菫色の署名が導く悪女の契約。甘い悪夢は終わらない

「お嬢さま……」

美貌の姉弟が部屋を去り、その後に続くように侍女も姿を消した。
ようやくレネと二人きりになり、気が抜けて、その場にへなへなと座り込む。
見ればレネも同じように動けなくなっていた。

「……レネ」

立ち上がって彼女のもとに行き、ぎゅっと抱きつけば、抱き返してくれる。

「どうしましょう……わたし単なる田舎のメイドですよ……こんなお屋敷で働くなんて無理……」

レネの嘆きにミレーニアも同意だ。

「私なんて……あの、クレヴォワール侯爵子息の婚約者なんですけど……」
「は!?」

レネの腕が解かれて、驚いたようにミレーニアを見ている。

「っていうか、レネはどうして私たちがここにいると思ってたのよ……」
「確かに……」

レネが部屋中をぐるりと見渡している。
広すぎる部屋には、天蓋付きの大きなベッド、壁一面のクローゼット、豪奢なソファセットに、彫刻の施されたライティングデスクまである。
レネの視線が、再びミレーニアに戻った。

「お嬢様が……侯爵家の婚約者……え?玉の輿?」
「そうだけど……そうだけど!!違うでしょ!!」

喜ぶところではない。
どう考えても無理だ。レネがこの屋敷で働く以上に無理難題だ。

「凄いですね~。領地から一歩も出てないのに、いつの間に見初められたんですか?」
「そんなわけないでしょ!!見なさいよ、このそばかす!!」

いつも気にしている鼻の頭のそばかすを示すと、それこそいつものように「可愛い可愛い」と頭を撫でられる。
だから、そうじゃない。

「……で、どういうことなんです?」

からかわないで欲しい。
自分が置かれた状況より、よりひどい状況のミレーニアに安堵しているに違いない。
むむっと思いながら、くるくると綺麗に丸めて持っていた書面をレネに見せた。

「これが契約書」

クレヴォワール侯爵令息は――この際、レネと話すときはルシアン様でいいか。
ルシアン様は、ミレーニアの手元に残すための控えもきちんと用意してくれていたのだ。

(当たり前と言えば、当たり前なんだけどね……でも、ちゃんとしてる人でよかった)

それでも世の中には口約束で物事を通そうとする輩もいるのだ。
ルシアン様は非常にまっとうな性格であるらしい。

「ん……どれどれ……あ、ほんとですね。婚約契約書って書いてありますね。ラッキーですね。あんな美男子どこにもいないんじゃないですか?」
「やっぱりそう思う?」
「そうとしか思えないですよ」
「王都の貴族はみんなあの感じなのかなぁ?とか」
「そんなわけないじゃないですか」
「……レネ、見たことあるの?」
「無いですけど。あんなのその辺にいっぱいいるわけない」
「なるほど」

ミレーニアと話しながら、レネは契約書を読み進めている。
同じ先生に学んだ癖で、文字を指で辿りながら。

「ふむふむ……なんなんですかね……この異性との付き合いは禁ずるって……あっ!!」

レネが何かを思い出したようだ。

「あ~……」

ちらりとミレーニアを見た後、ぽんぽんと肩を叩かれる。

「え?なに?」
「これはアレですね……」
「あれ?」
「さっきのお姉さまとのやりとりを見る限り」
「お姉さまって……セラフィーヌ様?」
「そうです」
「私とセラフィーヌ様のやりとり?」
「違います。お嬢さまの婚約者の……」
「ルシアン様?」
「おや、もう名前呼び!!」
「まさか本人の前では呼ばないわよ。クレヴォワール侯爵子息って長いでしょ?レネと喋るときぐらいいいじゃない」
「なるほど。残念です」
「何が残念なのよ」
「……で、つまりは」
「つまりは?」
「ルシアン様は当主になりたくない」
「……そう言えばそんなこと言ってた気がする」

(……っていうか、あの美貌の二人の話、そこまで聞いてなかったわ。だって、圧が、美の圧が強すぎて……)

「言ってたんですよ。……で、当主になりたくないということは、当主失格だと思われたいということで」
「なるほど……?」
「そこで、ミレーニア様の噂です」
「私の、噂?……なにそれ?」
「……」

