黒薔薇館に足を踏み入れてから、一時間ほどが過ぎた。
美咲たちは執事・霧島に案内され、一人ずつ客室を割り当てられた。
館の二階には長い廊下が伸び、その両側に重厚な木製の扉が規則正しく並んでいる。
「こちらが朝倉様のお部屋です。」
霧島が鍵を差し込み、静かに扉を開ける。
部屋の中は、まるで海外の高級ホテルのようだった。
大きな天蓋付きのベッド。
暖炉の上には銀色の時計。
壁には見事な風景画が飾られ、窓辺には深紅のカーテンが揺れている。
「すごい……。」
思わず声が漏れる。
ここが山奥の洋館だとは、とても思えなかった。
「夕食は午後六時より食堂でご用意しております。」
霧島は一礼し、最後にもう一度だけ言った。
「午後九時以降は、決して部屋からお出になりませんよう。」
その言葉だけが妙に重く、美咲の胸に残った。
廊下へ出ると、隣の部屋から悠斗が顔を出した。
「部屋、めちゃくちゃ豪華じゃなかった?」
「うん。でも……」
「でも?」
「なんだか落ち着かない。」
悠斗は苦笑する。
「わかる。誰かに見られてる感じがするよな。」
その何気ない一言に、美咲は思わず館の奥へ目を向けた。
長い廊下には誰もいない。
それでも、どこか遠くで床が軋んだような音が聞こえた気がした。
ギシ……
ほんの一瞬だった。
「……聞こえた?」
「え?」
「今。」
悠斗は首を傾げる。
「何も聞こえなかったけど。」
美咲は気のせいだと思うことにした。
しかし、その違和感は消えなかった。
◇
午後六時。
七人は一階の食堂へ集まった。
長いテーブルには豪華な料理が並んでいる。
ローストビーフ。
焼き立てのパン。
色鮮やかなサラダ。
湯気の立つポタージュ。
「これ、本当に俺たちだけで食べていいの?」
大翔が目を輝かせる。
「遠慮する理由はありません。」
霧島は淡々と答えた。
「館の主人からのおもてなしです。」
「だから、その主人って誰なんですか?」
蓮が問いかける。
しかし霧島は笑みを浮かべるだけだった。
「いずれ、お会いになるでしょう。」
その返答に全員が顔を見合わせる。
結局、館の主人は一度も姿を見せないまま夕食が始まった。
最初は旅行気分だった。
学校の話。
夏休みの宿題。
文化祭の準備。
笑い声が食堂に響く。
さっきまで感じていた不気味さも、少しずつ薄れていった。
「やっぱり誰かのお金持ちの別荘なんじゃない?」
大翔が笑う。
「肝試しイベントとか。」
「だったら最悪だな。」
悠斗も笑った。
その時だった。
カラン……
結衣のフォークが皿の上へ落ちた。
「結衣?」
美咲が声を掛ける。
結衣は食堂の奥を見つめたまま動かない。
「今……誰かいた。」
全員が振り返る。
だが、そこには誰もいない。
「気のせいじゃない?」
紗奈が言う。
結衣は首を横に振った。
「黒い服を着た女の子。」
食堂が静まり返る。
「そんなわけないだろ。」
蓮は笑い飛ばそうとするが、その笑顔は引きつっていた。
霧島だけは表情一つ変えない。
「館には、私以外の使用人はおりません。」
「でも……」
「見間違いでしょう。」
それ以上は何も言わなかった。
◇
夕食を終えた七人は談話室へ移動した。
暖炉には火が灯り、静かなクラシック音楽が流れている。
壁一面に並ぶ本棚。
年代物の蓄音機。
そして、一枚の大きな家族写真。
美咲は写真の前で立ち止まった。
十数人の家族が笑顔で並んでいる。
しかし、一人だけ。
中央に立つ少女の顔だけが、鋭利なもので何度も傷つけられていた。
「ひどい……。」
誰が、こんなことを。
その時だった。
「その写真には、あまり触れないほうがよろしいですよ。」
いつの間にか霧島が後ろに立っていた。
まるで足音ひとつ立てずに現れたようだった。
「どうしてですか?」
美咲が尋ねる。
霧島は写真を見つめたまま、小さく目を細める。
「昔の、悲しい出来事を思い出してしまいますから。」
「悲しい出来事?」
「……。」
霧島は何も答えない。
ただ静かに時計へ目を向けた。
ボーン……
ボーン……
午後九時。
館中に鐘の音が響く。
「皆様。」
霧島はゆっくりと頭を下げた。
「どうか、お部屋へお戻りください。」
七人は顔を見合わせながら、それぞれ二階へ向かった。
◇
美咲はベッドへ腰掛け、スマートフォンを取り出した。
「圏外……。」
やはり電波は入らない。
外は激しい雨。
風が窓を叩いている。
──コン……
突然、窓を叩く音がした。
美咲はカーテンを開く。
誰もいない。
庭には黒い薔薇が揺れているだけ。
「気のせい、だよね……。」
そう呟いてカーテンを閉めた、その直後。
ギシ……
廊下を誰かが歩く音が聞こえた。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと、美咲の部屋へ近づいてくる。
