花びらの輪郭が白く透き通っている。
 ピントを合わせ、呼吸をひとつ止める。そして狙いを定めるように、ゆっくりと指先に力を込めて――。

「やば、めっちゃ綺麗」

 思ったよりもずっと上手く撮れていて、つい顔がニヤケてしまう。
 カメラを手に持ったまま実物を見上げた。大きな桜の木はちょうど満開だ。
 三年前、ボクがアメリカから日本に来た時とは、季節の変化が目まぐるしく感じる。
 最近じゃ、入学式を迎える頃にはもう葉桜だったりするらしい。だからこうして満開の桜の前に立てているだけで、なんだか得した気分になる。
 今日から始まる高校生活もきっと一瞬なんだろうな。だからこそボクは、ボクが感じたときめきを写真という形に残して記録しておきたいと思う。
 暖かい風が吹いて、枝先の花が一斉に揺れた。花びらがボクの周りを取り囲んでくるくると舞っている。まるで、新しい門出をお祝いしてくれているみたいに。
 スマホで時間を確認すると、八時二十分の文字が表示された。たしか教室に入るのは八時半までだから……よし、まだ十分もある。
 再びファインダーを覗いて構図を決める。
 お、いい感じ。でも、もう少し手前にボケ感を入れたいな。
 カメラを構えた姿勢のまま、一歩後ろに下がった時——ドン、となにかに触れた感覚がした。
 
「うわっ!」

 ボクの大きな声に、何事かと後ろを通る人たちの冷ややかな視線が突き刺さる。
 目線を落とすと、視界の端に小さな影が飛び込んできた。見下ろすと、ボクより一回り……いや、二回りくらい小さな女の子が、驚いたように目を見開いていた。
 顎まで伸びた艶のある黒髪のボブヘア。透き通るほど色白の肌。細い肩幅に、ブレザーからほんの少し見える指先。
 それらは、身長百八十四センチのボクとは正反対の存在だった。
 小柄な身体に加えて、まだあどけなさが残る顔立ちが同じ高校生というよりかは、本当に少女みたいに思える。

「……ちっちゃ」

 考えるより先に、言葉が口から零れていた。
 ざわついた空気が一瞬だけ止まる。ハッと我に返った時、ボクはすぐに後悔した。謝ろうとするも、時すでに遅し。彼女はムッとした顔で、逃げるようにその場から去ってしまった。
 はあー……と大きな溜息をつく。入学早々、ボクはなんて失礼なことを……。
 でもなぜだろう。すごく睨まれたのに、むしろ可愛いと思ってしまった。
 呆然と立ち尽くすボクに、さっきより冷たさを含んだ風が吹いた。カメラをリュックにしまい、トボトボと重い足取りで校舎へ向かった。
 昇降口に貼られたクラス表を確認し、一年三組の教室に入る。緊張して固い表情の子もいれば、すでに楽しげにお喋りをしている子たちもいる。
 ボクの席は教卓から見て、右から二列目の一番後ろだった。席の近くまで来た時、見慣れた顔ぶれを発見して口角が上がった。
 ——てる、海ちゃん!
 ボクの右隣の席のアホ毛がぴょん、と目立つやんちゃそうな男子——海ちゃんと、その前に座る、涼しげな目元のクールそうな男子——てるは中学からの友だちだ。
 そんな二人はなぜか腕相撲の真っ最中だった。てるの方が優勢で、海ちゃんが負けじと歯を食いしばって応戦している。その様子を見たボクはつい、「頑張れ!」と声を上げて応援していた。
 突然の声に、二人がギョッとした顔でボクを見上げる。てるがすぐに表情を戻して、あっけなく勝敗が決まった。

「っしゃー、俺の勝ち」

 誇らしげにガッツポーズをする彼とは反対に、海ちゃんはクソッ、と苛立っている様子。

「まさかイケメンに見惚れて負けるとはな」
「見惚れてねーし!いきなり声がしたからビビったんだよ!」

 海ちゃんは八重歯をむき出して、てるに詰め寄る。とっくに勝負はついたというのに、これが負け犬の遠吠えってやつか。やっぱり海ちゃんは面白いな。
 ハハッ、と笑いを抑えきれないボクに、海ちゃんはギロリとボクを睨んだ。

