君島准教授、ちょっといいですか。

昨日、夫に言われた言葉が頭から離れない。
『性欲がなくなったら、女性として終わりだよ』
……これは。
どういう意味だ?
そして、どういう意味で私に言った?
こちとら齢50。
性欲?
あるわけないじゃん。
……いや。
正確に言えば、相手によるかも。
家にいるのがおディーン様なら、ときめく自信はある。
性欲、溢れます。
いびきをかいて寝ているぷよぷよ腹の中年男に言われましてもね。
それに、だいたい『女性として』ってなに?

「あ」
パソコンの画面を見て声が漏れてしまった。
君島先生、また旅費精算してない。
もう。
郵便物置きに行くついでに釘刺しておくか。

研究室の扉をノックする。
中から「どうぞ」という声が聞こえた。
「失礼します」
「あ」
君島先生は私の顔を見て、しまった、という顔をした。
「先生、これ待ってた郵便です」
「あ、ありがとうございます」
先生、今、ほっとしましたね?
用事は郵便だけではないですよ?
「それと」
「あ、やります。旅費、すぐ精算します」
「はい、お願いします、なんですが」
「はい?」
「旅費精算、今日中は待ちますから、私の雑談に付き合ってください」
「雑談ですか?」
「はい、雑談です」
「もちろんです」
君島先生は首を縦に大きく振った。

「実は昨日、夫にイラッとすることを言われまして」
「はい」
「そこからいろいろ考えちゃって。というか、ずっと思ってたことなんですけど」
「はい」
「例えばですよ。結婚したり、子どもができたら、自分の名前で呼ばれることってすごく減るじゃないですか。『○○さんの奥さん』とか、『○○ちゃんのお母さん』とか」
「そうですね」
「私は別にそれが嫌だったわけじゃないんです」
「はい」
「呼び方が変わるのは、立場が変わったから。それは自然なことだと思うんです」
「はい」
「でも、その瞬間から『母親なんだから』『奥さんなんだから』って、その役割だけで見られること、あるでしょう?」
君島先生は黙って頷いた。
「で、母親として幸せ。妻として幸せ。女として幸せ。社会人として幸せ。……なんで分けるんでしょう」
私は苦笑した。
「全部、私なのに」
「たしかに」
君島先生は腕を組んで、しばらくうつむいていた。
「多分ですけど」
「はい」
「便利、なんじゃないですかね」
「便利?」
「想像しやすい、というか」
「想像」
「母親として、妻として、女性として、社会人として、と言われると、相手もなんとなくイメージできますから」
「たしかに。ですけど、それをいちいち分ける必要ありますかね?」
「ないですね」
「ですよね」
君島先生は静かに頷く。
「それにですよ?これは女性特有な気もするんですよ」
「と言いますと?」
「例えば姑とか、子供を育ててこそ一人前とか。母になることが当たり前のように決めつけ……あ!」
「え?」
「決めつけられるのが嫌なのかも」
「あー」
「女の幸せを決めつけられるのが、嫌なんだ。だって、ほら、あんまり男の幸せとか言わなくないですか?先生、考えます?男の幸せ」
「考えます」
「え?」
「『男なんだから』と言われることは、ありますから」
「あ!」
「え?」
「私、今、決めつけてました。男性はこんなこと考えないでしょ、って」
君島先生は眉を下げた。
「ごめんなさい」
「謝るほどのことでは」
「いえ、ダメです。自分は嫌だって言ったばかりなのに」
私は君島先生に向き直り、
「すみませんでした」
と、しっかり頭を下げた。
すると。
「葉月さんのそういうところ、いいなと思います」
「なななんですか、急に」
「自分で間違いだと気づいたら、ちゃんと認めて謝れるから」
「いやいや、だって、それは、ねぇ」
「だから葉月さんと話すの、楽しいんですよ」
「え、え、なんでそうなるんです?そんな褒めても精算の〆切伸びませんよ?」
すると君島先生は声を出して笑った。
「残念」
「先生!」
君島先生はしばらく楽しそうに笑っていた。
つられて私も笑ってしまった。

私はふぅと息を吐いた。

「さて、そろそろ戻ります」
「はい」
「先生」
「はい?」
「今日、雑談してよかったです」
「僕もです」
「じゃ、旅費精算は今日中でお願いしますね」
「はい。すぐやります!」
顔を見合わせて、ふたりで笑った。