午後の仕事に一区切りついて、資料を閉じた時だった。
「亜矢ちゃん」
同じグループの先輩がデスクの横で足を止めた。
「聞いた? 広瀬さん、倉庫で怪我したらしいよ」
「え?」
すっと頭の血が落ちていくのを感じる。
「崩れてきた荷物をよけようとして、切ったんだって。―――腕を」
そのあとの仕事をどうこなしたのか、ほとんど覚えていない。
広瀬君は病院へ向かったと上司から聞いたものの、傷の深さも、無事に処置を終えたのかもわからない。交際を会社に隠している以上、詳しく尋ねるわけにもいかなかった。
電話をしようか。メッセージだけでも送ろうか。いや、でも治療中かもしれない。
何度もスマホに手を伸ばしては引っ込める。その繰り返しのまま、時計の針だけが進んでいった。
終業時間が近づいたころ、不意に後方で人のざわめきが起こった。
振り向けば、広瀬君が自席に腰を下ろしたところだった。目が合うと、「大丈夫」と言うように小さくうなずく。
その姿を見て、肩の力が抜けた。
すぐに彼の周りに同僚たちが集まり始める。
私も同期なのだから、その輪に混じって声を掛ければいい。なのに、足が動かなかった。人前でいつも通りに振る舞える自信がなかった。心配する気持ちが同期以上のものだと、皆に気付かれてしまいそうで。
照明が消され、ひとりふたりと人が減ってから、ようやく私は席を立った。広瀬君の机まで行くと、先に言葉を発したのは彼のほうだった。
「ごめん、亜矢。せっかくのシャツ、ダメにしちゃったよ」
そんなこと、と首を振る。
怪我までしたのに、広瀬君が真っ先に気にしたのは私と選んだシャツのことだ。こんなときにも私の気持ちを慮ってくれる彼の優しさが胸に沁みて、言葉が出てこない。見れば、サックスブルーのシャツは左袖が裂け、赤黒く乾いた血の痕が残っていた。やっと、声を絞り出す。
「……痛む?」
「まあ、五針縫ったからね。多少は」
そう言って苦笑しながら広瀬君は袖をめくった。白いガーゼに覆われた腕が現れる。
「まいったな。こんなんじゃ、しばらくは亜矢に腕まくりを見せられない」
思わず顔を上げた。
「……気付いていないと思った?」
広瀬君は口元をほころばせている。
「入社した時からずっと亜矢のこと見てたんだ。亜矢って腕まくりしてる人を見つけると、すごく嬉しそうな顔をする。その顔を見たくて、俺もわざと袖をまくってた」
新人研修、会議のあと、飲み会、電車の中、シャツの試着――その時どきの腕まくり姿が思い出された。
点だった記憶が、線になって繋がっていく。
あの何気ない腕まくりは偶然じゃなかった。全部、私に向けられた、小さなアピールだったのだ。
「黙っていて……ごめんなさい」
私は頭を下げた。
いつの間にか、フロアには私たちしか残っていなかった。人の気配の消えたオフィスは、互いの息遣いまで聞こえそうなほど静まりかえっている。
「私……男の人の腕まくりした姿が好き。かっこいいなって思う。広瀬君に惹かれたのも始めはそこからだった。でも、怪我をしたって聞いて……広瀬君が痛い思いをしているんじゃないかって、すごく心配だった。頭に浮かんでくるのは、一緒に過ごした毎日のことばかりで……」
「亜矢……」
広瀬君がゆっくりと椅子から立ち上がった。
見上げた先の瞳から、もう目をそらさなかった。
「だから、ちゃんと伝えたいの。今、私が好きなのは、広瀬君自身なんだって」
広瀬君は、一瞬息をのんだ。
やがて彼は、右手を伸ばし、そっと私の頬に触れた。
「ありがとう。きっかけなんて、何でもいいんだ。亜矢が今、俺を好きだと思ってくれているなら」
「広瀬君……」
腕まくり姿に心を奪われた私も、その先で彼を好きになった私も、ありのままに受け止められた気がした。
この手をずっと、離したくない。
私は広瀬君の手に自分の手のひらを重ね、優しい温もりを味わうように目を閉じた。