「レオン……よくも邪魔してくれたな」
「ごめんごめん。なんかあまりにも二人が白熱してたからつい……てかさ、まず同じクラスになれたことに祝福しようよ!」
「それもそうだな」てるが目を細めた。「また一年よろしく、レオン」
「よろー」海ちゃんがひらひらと手を振る。
「うん、よろしく!」
「ま、とりあえず座りな」

 てるがボクの椅子に手のひらを向けた。うん、と言ってリュックを下ろし、机の横のフックに引っ掛ける。ボクが椅子に座るタイミングを待って、てるが口を開いた。

「ちょっと寄り道してく、って言うからかさ、遅刻してこないか心配してたんだよ」
「アハハ……いや、ちょっと近所の公園まで桜を撮りに行ってたんだ。近くに川が流れててさ、桜並木になってるのがすごく綺麗なんだよ。あ、そこの校門の桜の木も見ものだったなぁ」
「相変わらず好きだなー」と、海ちゃん。「いつも持ち歩いてんだろ?カメラ」
「うん、ボクの相棒。もう三年?になるのかな。ちょうどてると海ちゃんと出会った頃と同じだね」
「あ、たしかに。懐かしいなー。入学式の日、クラスにモデルみたいなイケメンが入ってきたからビビったよ。コイツ入る学校間違えてないか?って」

 てるが思い出したように笑う。一方、海ちゃんは仏頂面で腕を組みながらドスン、と椅子の奥まで座り直した。
 
「オレはいけ好かねえヤツだと思ってたけどな」
「ひどっ!今じゃ、レオン愛してるぜ、って言ってくれるのに」
「そんなん言った覚えねーよ。捏造すんな」
「ハハッ。でもボクたち、いつのまにか仲良くなってたよね。なにがきっかけだったんだろ」
「いちいち覚えてねーわ」
「そうそう、友だちって気づいたらなってるもんだよ」

 てるはそう言うと、海ちゃんの肩に勢いよく腕を回した。引っ張られるような形になった海ちゃんがイデッ、と小さく悲鳴を上げる。
 二人の様子を微笑ましく思ったところで、ボクはふと、左隣にいる人の気配を感じた。
 女の子だ。別に、気づいていなかったわけじゃない。てると海ちゃんに気を取られて話しかけるタイミングがなかった。
 彼女はボクに背を向けて、窓の外を眺めていた。くっきりとした青空がとてもよく映えている。まるで額縁の肖像画みたいに数ミリも動かない彼女に、なんて声をかけようかと考えていると、不意に彼女が顔を正面に向けた。サラサラの黒髪をなびかせて、一瞬覗いた横顔に見覚えがあった。
 ピコーン!と、クイズ番組でよく見るようなボタンが頭の中で反応した。ボクは身体を前のめりにするのと同時に口を開いた。

「ねえねえ。キミ、さっき桜の木のとこで会った子だよね?」

 彼女はピク、と肩を少し震わせた。そして伏し目がちの瞳をゆっくりと上に動かすと、目と目が合った。
 あ、と一音呟いた彼女は、次第に眉をひそめた。切れ長の目から注がれる視線は、睨みつけるというより、怯えているようにも見える。
 それもそうだ。彼女とボクの体格差は座っていても目線がまるで合わない。しかも、いきなり話しかけられたらそりゃあビビるに決まってる。もし逆の立場だったら、と想像すると、彼女の気持ちはわからなくもない。
 ボクはできるだけ彼女と目線を合わせるようにして、控えめに声を出した。

「さっきはごめんね、いきなりあんなこと言って。別に悪い意味で言ったわけじゃなくて……」

 顔の前で両手を合わせながら笑いかける。彼女は無言のままだ。

「ほんと、初対面の子に対して失礼だし、怒るのも仕方ないか……」
「べ、別に怒ってるわけじゃ……」

 彼女は一瞬、目つきを和らげた。これまで固く閉ざしていた口から初めて聞いた声は、少し聞き取りづらかったけれど、透明感のある綺麗な声だった。

「ほんとに怒ってない?」コクリと頷く彼女。
「よかった〜。あ、ボクは鹿嶋レオン。キミの名前は?」
「うら……こ……です」
「うらこちゃん?へえー珍しい名前だね」
「……じゃなくて。浦野、心です……」
「あ、苗字と名前が逆かと思っちゃった。ごめんごめん、浦野ちゃんね。改めてよろしく!」
「……う、うん」

