会社の給湯室は、私にとって一息つける場所だ。
棚から自分のマグカップを手に取り、備え付けの冷蔵庫を開ける。油性ペンでキャップに”水島”と書いたペットボトルを取り出し、ウーロン茶を注いだ。
一口飲むと、乾いた喉が潤っていく。長く息を吐けば、さっきまで張り詰めていた会議の緊張がようやく和らいだ。
国際物流部の月例報告会。
帰国したばかりの広瀬君も、今回から出席している。
幹部も顔を揃える場とあって、彼のワイシャツの袖のボタンはきちんと閉じられていた。
驚いたのは、広瀬君の仕事ぶりだった。相手の意見を受け入れつつ、必要な情報を示して結論を導いていく。
4年前も、仕事はできた。でも、それはどちらかというと勢いで突き進んでいる、と言ったほうがよかった。今の彼には、海外勤務の経験したからこその自信と余裕があった。広瀬君の意見に、うなずいていた部長たちの姿も印象深い。
(広瀬君……かっこよかったなぁ)
腕まくりをしていない彼も、素敵だった。むしろ、袖口がきちんと閉じられたシャツが、その落ち着きによく似合っていたくらいだ。
「亜矢、お疲れ」
今まさに脳内再生されていた声が聞こえて、私は5センチ跳ね上がった。
「広瀬君!」
彼は給湯室の入り口のドア枠にもたれ、こちらを見ていた。少しだけ首を傾げ、口には悪戯っぽい笑みを浮かべている。シャツの袖は緩く肘の下までまくられて、会議のときには隠れていた前腕がのぞいていた。
「いつから、そこに?」
「……百面相、おもしろかった」
広瀬君は、拳を口に当てて笑い始める。
しまった。
会議中の彼を思い出しながら、あれこれ表情を変えていたところを見られていたとは。
「いるならいるって言ってよね」
照れ隠しにプイとふてくされてふりをして、カラになったマグカップを洗い始めた。
不意に、背後に気配を感じた。振り返る間もなく、私の肩口に影が落ちる。
「……!」
たくましい腕が私の顎の下で組まれ、背中が彼の胸に引き寄せられた。
「ちょっ……誰かに見られたらっ……」
身をよじるけれど、私を包む腕はびくともしない。
「今日の会議の亜矢、やっぱりいいなって……思った」
広瀬君の静かな声が頭上から降ってきた。
その一言に、もがいていた体から力が抜ける。
「亜矢は、誰も気付いていないリスクを、一番最初に見つけてた。いつも一歩先まで考えてるの、すごいと思う。そういうところ、初めて会った時から尊敬してたよ。信頼もしてた。だから亜矢のこと、どんどん気になるようになって……好きになったんだ」
「……」
返す言葉が、見つからなかった。ずっと仕事一筋で走ってきた。ただただ、真面目であろうとして、必死だった。そんな私を、広瀬君は見ていてくれた。
嬉しい、という感情だけでは足りなかった。報われたような、満たされたような、静かな感動がゆっくりとこみ上げてきた。
蛇口から流れ続ける水の音だけが、給湯室に響いている。
――私も、広瀬君が好きだ。
答えが、初めて胸にすとんと落ちた。
彼が会議で見せる真剣な横顔も。
ふたりきりのときに見せる照れたような笑顔も。
シャツの袖を巻き上げる仕草も、腕も。
そして何より、いつも私を見守ってくれる、そのまなざしが――好きだ。
「広瀬さーん、どこです? そろそろ倉庫を見に行かないと……」
廊下から彼を呼ぶ声が飛んできた。
私を包んでいた腕が、名残惜しそうにほどかれる。
広瀬君は、本社に隣接する倉庫にもよく足を運ぶ。「物の流れは机の上だけではわからない」と言っては、現場に確かめに行くのが常だった。
「そうだ」
つま先を廊下に向けかけた彼が振り向いた。
「今度の土曜日、買い物に付き合ってくれないかな。シャツを新しくしたくて。亜矢に選んでもらった服なら、仕事も頑張れる気がするから」
本当に広瀬君は、好意を伝えることをためらわない人だ。
「わかった、いいよ」と答える声が弾んでいた。約束の日が待ち遠しいと思うのはいつぶりだろう。
午後の仕事はまだあるというのに、私の心はもう、週末へと駆け出していた。
