『君と見つけた、春色の約束』

 春風が頬をなでるたび、桜の花びらが空を泳ぐ。

 四月。大学の入学式。

 真新しいスーツ姿の学生たちが笑い合い、キャンパスには期待と緊張が入り混じった空気が漂っていた。

「……人、多すぎるだろ」

 神崎陽斗は肩をすくめ、小さく息を吐いた。

 十八年間生きてきて、人混みが好きになったことは一度もない。

 高校では目立たず、放課後はゲームか読書。友達は少なく、それでも不自由だとは思わなかった。

 けれど今日だけは少し違う。

(大学なら……少しは変われるかな。)

 そんな期待を胸に、構内を歩き始めたその時だった。

 ひらり。

 一冊のスケッチブックが風に乗って足元へ滑ってきた。

「ん?」

 拾い上げると、開いたページには満開の桜。

 鉛筆だけで描かれたとは思えないほど繊細で、今にも花びらが舞いそうな絵だった。

「すみませーん!」

 遠くから明るい声が響く。

 振り向くと、一人の女の子がこちらへ駆けてきた。

 肩まで伸びた黒髪が春風に揺れ、白いブラウスに淡い水色のカーディガン。走るたび、小さな桜の髪飾りが揺れる。

「それ、私のです!」

 少し息を切らせながら笑うその姿に、陽斗は思わず見入ってしまった。

「あ、どうぞ。」

「ありがとうございます!」

 スケッチブックを受け取った彼女は、ページをめくって安心したように胸をなで下ろす。

「よかったぁ……これ、昨日徹夜で描いたんです。」

「そんなに大事なものだったんだ。」

「はい。落としたら泣いてました。」

 そう言って、くすっと笑う。

 初対面なのに、不思議と話しやすい。

「私、朝比奈美緒です。美術学科一年!」

 彼女はにこっと笑って手を差し出した。

「神崎陽斗。経済学部。」

 ぎこちなく握手を返す。

「よろしくね、神崎くん!」

「……よろしく。」

「緊張してる?」

「え?」

「顔に『帰りたい』って書いてある。」

「そんなに分かりやすい?」

「うん、すっごく。」

 美緒は声を上げて笑った。

 その笑顔は、春の日差しよりも眩しく見えた。

 陽斗は少しだけ照れくさくなり、視線を逸らす。

「高校でもあんまり友達作るの得意じゃなくて。」

「私もだよ?」

「え?」

「信じてないでしょ。」

「……少し。」

「ひどーい!」

 二人で笑う。

 たったそれだけなのに、さっきまで感じていた緊張が少しずつ溶けていく。

「そうだ!」

 美緒が何かを思いついたように手を叩く。

「お礼がしたいから、一緒に学食行かない?」

「いや、悪いよ。」

「悪くないよ! スケッチブック拾ってもらったお礼!」

「でも初対面だし……。」

「だから仲良くなるんじゃない?」

 あまりにも真っすぐな言葉だった。

 陽斗は断る理由を探そうとして、結局見つけられない。

「……じゃあ、少しだけ。」

「やった!」

 美緒は子どものように笑った。

 その笑顔を見ていると、不思議とこちらまで嬉しくなる。

 学食は新入生でいっぱいだった。

 二人は窓際の席に座り、カレーライスと日替わりランチを前に向かい合う。

「神崎くんって趣味ある?」

「読書かな。あとゲーム。」

「インドア派だ。」

「完全に。」

「私は絵を描くことと、写真を撮ること!」

「さっきの絵、すごく上手だった。」

 その一言で、美緒の目がぱっと輝く。

「本当?」

「うん。写真かと思った。」

「えへへ……ありがとう。」

 照れたように笑う美緒を見ていると、陽斗の胸が少しだけ高鳴る。

(かわいい……。)

 そんなことを考えた自分に驚き、慌てて水を飲んだ。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。」

「変なの。」

 また笑う。

 その笑顔を見るたびに、陽斗の心は少しずつ温かくなっていった。

 食事を終えたあと、美緒はキャンパスの中央にある大きな桜の木の前で立ち止まった。

「ねえ、神崎くん。」

「ん?」

「この桜、四年間ずっとここで咲くんだって。」

「そうなんだ。」

「卒業する日も、きっと咲いてる。」

 美緒は空を見上げる。

 花びらが一枚、彼女の肩に舞い降りた。

「だからね。」

 彼女は花びらを指先でつまみ、優しく微笑んだ。

「卒業の日も、この場所でまた会えたらいいね。」

 その言葉に、陽斗は少しだけ照れながら笑う。

「ああ……その約束、いいかも。」

 二人は桜を見上げた。

 春風が花びらを運び、青空いっぱいに淡い桜色が広がっていく。

 このときの陽斗は、まだ知らなかった。

 この出会いが、自分の大学生活を、そして人生を大きく変えていくことを──。