 彼女の声に被さるように、みなさんおはようございまーす、と白髪交じりでふくよかな体型の中年男性がのそのそと教室に入ってきた。その後ろに続いて、爽やかな笑顔の若い男性が「おはようございます!」と声を張り上げてスタスタと歩いてくる。
 ふくよかな中年男性は担任の清水先生、爽やかな笑顔の男性は副担任の林先生という。性格はそれぞれ違いそうだけど、厳しめな先生じゃなくてひとまず安心した。時々いるじゃない、担任ガチャで外れの先生に当たること。
 二人の先生の軽い自己紹介が終わり、清水先生が一日の流れをざっくりと説明する。その後、入学式のために体育館へ向かったボクたちだが、校長先生の話がやたらと長かったことしか覚えていない。式が終わり教室に戻った途端、どっと疲れが押し寄せてきた。やっぱりボクはじっとしてることが苦手だ。
 今日は配布物をもらうほか特にやることがないので、午前中で帰れるのが嬉しい。ただし、明日から早速授業が始まるのが憂鬱ではある。
 
「明日から授業が始まるので、みんな気を引き締めていきましょう。それではさようならー」

 先生たちが教室を出た途端、空気が一気に緩んだ。ガタガタと椅子を引く音や誰かの笑い声があちこちから聞こえる。

「はー、入学式だけなのにすげー疲れた」

 海ちゃんが大きく伸びをしながらぼやく。

「こんなんで疲れてたら、明日からやっていけないぞ」

 てるが海ちゃんの両肩をバシバシと叩く。ボクもリュックを背負いながら言った。

「そうだよ海ちゃん、バテるの早すぎ。ボクなんてもうお腹ぺっこぺこ。さっきからお腹が鳴りそうでさ〜」
「食い意地張ってんな、お前」海ちゃんがジロリとボクを見上げる。
「じゃ、昼メシ食いに行こうぜ」と、てるが言う。「どこ行く?」
「ラーメン」

 海ちゃんが即答する。ボクとてるは顔を見合わせ、フッ、と吹き出した。

「やっぱり!そう言うと思った。ねえ?てる」
「うん。海ちゃんはラーメン大好物だからな」
「うっせ。グズグズしてると置いてっからな!」

 海ちゃんが先陣を切って歩き出す。その後ろに続く、にやけ顔のてる。
 ボクはお母さんにてるたちとお昼を食べることをラインで知らせ、スマホをズボンのポケットに押し込んだ。少し遅れて二人に追いつこうと扉の前まで来た時、視界の左端に人影が見えた。

「先どうぞ、うらこちゃん」

 手のひらを扉に向けると、「う、うらこちゃん……?」と彼女は困惑の表情を浮かべた。身長差のせいで微妙に目線が合わない。
 
「なんかこっちの呼び方、可愛いなーって思って呼んでみた。あ、嫌なら全然変えるよ」
「別に、なんでもいいけど……」

 そう言って歩き出した。小さな背中に向かって「また明日ね!」と手を振ると、うらこちゃんは一度、ボクの方をチラリと見た。

「……また」

 それだけ言うと、ペコリと頭を下げてスタスタと行ってしまった。
 ボクは宙に浮いたままの右手を無意識に首元へやる。
 まだボクのことを怖いと思ってるのかな。それとも、ただ緊張してるだけ?
 どちらにせよ、これから話す機会はいくらでもあるんだから、少しずつ仲良くなっていけばいっか。そう、自分に言い聞かせた。
 てると海ちゃんと三人並んで校門へ向かう。風に吹かれて花びらが舞い散り、辺り一面が絨毯みたいになっている。
 ローアングルからも桜の木を撮影してみたかったけれど、ボクの腹の虫がさっきからずっと主張が激しい。今は断然、花よりラーメンの気分である。
 

 2 埋まらない空白
 
 入学式から一週間。クラスには、前からの知り合いみたいな顔をしたグループがいくつかできていた。初日の緊張感が嘘みたいに消えて、すっかり賑やかな日々が続いている。
 ボクも二、三日の間にクラスメイトのほぼ全員と打ち解けることができた。
 休み時間はいつもてるや海ちゃん、陽気な仲間たちと集まって、くだらない話をして、笑って騒いでいる。ボクが変なことを言えばすかさずツッコまれ、時にはじゃれ合ったりして。そんな日常が楽しくて居心地がいい。
 
