菫色の署名が導く悪女の契約。甘い悪夢は終わらない

「意外と可愛らしい方でしたね。想像とは違って」

ヴェルナレット嬢の足音が遠のいた頃、ジュールが口を開いた。

「想像って……」

ルシアンは組んでいた足を崩して、ソファに寝転がる。
家令のアルマンが窘めるような視線を向けてくるが、気づかないふりをした。

「もちろん、魅惑の肢体ですよ」

ジュールの指が、宙に柔らかな曲線を描く。
それはルシアンがミレーニアに対して、勝手に抱いていた印象と同じだった。

――ヴェルナレット家の悪女

それが、ミレーニア・ド・ヴェルナレットの通り名だ。

伯爵に認知された私生児でありながら、大人しく慎ましく生活をしているわけでもなく、王都で奔放に過ごしているらしい。
“悪女”と呼ばれているのは、そのせいだ。

(問題がありすぎるから、社交の場には出せないと聞いていたが……)

「あれで数多の男を惑わせているなんて、相当ですよ」

にんまりと笑うジュールに、自分も同じことを思ったなどと絶対に悟られたくない。
無言を貫いていると、ジュールが下世話すぎる感想を漏らす。

「健康的な肌ってのもいいもんですしね」

さすがに注意すべきかとルシアンが口を開くよりも早く、アルマンの鋭い声が飛んだ。

「いい加減にしなさい。……契約とはいえ坊ちゃまの婚約者ですよ」
「おっと……そうだった」
「……坊ちゃまはやめろ」
「失礼しました」

そこで終わるかと思えたアルマンの説教は、ルシアンへと矛先を変える。

「当主になりたくないからと、悪女と噂される女性と契約婚約をしようだなんて……子供じみた真似をなさいますので、つい」

口の端は上がっているが、目は笑っていない。
姉がお目付け役として王都に送り込んできた家令は、実にスマートな男である。

「仕方ないだろう?……こうでもしないと姉上は俺に家督を譲る気だ」
「それでよろしいではありませんか」

アルマンも結局は姉と同じだ。
正当な当主はルシアンだと譲らない。

――五年前、両親が亡くなり、姉は文官を辞めて当主代理となった。
そして今、二十歳となったルシアンにその地位を譲ろうとしている。

姉が当主の仕事なんてもう嫌だ。辞めたいというなら、ルシアンは喜んで引き受ける。
だが、違う。
姉は当主の仕事が、領地の経営が好きなのだ。
それを何一つ苦労することなく、ただ「男である」というだけでルシアンが奪うのだ。
例え姉がそう望んでいたとしても、いや望んでいるからこそ、ルシアンは受け入れられない。

「まぁいいじゃん。とりあえずルシアンが婚約したんだからさ」

明るく呑気に割り込んでくるジュールに、アルマンの目が細く鋭くなる。

「……いいですか。あの方は悪女だとしてもルシアン様の婚約者ですからね」
「分かってるよ。いくら僕でもルシアンの婚約者には手を出さないって」
「……信用できませんが」
「なにそれ?僕がいつ、ルシアンの彼女に手を出したの?」
「……そもそもルシアン様には、お付き合いなさった女性がいらっしゃいません」
「それだけ聞くとルシアンって可哀想な男だな」
「……言ってろ」

ジュールが喋り出すと、常に話が逸脱する。
アルマンがくどくどとジュールに説教をしているのを眺めながら、改めて婚約を申し込んだ相手のことを考える。

健康的な肌。栗色の髪。
じっと契約書を見つめていた瞳は、菫色。
妖艶などとは程遠い、瞳の色と同じ菫のような純朴そうな女性だった。

「……悪女、か」

噂を疑わしく思ってしまう、それ自体が悪女の魅力なのかもしれない。

(気をつけないとな……)

自分は姉ほど、冷静でも理知的でもない。
感情的で、アルマンの言葉を借りれば「子供じみている」のだから。

悪女と契約したのは、あくまでも「当主に相応しくない」と判断されるため。
ルシアン自身に傷がつくのは構わないが、姉が守り続けている家名に傷などつけるわけにはいかない。

だからこそ、正式な婚約証書とは別に、独自の契約書も用意したのだ。

「彼女、きっちり契約書読んでましたね」
「……そうだな」

書面の文字を丁寧に追いかけていた指は、普段目にする貴族令嬢と比べると違和感があった。

(肌の色……だけではなくて――)

「愛人契約とかあるんですかねぇ」

ジュールの一言が、ルシアンの思考を断ち切った。

「……あったとしても、こちらの契約が優先だ」
「男との付き合いは厳禁、散財は許す。って書いてあってビックリですよ」
「全くです。それは許すべきではありません」
「悪女として契約を結んだんだ、それくらいは許すさ。……まぁ、上限はあるが」
「当然です」

アルマンの目が相変わらず冷たくこちらを見ていた。
その何か言いたげな目にうんざりしながら、話題を変える。

「アルマン、姉上には報告済みか?」

ルシアンの問いに、アルマンの口元が再び形ばかりの笑みを見せた。
寒気すら覚えるそれに、ルシアンは弾かれたように体を起こす。

「ええ、報告しました。今頃、ヴェルナレット嬢と対面されているかと思われます」
「何故、言わない!!」

ルシアンは乱暴にドアを開け、部屋を飛び出した。


その背中に――いや、残像に向けて、アルマンは淡々と返す。

「何故と言われましても……セラフィーヌ様から、ルシアン様に内緒にするよう仰せつかっておりましたから」
「……ルシアンはもういないけど?」
「訊かれた以上はお答えしなくてはいけませんからね」
「あ~……ほんとアルマンは敵に回したくないなぁ」

主のいなくなった部屋で、ジュールが呆れたように肩を竦めてみせた。