『黒薔薇館の十三夜』

 黒薔薇館に足を踏み入れてから、一時間ほどが過ぎた。

 美咲たちは執事・霧島に案内され、一人ずつ客室を割り当てられた。

 館の二階には長い廊下が伸び、その両側に重厚な木製の扉が規則正しく並んでいる。

「こちらが朝倉様のお部屋です。」

 霧島が鍵を差し込み、静かに扉を開ける。

 部屋の中は、まるで海外の高級ホテルのようだった。

 大きな天蓋付きのベッド。

 暖炉の上には銀色の時計。

 壁には見事な風景画が飾られ、窓辺には深紅のカーテンが揺れている。

「すごい……。」

 思わず声が漏れる。

 ここが山奥の洋館だとは、とても思えなかった。

「夕食は午後六時より食堂でご用意しております。」

 霧島は一礼し、最後にもう一度だけ言った。

「午後九時以降は、決して部屋からお出になりませんよう。」

 その言葉だけが妙に重く、美咲の胸に残った。

 廊下へ出ると、隣の部屋から悠斗が顔を出した。

「部屋、めちゃくちゃ豪華じゃなかった?」

「うん。でも……」

「でも?」

「なんだか落ち着かない。」

 悠斗は苦笑する。

「わかる。誰かに見られてる感じがするよな。」

 その何気ない一言に、美咲は思わず館の奥へ目を向けた。

 長い廊下には誰もいない。

 それでも、どこか遠くで床が軋んだような音が聞こえた気がした。

 ギシ……

 ほんの一瞬だった。

「……聞こえた?」

「え?」

「今。」

 悠斗は首を傾げる。

「何も聞こえなかったけど。」

 美咲は気のせいだと思うことにした。

 しかし、その違和感は消えなかった。

 ◇

 午後六時。

 七人は一階の食堂へ集まった。

 長いテーブルには豪華な料理が並んでいる。

 ローストビーフ。

 焼き立てのパン。

 色鮮やかなサラダ。

 湯気の立つポタージュ。

「これ、本当に俺たちだけで食べていいの?」

 大翔が目を輝かせる。

「遠慮する理由はありません。」

 霧島は淡々と答えた。

「館の主人からのおもてなしです。」

「だから、その主人って誰なんですか?」

 蓮が問いかける。

 しかし霧島は笑みを浮かべるだけだった。

「いずれ、お会いになるでしょう。」

 その返答に全員が顔を見合わせる。

 結局、館の主人は一度も姿を見せないまま夕食が始まった。

 最初は旅行気分だった。

 学校の話。

 夏休みの宿題。

 文化祭の準備。

 笑い声が食堂に響く。

 さっきまで感じていた不気味さも、少しずつ薄れていった。

「やっぱり誰かのお金持ちの別荘なんじゃない?」

 大翔が笑う。

「肝試しイベントとか。」

「だったら最悪だな。」

 悠斗も笑った。

 その時だった。

 カラン……

 結衣のフォークが皿の上へ落ちた。

「結衣?」

 美咲が声を掛ける。

 結衣は食堂の奥を見つめたまま動かない。

「今……誰かいた。」

 全員が振り返る。

 だが、そこには誰もいない。

「気のせいじゃない?」

 紗奈が言う。

 結衣は首を横に振った。

「黒い服を着た女の子。」

 食堂が静まり返る。

「そんなわけないだろ。」

 蓮は笑い飛ばそうとするが、その笑顔は引きつっていた。

 霧島だけは表情一つ変えない。

「館には、私以外の使用人はおりません。」

「でも……」

「見間違いでしょう。」

 それ以上は何も言わなかった。

 ◇

 夕食を終えた七人は談話室へ移動した。

 暖炉には火が灯り、静かなクラシック音楽が流れている。

 壁一面に並ぶ本棚。

 年代物の蓄音機。

 そして、一枚の大きな家族写真。

 美咲は写真の前で立ち止まった。

 十数人の家族が笑顔で並んでいる。

 しかし、一人だけ。

 中央に立つ少女の顔だけが、鋭利なもので何度も傷つけられていた。

「ひどい……。」

 誰が、こんなことを。

 その時だった。

「その写真には、あまり触れないほうがよろしいですよ。」

 いつの間にか霧島が後ろに立っていた。

 まるで足音ひとつ立てずに現れたようだった。

「どうしてですか?」

 美咲が尋ねる。

 霧島は写真を見つめたまま、小さく目を細める。

「昔の、悲しい出来事を思い出してしまいますから。」

「悲しい出来事?」

「……。」

 霧島は何も答えない。

 ただ静かに時計へ目を向けた。

 ボーン……

 ボーン……

 午後九時。

 館中に鐘の音が響く。

「皆様。」

 霧島はゆっくりと頭を下げた。

「どうか、お部屋へお戻りください。」

 七人は顔を見合わせながら、それぞれ二階へ向かった。

 ◇

 美咲はベッドへ腰掛け、スマートフォンを取り出した。

「圏外……。」

 やはり電波は入らない。

 外は激しい雨。

 風が窓を叩いている。

 ──コン……

 突然、窓を叩く音がした。

 美咲はカーテンを開く。

 誰もいない。

 庭には黒い薔薇が揺れているだけ。

「気のせい、だよね……。」

 そう呟いてカーテンを閉めた、その直後。

 ギシ……

 廊下を誰かが歩く音が聞こえた。

 一歩。

 また一歩。

 ゆっくりと、美咲の部屋へ近づいてくる。

 霧島は言っていた。

 「九時以降は部屋を出ないでください。」

 理由は聞かなかった。

 いや、聞けなかった。

 足音は部屋の前で止まる。

 静寂。

 息を呑む美咲。

 次の瞬間――

 コン、コン。

 誰かが、扉を二度だけノックした。

 「……朝倉さん。」

 かすれた少女の声が、扉の向こうから聞こえた。

 その声は、館へ来てから一度も聞いたことのない声だった。

 そして、美咲はゆっくりと息を止める。

 ――廊下には、誰も出てはいけないはずなのに。