「おっはよー!」

 週明けの月曜日。教室に滑り込んできたボクに、てると海ちゃんが「おはよう」「おっすー」とそれぞれ返す。

「ギリッギリだな」てるが笑いながら言う。
「朝起きたら家出る十分前でさ、慌てて着替えたらネクタイ家に忘れちゃって。で、さっき校門のとこで長瀬先生に見つかり、そのまま生徒指導室行き」
「あーだからネクタイ手に持ってんだ」
「長瀬の餌食になったら逃げらんねーからな。ドンマイ」

 海ちゃんが面白おかしくガハハ、と笑った。
 長瀬先生は体育担当兼、生活指導部の一番偉い人だ。ほぼ毎朝校門の入り口に立って、鬼の形相のような鋭い目つきと野太い声で生徒たちに挨拶をしている。
 その目にレーザーでもついているのか、制服の着こなしの少しの乱れも逃さない。例えばネクタイを緩めていたり、シャツの第一ボタンを開けていると速攻で飛んでくる。
 ボクは初めて長瀬先生を見た時、その体格の良さも相まって、中学で習った金剛力士像みたいだと思った。
 
「ねえねえ、一時間目って音楽だっけー?」
 
 長瀬先生から渡された予備のネクタイをつけながら話しかける。ネクタイの結び目は固定されていて、その上は取り外し可能な輪っかになっている。

「そうだよ」てるの声が返ってくる。
「朝から歌っても声出ないよねぇ……。よし、オッケー」

 パチン、と留めるだけで簡単にネクタイがつけられるなんて進化してるなぁ。そんなことを考えていると、チャイムが鳴った。クラスメイトがバタバタと自分の席へ戻っていく。
 今まで空席だったボクの隣にも、前方からうらこちゃんがトコトコ歩いてやってきた。

「おはよう!うらこちゃん」
「……おはよう」

 それだけ言うと、うらこちゃんはスッと前を向いた。背筋をピンと伸ばして、お行儀よく座っている。
 今日も寝癖の見当たらない、綺麗に整えられたボブヘアを下ろしている。その髪からわずかに見える横顔。切れ長の目は一点を見つめたままで、なにを考えているのかまるでわからない。
 うらこちゃんは基本、自分から話題を振ることはない。それこそ入学して数日はボクから会話を切り出すも、「うん」とか「そうなんだ」と相槌を打たれてすぐに終わってしまうのがオチだ。いつもただ静かに、ボクの話に耳を傾けてくれる。もし無視されていたら、ボクもきっと拗ねていたかもしれないが、たとえ一言二言でも、返事が返ってくるだけまだマシとも思える。
 ただ、うらこちゃんとの距離は一番近いのに一番遠く感じる。
 入学式の日、ボクの失言に対して怒ってない、と言っていたけれど、まだ許していなかったとしたら?
 人との会話なんて大抵は覚えていないものだ。でも自分にとって印象に残る言葉は、一生忘れられないことだってある。
 自業自得なのはわかっている。だけどボクとしては、せっかく隣の席になったのだから仲良くしたいと思っている。けれど、うらこちゃんからシャッターを閉じられてしまっていてはどうすることもできないのだ。
 
 一年生は入学前に音楽、美術、書道の中からどれか一つ教科を選択することになっている。ボクはとりわけ得意と言えるものがなかったから、消去法で音楽を選んだ。
 これから音楽室に移動だ。なのにボクは、ロッカーを覗き込んでガサゴソと教科書を探していた。

「おーい、まだか?置いてくぞー」

 海ちゃんが教室の入り口から大きな声を出す。その隣では、てるも一緒に待機している。やっとこさ教科書を見つけ出し、バタバタと二人の元へ駆けて行く。

「ごめんお待たせ!教科書全然見つかんなくて」
「朝のうちに、今日授業で使うやつを机の下に用意しとけばいいんだよ」
「あ、たしかに。てるあったまいい~」
「いや普通じゃね?」