棚から自分のマグカップを手に取り、備え付けの冷蔵庫を開ける。油性ペンでキャップに”水島”と書いたペットボトルを取り出し、ウーロン茶を注いだ。
一口飲むと、乾いた喉が潤っていく。長く息を吐けば、さっきまで張り詰めていた会議の緊張がようやく和らいだ。
国際物流部の月例報告会。
帰国したばかりの広瀬君も、今回から出席している。
幹部も顔を揃える場とあって、彼のワイシャツの袖のボタンはきちんと閉じられていた。
驚いたのは、広瀬君の仕事ぶりだった。相手の意見を受け入れつつ、必要な情報を示して結論を導いていく。
4年前も、仕事はできた。でも、それはどちらかというと勢いで突き進んでいる、と言ったほうがよかった。今の彼には、海外勤務の経験したからこその自信と余裕があった。広瀬君の意見に、うなずいていた部長たちの姿も印象深い。
(広瀬君……かっこよかったなぁ)
腕まくりをしていない彼も、素敵だった。むしろ、袖口がきちんと閉じられたシャツが、その落ち着きによく似合っていたくらいだ。
「亜矢、お疲れ」
今まさに脳内再生されていた声が聞こえて、私は5センチ跳ね上がった。
「広瀬君!」
彼は給湯室の入り口のドア枠にもたれ、こちらを見ていた。少しだけ首を傾げ、口には悪戯っぽい笑みを浮かべている。シャツの袖は緩く肘の下までまくられて、会議のときには隠れていた前腕がのぞいていた。
「いつから、そこに?」
「……百面相、おもしろかった」
広瀬君は、拳を口に当てて笑い始める。
しまった。
会議中の彼を思い出しながら、あれこれ表情を変えていたところを見られていたとは。
「いるならいるって言ってよね」
照れ隠しにプイとふてくされてふりをして、カラになったマグカップを洗い始めた。
不意に、背後に気配を感じた。振り返る間もなく、私の肩口に影が落ちる。
「……!」
たくましい腕が私の顎の下で組まれ、背中が彼の胸に引き寄せられた。
「ちょっ……誰かに見られたらっ……」
身をよじるけれど、私を包む腕はびくともしない。
「今日の会議の亜矢、やっぱりいいなって……思った」
広瀬君の静かな声が頭上から降ってきた。
その一言に、もがいていた体から力が抜ける。
「亜矢は、誰も気付いていないリスクを、一番最初に見つけてた。いつも一歩先まで考えてるの、すごいと思う。そういうところ、初めて会った時から尊敬してたよ。信頼もしてた。だから亜矢のこと、どんどん気になるようになって……好きになったんだ」
「……」
返す言葉が、見つからなかった。ずっと仕事一筋で走ってきた。ただただ、真面目であろうとして、必死だった。そんな私を、広瀬君は見ていてくれた。
嬉しい、という感情だけでは足りなかった。報われたような、満たされたような、静かな感動がゆっくりとこみ上げてきた。
蛇口から流れ続ける水の音だけが、給湯室に響いている。
――私も、広瀬君が好きだ。
答えが、初めて胸にすとんと落ちた。
彼が会議で見せる真剣な横顔も。
ふたりきりのときに見せる照れたような笑顔も。
シャツの袖を巻き上げる仕草も、腕も。
そして何より、いつも私を見守ってくれる、そのまなざしが――好きだ。
「広瀬さーん、どこです? そろそろ倉庫を見に行かないと……」
廊下から彼を呼ぶ声が飛んできた。
私を包んでいた腕が、名残惜しそうにほどかれる。
広瀬君は、本社に隣接する倉庫にもよく足を運ぶ。「物の流れは机の上だけではわからない」と言っては、現場に確かめに行くのが常だった。
「そうだ」
つま先を廊下に向けかけた彼が振り向いた。
「今度の土曜日、買い物に付き合ってくれないかな。シャツを新しくしたくて。亜矢に選んでもらった服なら、仕事も頑張れる気がするから」
本当に広瀬君は、好意を伝えることをためらわない人だ。
「わかった、いいよ」と答える声が弾んでいた。約束の日が待ち遠しいと思うのはいつぶりだろう。
午後の仕事はまだあるというのに、私の心はもう、週末へと駆け出していた。