心当たりのない話に訊き返すと、レネが言い淀む。
困ったように。少し辛そうに。
それでも彼女は教えてくれた。

「その……悪女だと」
「……へ?」
「自由奔放で……その……男の間を渡り歩いて……ドレスやら宝石やらをねだって……」
「わ……わたり……あるく?」
「……噂、なんですけどね」
「当たり前よ!!どうやって渡り歩くのよ!!」
「そこはこう……お馬さんとかに乗って?」
「……レネ!!」
「すみません……」

まさかの評判にミレーニアは愕然とする。
言い訳をするかのようにレネが付け加えた。

「まぁ王都に行くことなんてありえないし、変な男に目を付けられることも無いからって……領地では噂のことは気にしてなかったんですけどね……」
「……それはそうだけど……ていうかなんで知ってたの?」
「ベルモンさんがたまに外の話を教えてくれるんですよ」
「……ベルモンさん王都にまだお店ないって……」
「それは、商人なんですから情報は命!なんじゃないんですか?……それにしても、その噂を逆手に取る相手がいるとは……」
「え?……どういうこと?」

ミレーニアは首を傾げた。
するとレネも同じ方向に首を傾げる。

「ルシアン様はお嬢さまという悪女を婚約者にして自分の評価を下げて……」

言いたいことは分かったけど。

「……私……悪女じゃないんですけど?」
「どっちかというと小悪魔ですね」
「はじめて聞いた評価だわ!!」
「おや?そうなんですか?みんなでお嬢さまは小悪魔だって言ってるんですよ?」
「……どこがよ」
「ふふ。そのあたりが」

(全然分からない……)

はぁとミレーニアはため息を吐く。
自分が小悪魔なのかはこの際どうでもいい。
問題は――

父からは侯爵家に従えと言われた。
そのうえ、ミレーニアはこの契約書に署名をした。

つまり……

「男の人を渡り歩いて……ドレスとか宝石とか……ねだらないといけないのよね……」

無理。無理すぎる。
そもそもどうやって男の人に出会うのか。

「大丈夫、そこは大丈夫です」

レネの目がきらりと光った。

「ここに異性との付き合いは禁ずると書かれてます」
「……あ、そういうこと?」

婚約の契約書に、何故こんな一文が?と思っていたのだ。
婚約だからなのか?とも考えていたのだが、悪女の噂のせいだったのか。

「ええ。ですからお嬢さまに求められているのは……」

次の一文を示されて、ミレーニアは固まる。

「……ひぃ……侯爵家の私費で……お買い物……」
「そうなりますね」
「それって……」

書かれている数字を受け止めたくなくて、視線を逸らす。
逸らした先には見覚えのない、開きっぱなしのトランク。
今までの生活では一度も袖を通したことのないドレスが見えた。
白い繊細なレースがふんだんに使われて、幾重にも重なる……布。

「……あれを……買えってこと?」

震える指で示すと、レネの視線がそれを辿っていく。

「そうですよ。ドレスとか、宝石とかを存分に……っていうことですね」
「……え~……」

(……そんな買い物したことないし)

「でも、ほら。男性を渡り歩けって言われるよりいいじゃないですか」
「それはそうだけど……」
「でも、問題は……」

ん~っと顎に人差し指を当ててレネが考え込んでいる。

「……なに?」
「そもそも、貴族令嬢として振舞わないといけないのでは?」
「……」

私生児として、領地でのびのびと生活してきたのだ。
父親が領地に来ることなど無いに等しかった。
顔もよく覚えてない。

家令から行儀作法を教わってはいたが、それが果たして侯爵家で通用する、いや、伯爵令嬢として問題のないレベルなのかは分からない。
誰かと比べることさえなかったのだから。

「……どうしよう。どうしたらいいの?」

応接間で、ルシアン様を待っている間に感じた焦りが、今また、ミレーニアを襲う。

「なるようになれ!!ですよ」

レネがミレーニアを安心させるように、にこにこと笑顔を見せてくれる。

「うう……レネ~」

ぎゅうっと縋りついて『なるようになれ~』と呪文のようにふたりで何度も繰り返す。ぽんぽんと赤子のように背中をあやされ、落ち着きを取り戻す頃には――

「よし!私は悪女!!いける!やれる!」
「ええ!小悪魔だったんですから、悪女なんてすぐですよ!!」

……落ち着きは取り戻せなかった。