 三人並んで音楽室に移動する。座席は教室と同じ。ただし、会議室で使うようなローテーブルが縦に六列分置かれていて、教室よりも広い空間のため椅子をくっつけ合って話せるような距離じゃない。てるたちと若干距離ができてしまい、少し寂しい気分で席に着いた。
 うらこちゃんはすでに着席していて、前の席のうさちゃんと話をしていた。うさちゃんは高めの位置にツインテールをしていて、いつもニコニコしている印象の女の子だ。動くたびにツインテールがウサギの耳みたいに跳ねるのと、苗字が宇佐美なのをもじってうさちゃん、と呼んでいる。
 ボクは最初、うさ耳をイメージしてツインテールなのかと思っていたら、アイドルの推しの髪型を真似してるのだと言われたことがある。
 二人がいつ友だちになったのかは知らないが、一緒にいる姿をよく見かける。昼休みも、移動教室も、放課後も、まるでセットのように仲良く並んでいる。
 男子特有かもしれないが、ボクの周りには、肩を組んだり小突き合ったり、そういう距離感でつるんでいる人が多い。声が大きくてよく笑い、授業中に先生から注意を受けることもしばしば。
 でもうらこちゃんたちは真逆で、ボクのいるグループとは別世界だ。
 チャイムと同時に、音楽担当の香山先生がやってきた。教室中に響き渡る声でごきげんよう、と挨拶をする。
 内巻きボブヘアで前髪を横に流し、くりっとした大きな目が特徴的。年は五十代くらいだと思うけど、ミュージカル女優のようなハキハキとした口調とお洒落な私服姿で、随分若く見える。

「教科書十ページ。前回に引き続き、『今、咲き誇る花たちよ』を練習します。そうそう。先に言っておきますと、音楽は中間テストには含まれません。その代わり歌のテストを行いますので、みなさんしっかり練習しましょうね〜」

 にこやかに話す香山先生とは対照的に、生徒たちからは「えーっ」とブーイングが起こった。香山先生はその反応がくることをわかりきっていた様子で、笑顔のまま胸の前でパチン!と大きく手を叩いた。

「そんなに嫌がらないの!考えてごらんなさい、難しい音楽用語や音符を覚えるよりも、歌うほうがはるかに楽じゃないの」
「それ、音楽の先生が言うセリフちゃうやん」

 ボクの前に座るみっちゃんが振り返って、「なあ?」と小声で笑いかけてきた。
 センターパートに分けた前髪に、韓流アイドルのような端正で品のある顔立ちのみっちゃん。喋り出した途端に目立つ、軽快な口調と関西弁のギャップが面白い。
 ボクも香山先生にバレないよう、声のボリュームを抑えて耳打ちする。
 
「でもさ、ああいう優しい感じの先生に限って、テストでエグい問題出してこない?」
「そやな。騙されたらあかんわ」
「そこっ、お喋りしないよ」
 
 突然、電流が流れたかと思った。ボクもみっちゃんも肩をビクッとさせ、急いで正面に向き直る。前方にいる香山先生と目が合った。口角が上がっていたが今にも獲物を捕らえるような目つきで見つめられ、背筋がぞくりとした。
 
「耳良すぎない……?」
 
 香山先生が話を再開させてから、ボクはボソッと呟いた。今のは完全に独り言のつもり。すると、隣から「うん」と小さな声が返ってきた。ただの相槌じゃなく、少し笑みを含んだような声色に、ボクは驚いてうらこちゃんを見下ろした。
 真っ直ぐ前を向いたままのうらこちゃんが、ほんの少しだけ口角を上げた……気がした。
 ――今、笑った?
 いや、気のせいかも。表情は髪の毛に隠れてわかりにくいし。
 でも……それでもボクは、なんだかちょっと嬉しくなった。

 
 3 陽だまりの音色

 朝からずっと雨が降っている。音楽室の窓ガラスに張りついた細かい水滴が、そのまま伝って下に流れていく。何度かその流れを目で追いかけていると、反射した窓ガラス越しに、てるが近づいてくるのが見えた。てるはボクの隣に立つと、「止まないな」と窓の外を見ながら言った。

「レオンは練習しなくていいのか?それとも余裕って感じ?」
「まあね~」
「オレはぜんっぜん自信ねえ……。歌とかマジで苦手でさ」

 いつのまにか海ちゃんもボクの真横にきていた。海ちゃんは相当自信がないらしく、珍しく朝からテンションが下がり気味だった。お昼はガツガツお弁当を食べていたけれど。
 事前に知らされていた通り、六時間目は歌のテストだ。当日いきなり抜き打ちされないだけ、まだ救われたと思う。そこは香山先生なりの優しさなのだろうか。
 ボクは海ちゃんの肩をポン、と叩く。