「亜矢ちゃん」
同じグループの先輩がデスクの横で足を止めた。
「聞いた? 広瀬さん、倉庫で怪我したらしいよ」
「え?」
すっと頭の血が落ちていくのを感じる。
「崩れてきた荷物をよけようとして、切ったんだって。―――腕を」
そのあとの仕事をどうこなしたのか、ほとんど覚えていない。
広瀬君は病院へ向かったと上司から聞いたものの、傷の深さも、無事に処置を終えたのかもわからない。交際を会社に隠している以上、詳しく尋ねるわけにもいかなかった。
電話をしようか。メッセージだけでも送ろうか。いや、でも治療中かもしれない。
何度もスマホに手を伸ばしては引っ込める。その繰り返しのまま、時計の針だけが進んでいった。
終業時間が近づいたころ、不意に後方で人のざわめきが起こった。
振り向けば、広瀬君が自席に腰を下ろしたところだった。目が合うと、「大丈夫」と言うように小さくうなずく。
その姿を見て、肩の力が抜けた。
すぐに彼の周りに同僚たちが集まり始める。
私も同期なのだから、その輪に混じって声を掛ければいい。なのに、足が動かなかった。人前でいつも通りに振る舞える自信がなかった。心配する気持ちが同期以上のものだと、皆に気付かれてしまいそうで。
照明が消され、ひとりふたりと人が減ってから、ようやく私は席を立った。広瀬君の机まで行くと、先に言葉を発したのは彼のほうだった。
「ごめん、亜矢。せっかくのシャツ、ダメにしちゃったよ」
そんなこと、と首を振る。
怪我までしたのに、広瀬君が真っ先に気にしたのは私と選んだシャツのことだ。こんなときにも私の気持ちを慮ってくれる彼の優しさが胸に沁みて、言葉が出てこない。見れば、サックスブルーのシャツは左袖が裂け、赤黒く乾いた血の痕が残っていた。やっと、声を絞り出す。
「……痛む?」
「まあ、五針縫ったからね。多少は」
そう言って苦笑しながら広瀬君は袖をめくった。白いガーゼに覆われた腕が現れる。
「まいったな。こんなんじゃ、しばらくは亜矢に腕まくりを見せられない」
思わず顔を上げた。
「……気付いていないと思った?」
広瀬君は口元をほころばせている。
「入社した時からずっと亜矢のこと見てたんだ。亜矢って腕まくりしてる人を見つけると、すごく嬉しそうな顔をする。その顔を見たくて、俺もわざと袖をまくってた」
新人研修、会議のあと、飲み会、電車の中、シャツの試着――その時どきの腕まくり姿が思い出された。
点だった記憶が、線になって繋がっていく。
あの何気ない腕まくりは偶然じゃなかった。全部、私に向けられた、小さなアピールだったのだ。
「黙っていて……ごめんなさい」
私は頭を下げた。
いつの間にか、フロアには私たちしか残っていなかった。人の気配の消えたオフィスは、互いの息遣いまで聞こえそうなほど静まりかえっている。
「私……男の人の腕まくりした姿が好き。かっこいいなって思う。広瀬君に惹かれたのも始めはそこからだった。でも、怪我をしたって聞いて……広瀬君が痛い思いをしているんじゃないかって、すごく心配だった。頭に浮かんでくるのは、一緒に過ごした毎日のことばかりで……」
「亜矢……」
広瀬君がゆっくりと椅子から立ち上がった。
見上げた先の瞳から、もう目をそらさなかった。
「だから、ちゃんと伝えたいの。今、私が好きなのは、広瀬君自身なんだって」
広瀬君は、一瞬息をのんだ。
やがて彼は、右手を伸ばし、そっと私の頬に触れた。
「ありがとう。きっかけなんて、何でもいいんだ。亜矢が今、俺を好きだと思ってくれているなら」
「広瀬君……」
腕まくり姿に心を奪われた私も、その先で彼を好きになった私も、ありのままに受け止められた気がした。
この手をずっと、離したくない。
私は広瀬君の手に自分の手のひらを重ね、優しい温もりを味わうように目を閉じた。


