菫色の署名が導く悪女の契約。甘い悪夢は終わらない

長かった一日がようやく終わる。

美貌の姉弟と同じテーブルに着き、夕食を取らされた時は死ぬかと思った。
音を立ててはいけないことは知っていたし、作法は教わって育ったつもりだ。けれど、所詮は田舎の私生児でしかない。
どうしようと震えていたミレーニアに、セラフィーヌ様は優しかった。

――ヴェルナレット嬢、落ち着いて

やさしい。やさしい。めちゃくちゃやさしい。

――初めての場所で緊張するわよね。今日は私たちと一緒だけれど、しばらくは一人で落ち着いて食事をされてもいいのですよ?

なんと!!女神。美しいだけではなく気遣いの女神でもあった。

そうして明日からは、自室での食事が許され、内心ほっとして、落ち着いた気持ちで食べたご飯は――
美味しかった。本当に、本当に美味しかった。

(……お母さんにも食べさせてあげたかったなぁ)


与えられた自室に戻って。
ひとりになって。

広すぎる部屋。
ミレーニア以外、誰もいない。
大きなベッドにミレーニアひとり。
こんなに大きければ、レネと一緒に寝ることも出来るのに。
多少寝相が悪くたって平気なぐらいだ。

(静かだわ……)

いつもは聞こえていた寝息が聞こえない。
すーすーと規則正しい寝息にほっとして、小さく咳き込む音に起きて。

(お母さん、大丈夫かなぁ……悪化してたりしないよね……)

母は体が弱くて、寝込んでしまうことが多い。
季節の変わり目は特に注意が必要だ。

――本当は王都になんて来たくなかった。
母の傍を離れたくなかった。

あったかくてフカフカのベッド。
美味しいご飯。

そんなもの……ミレーニアには必要ない。
どうせなら、母と代わってあげたい。

(……どうして、お父様は)

本当は父親だなんて思いたくない。
娘として認知されているだけで、母にはなんの手当もない。
ミレーニアの労働によって、母の薬代と最低限の生活費が保証されている。

だから。

ミレーニアはヴェルナレット領に――父に不利益がないよう

契約書を読み込んできた。
書類にサインをしてきた。

(……そういえば)

ビロードの絨毯へと足を下ろす。
素足でも全然痛くない。

部屋の隅の机へと向かい、引き出しの中に仕舞った契約書を取り出す。

文字を指で追いかける。
これも何度も繰り返したから、癖みたいなもの。
見落としはないか、間違いはないか。

間違えてしまえば、母の薬代が払えなくなってしまう。


(……間違いだらけじゃない)

自分は、噂の悪女なんかじゃない。
異性との付き合いって……まぁ領地の人たちとはお付き合いがあると言えばありますけど。
そんな色恋なんて、ずっと無縁だった。

(だって私は……お嬢さま、だもん)

私生児なのに。みんなと同じ“平民”みたいなものなのに。
それでいて、お嬢さまなのだ。
自分はどちらにも属さない。どちらでもない。

母とふたりで生きていく、それだけだったのに。

母と離れて。ひとりになって。
そうして……

嘘だらけの契約。
間違いだらけの契約。

あろうことか、それにサインをしてしまった。
それでも――

(契約だもの)

ひとつ、ひとつ、文字を読み込む。
ひとつ、ひとつ、記憶に刻んでいく。

最後の、最後。
指が、文字を辿る。

そこには自分の名前。

――ミレーニア・ド・ヴェルナレット

皮肉なことに、これだけは真実。

(ああ……わたし……)

今、ようやく気づいた。
自分の名前で署名したことに。

自分以外の名前を書き続けていた。
署名は全て、父の名前だった。

まるでそれが自分の名前であるかのように、何度も、何度も書き続けた。

でも、今、ここにある、これは

(私の――契約、なんだわ)

胸の奥から熱い何かが湧き上がる。
その感情が喜びなのか、悲しみなのか。
それとも苦しみなのか。

ミレーニアには分からなかった。