「大丈夫!たとえ海ちゃんが音痴でも、ボクは拍手を送るよ」
「煽ってんのか?あん?」
「違う違う。頑張ったねって意味を込めて慰めるんだよ」
「結局慰めてんじゃねーか。つか、なんでお前はそんな余裕ぶっこいていられんだよ」
「だって、ボクのペアはうらこちゃんだし」
「浦野?」海ちゃんが目線の先にいるうらこちゃんを見る。「どう関係してんだよ」
「浦野さんは合唱部だから、だろ?」てるがボクの顔を覗き込む。

 返事の代わりにうんうん、と大きく頷いた。海ちゃんはへえ、と言っただけで、すぐに手にしていた教科書に目を落とした。
 テストは二つのパートに分かれて歌うので、隣の席同士で受けることになっている。
 正直、うらこちゃんが運動部のイメージはなかったので文化部の予想は当たっていた。けれど、合唱部だと知った時は少し意外に思った。
 普段は口数が少なくて、授業中に発言をする時も消極的なうらこちゃん。そんな彼女が歌う、というイメージが全然沸かなくて、むしろ恥ずかしがりそうだとも思っていたのだ。でも、ボクみたいな素人とはレベルが違うだろう。そんな相手とペアだなんて心強いに決まっている。
 うらこちゃんは今、うさちゃんと向かい合って練習している。顔を近づけて、触れそうなくらいの至近距離で。
 授業で歌った時は、香山先生の伴奏と周りの声に被さって、うらこちゃんの歌声はあまりわからなかった。だから今日は、ちゃんと聴けるチャンスでもある。
 どんな声で歌うんだろう。どんな表情で――。
 ぼんやりとした頭の中に突如鳴り響くチャイムの音。ついにテストの時間が始まる。ざわついた教室の外では、雨だけが無関係なフリをして降り続いていた。

「てる、海ちゃん。テスト頑張ろうね!」

 ボクはぎゅっと握り拳を差し出す。二人も同じように拳をつくり、ガツン、と当ててきた。
 ……もうちょっと手加減してくれないかなぁ。
 ちょっとだけヒリヒリする拳を撫でながら席に着いた。
 
「みなさんごきげんよう~」

 いつもよりワントーン高い声の香山先生が登場。今日はベージュのセットアップに、首にスカーフを巻いている。相変わらず私服姿がお洒落だ。
 初めに一度、全体を通して歌い、改めてテスト内容の説明を受ける。

「え~テストを始めるにあたっての注意事項なんですが、まず一つ目。教科書を見てもいいですが、目線は常に上を意識すること。本当は覚えてきてもらうのが一番なんだけど、私もそこまで鬼じゃないのでね」

 意味ありげにニコッと笑う香山先生。
 
「それから二つ目。前回の授業でも言いましたが、テスト中は他の教科のテスト勉強をしても構いません。ただしお喋りは厳禁です。もしそのような行為が見られた場合、減点しますのでお気をつけくださいませ。最後に三つ目。歌う時は笑顔を心がけてください。歌詞を間違えたり音程を外しても、堂々と楽しむ気持ちで歌うことが大切です。それでは早速始めま〜す」

 名前を呼ばれて、トップバッターの二人がピアノの前に並んだ。
 中間テストを間近に控えているので、一応ボクも真面目なフリをして、数学の課題を持ってきた。しかし、香山先生が弾き始めた伴奏に意識を持っていかれて、ついシャーペンを持つ手が止まる。そもそも歌のテストの真っ最中に別の教科の勉強をするなんて、よっぽど器用な人でない限り無理な話だろう。

「は~い、ありがとう。次、宇佐美さんと笠井くん」
 
 香山先生に呼ばれて、前の二人が立ち上がった。出席番号が早いと、テストの順番も必然と早い。
 いよいよ次か……。
 テストは曲の一番と転調するラスサビまで。一番のサビが終わる頃、ふと隣を見ると、うらこちゃんが俯いて膝の上で手をぎゅうっと握り締めているのが目に入った。その手をよく見ると小刻みに震えている。

 ――大丈夫?

 前に小声で話していたにもかかわらずバレてしまった経験から、ボクはノートの白紙のページに字を書いた。そっとうらこちゃんの前にノートを差し出す。髪の毛に隠れて表情は見えなかったが、黙ってノートを凝視していた。恐る恐るシャーペンを持ってなにかを書き始めると、ノートは再びボクの前にやってきた。

 ――緊張しすぎちゃって……。

 合唱部なのに?と一瞬思ったが、すぐにその考えを打ち消した。本番前は誰だって緊張するだろうし、別におかしなことではない。
 にしても、手が震えるなんて相当ヤバいんじゃないか。
 もうすぐ曲が終わる。どうしよう。できるのか?最悪、パスしてもらおうか……。
 ぐるぐると思考を巡らせているボクにお構いなしに、香山先生が伴奏を止めて口を開いた。

「は~い、ありがとう。次、浦野さんと鹿嶋くん」

 うらこちゃんの名前が呼ばれた瞬間、わずかにクラスの空気が揺らいだ気がした。
 このクラスに合唱部員はただ一人。みんながチラチラとうらこちゃんを見て、期待の眼差しを向けているのがわかった。そんなみんなの表情とは裏腹に、うらこちゃんは不安げな顔でゆっくりと立ち上がる。
 こんな調子でテストは上手くいくのだろうか。ボクは人前で歌うことは嫌いじゃないし、もし失敗したとしても笑って誤魔化そうと思っていたからそこまで緊張感はなかった。けれどうらこちゃんを見ていたら、なんだかこっちまで緊張感が伝わってくる。
 不意に、香山先生の言葉を思い出した。
 そうだ、ボクたちは二人で歌うんだ。

「うらこちゃん」
 
 ボクの声に反応して、うらこちゃんがゆっくりと見上げた。

「あんま難しく考えなくていいよ」

 周りの人に聞こえないくらいの声で囁くと、うらこちゃんは首を傾げた。そんなうらこちゃんに向かって、ボクは笑顔で親指を立ててみせる。

「一緒に楽しもう」

 うらこちゃんはなにかを決心したような顔つきになり、コクリと頷いた。
 二人でピアノの前に並んで立つ。うらこちゃんが小さく深呼吸をした。ボクも真似してみる。新鮮な空気を取り込むと、不思議と落ち着いて上手くいきそうな気がしてきた。
 正面を見据えたボクたちの目が合図となり、前奏が始まった。同時に重なる、二人の息を吸う音。サビまではユニゾンが続くので同じ音程を辿っていく。
 今咲き誇る花たちよ、天高く羽ばたけ――。
 サビに入った瞬間、ガラリと空気が変わった。
 陽だまりのようにあたたかく、音楽室いっぱいに広がる伸びやかな声。ボクより二回りくらい小さな身体から出ているとは思えないほど、芯の強い声量に圧倒される。身長差なんてもはや関係なかった。
 チラリとうらこちゃんを見る。まっすぐ前を向き、伴奏に合わせてゆったりと身体が揺れていた。心の底から楽しそうな笑顔で。
 さっきまでガチガチに緊張していた子と同一人物だなんて、誰が信じられるのだろうか。
 自分のパートに集中させるため教科書に目を落とす。声は出しているのに、どんどん自分の声が遠のいていく感覚がした。
 
「信じーた空見上げてるー瞳のようにー」

 最後の音を伸ばし終えると同時に、伴奏も余韻を残して止まった。降り続ける雨音が、やけに大きく聞こえる。

「は~い、ありがとう」

 香山先生の声で現実に引き戻され、どこからか拍手がまばらに聞こえてきた。二人で軽くお辞儀をして席に戻る。
 椅子に座るなり、やったね、とピースサインを掲げた。うらこちゃんはきょとんとした顔でボクを見つめ、机の下で控えめに同じポーズをしてみせた。どこか吹っ切れたような清々しい表情に内心ホッとした。
 次のペアの歌が始まる頃には、うらこちゃんはワークを開いて黙々と取り組んでいた。ボクもシャーペンを持って途中やりの課題に取り掛かろうとするも、なぜか心がザワザワして落ち着かない。うらこちゃんの歌声が耳の奥に残っているのだ。
 うらこちゃんは自分から話を振らないし、自分のこともあまり話そうとはしない。相手がボクだからってのもあるのかもしれないけど、感情をあまり表に出さない、クールな子だと思っていた。
 でも違った。照れ屋さんだけど、歌うことが好きで、声だけで感情表現ができて、その場の空気も変えられる。すごい子だ。
 今まで見えなかった部分がそぎ落とされて、うらこちゃんの新しい一面を知れた気がした。
 
「うらこちゃんって、歌うとマジで別人だよね!」

 帰りのホームルームが始まる前、リュックに教科書を詰めているうらこちゃんに声をかけた。一瞬ピクッ、と手が止まり、ボクに視線を送る。が、すぐに逸らされてしまった。よく見ると、耳が赤く染まっている。
 うらこちゃんは俯きがちに口を開いた。

「いつもああなの。部活のコンクールでも舞台袖でガチガチに緊張しちゃって……。でも、歌い始めたら全然平気っていうか」
「あー、歌えば緊張してたのが忘れられる的な?」
「……多分、そんな感じ」
「すごいね。あんな笑顔で歌ってるとこ見たらさ、マジで歌うのが好きなんだなぁって思ったよ。しかも天使みたいに綺麗な声だし。ほんっとに感動した!」

 声を弾ませて言うと、うらこちゃんは小柄な身体をさらに縮こませてしまう。それから、ボクを見て躊躇いがちに口を開いた。

「鹿嶋くんも……いい声だったと思うよ」
「へえ?」

 意外すぎる言葉に、つい間抜けな声が出た。うらこちゃんは苦笑しながら言う。
 
「前、部活の時に香山先生に言われたの。彼、声質はいいから合唱部にスカウトしたらどうって」
「声質は、ってなんだよー。まるでそれ以外はダメですみたいな言い方だなぁ」

 ボクがぶてくされると、まあまあ、となだめるようにうらこちゃんが制した。
 
「てか、しのぶちゃんって合唱部の顧問だったんだ」
「うん」
「やっぱりビシバシ厳しく指導されるの?授業の時みたいに」

 ボクの言葉に「うーん……」と首を傾げるうらこちゃん。

「ズバッと言われることはあるけど……ちゃんと的を射た指摘だし、それに意外と優しい人だよ。のど飴くれたこともあったし」
「ええ〜マジで?」

 目を丸くするボクに、うらこちゃんは目線をやや下に向けて言う。

「どっちかっていうと、授業の時のほうが厳しい気がする……」
「それ多分、ボクにだけ厳しいんだと思うよ。この前廊下ですれ違った時、その声量を活かした歌のテスト期待してるわ、ってニコニコしながら言ってきてさ。嫌味ですか~?って思った」

 肩をすくめて笑った瞬間、「ちょっといいですかー!」と甲高い声が耳に突き刺さった。ビクッ、と肩を震わせて身体を起こすと、香山先生が慌てた様子で教室に入ってくるのが見えた。何の用だ?と言わんばかりに、クラスメイトたちが一斉に香山先生に注目する。

「すみません、さっき伝えそびれていたんですが、次の授業でリコーダーを使うので忘れずに持ってきてくださいっ。以上、ごきげんよう~」

 早口でまくし立てるように言い、バタバタと教室を去っていった。クラスメイトたちはぽかーんとしていた顔を戻し、何事もなかったようにお喋りを再開させる。女子の学級員長、大野ちゃんが小走りで後ろの黒板へ向かった。連絡事項の欄に『次週、音楽リコーダー必須』とチョークを走らせる。
 ボクは再び、うらこちゃんを見た。

「ビビった……またボクの声が聞こえてたのかと思った。こんな教室の隅っこにいるのに」
「さすがにそれは……でもすごいタイミング」
「それな?しのぶちゃん、絶対エスパーだと思う」
「エスパー……?」
「決めた。しのぶちゃんの前では常に無口でいることにする。す~ぐ心の声を聞かれちゃうから」
「でも顔には出てるよ」

 サラッと言い放ったうらこちゃんに、ボクは「なんだって……?」と目を見開く。
 わざとらしく作った驚き顔が面白かったのか、うらこちゃんはフッ、と小さく吹きだした。

「なに、その顔」
「なにって、元からこういう顔だよ。失礼な!」

 つられてボクも笑ってしまう。

「なーんてね。ボク嘘とかつくの下手だからさ、わかりやすい奴ってよく言われるんだ」
「やっぱり」
 
 うらこちゃんは三日月みたいに目を細め、徐々にやわらかい表情になった。
 初めてだ、こんなに長く話せてるのは。驚きと嬉しさが混ざり合う、なんともいえない気持ちだった。完全に心を開いてくれたわけじゃないと思うけど、一歩前進しているのは間違いない。
 いつの間にか雨は止んでいた。穏やかな陽射しが窓ガラスに反射して、キラキラ輝いて見えた。