霧島は言っていた。
「九時以降は部屋を出ないでください。」
理由は聞かなかった。
いや、聞けなかった。
足音は部屋の前で止まる。
静寂。
息を呑む美咲。
次の瞬間――
コン、コン。
誰かが、扉を二度だけノックした。
「……朝倉さん。」
かすれた少女の声が、扉の向こうから聞こえた。
その声は、館へ来てから一度も聞いたことのない声だった。
そして、美咲はゆっくりと息を止める。
――廊下には、誰も出てはいけないはずなのに。
美咲たちは執事・霧島に案内され、一人ずつ客室を割り当てられた。
館の二階には長い廊下が伸び、その両側に重厚な木製の扉が規則正しく並んでいる。
「こちらが朝倉様のお部屋です。」
霧島が鍵を差し込み、静かに扉を開ける。
部屋の中は、まるで海外の高級ホテルのようだった。
大きな天蓋付きのベッド。
暖炉の上には銀色の時計。
壁には見事な風景画が飾られ、窓辺には深紅のカーテンが揺れている。
「すごい……。」
思わず声が漏れる。
ここが山奥の洋館だとは、とても思えなかった。
「夕食は午後六時より食堂でご用意しております。」
霧島は一礼し、最後にもう一度だけ言った。
「午後九時以降は、決して部屋からお出になりませんよう。」
その言葉だけが妙に重く、美咲の胸に残った。
廊下へ出ると、隣の部屋から悠斗が顔を出した。
「部屋、めちゃくちゃ豪華じゃなかった?」
「うん。でも……」
「でも?」
「なんだか落ち着かない。」
悠斗は苦笑する。
「わかる。誰かに見られてる感じがするよな。」
その何気ない一言に、美咲は思わず館の奥へ目を向けた。
長い廊下には誰もいない。
それでも、どこか遠くで床が軋んだような音が聞こえた気がした。
ギシ……
ほんの一瞬だった。
「……聞こえた?」
「え?」
「今。」
悠斗は首を傾げる。
「何も聞こえなかったけど。」
美咲は気のせいだと思うことにした。
しかし、その違和感は消えなかった。
◇
午後六時。
七人は一階の食堂へ集まった。
長いテーブルには豪華な料理が並んでいる。
ローストビーフ。
焼き立てのパン。
色鮮やかなサラダ。
湯気の立つポタージュ。
「これ、本当に俺たちだけで食べていいの?」
大翔が目を輝かせる。
「遠慮する理由はありません。」
霧島は淡々と答えた。
「館の主人からのおもてなしです。」
「だから、その主人って誰なんですか?」
蓮が問いかける。
しかし霧島は笑みを浮かべるだけだった。
「いずれ、お会いになるでしょう。」
その返答に全員が顔を見合わせる。
結局、館の主人は一度も姿を見せないまま夕食が始まった。
最初は旅行気分だった。
学校の話。
夏休みの宿題。
文化祭の準備。
笑い声が食堂に響く。
さっきまで感じていた不気味さも、少しずつ薄れていった。
「やっぱり誰かのお金持ちの別荘なんじゃない?」
大翔が笑う。
「肝試しイベントとか。」
「だったら最悪だな。」
悠斗も笑った。
その時だった。
カラン……
結衣のフォークが皿の上へ落ちた。
「結衣?」
美咲が声を掛ける。
結衣は食堂の奥を見つめたまま動かない。
「今……誰かいた。」
全員が振り返る。
だが、そこには誰もいない。
「気のせいじゃない?」
紗奈が言う。
結衣は首を横に振った。
「黒い服を着た女の子。」
食堂が静まり返る。
「そんなわけないだろ。」
蓮は笑い飛ばそうとするが、その笑顔は引きつっていた。
霧島だけは表情一つ変えない。
「館には、私以外の使用人はおりません。」
「でも……」
「見間違いでしょう。」
それ以上は何も言わなかった。
◇
夕食を終えた七人は談話室へ移動した。
暖炉には火が灯り、静かなクラシック音楽が流れている。
壁一面に並ぶ本棚。
年代物の蓄音機。
そして、一枚の大きな家族写真。
美咲は写真の前で立ち止まった。
十数人の家族が笑顔で並んでいる。
しかし、一人だけ。
中央に立つ少女の顔だけが、鋭利なもので何度も傷つけられていた。
「ひどい……。」
誰が、こんなことを。
その時だった。
「その写真には、あまり触れないほうがよろしいですよ。」
いつの間にか霧島が後ろに立っていた。
まるで足音ひとつ立てずに現れたようだった。
「どうしてですか?」
美咲が尋ねる。
霧島は写真を見つめたまま、小さく目を細める。
「昔の、悲しい出来事を思い出してしまいますから。」
「悲しい出来事?」
「……。」
霧島は何も答えない。
ただ静かに時計へ目を向けた。
ボーン……
ボーン……
午後九時。
館中に鐘の音が響く。
「皆様。」
霧島はゆっくりと頭を下げた。
「どうか、お部屋へお戻りください。」
七人は顔を見合わせながら、それぞれ二階へ向かった。
◇
美咲はベッドへ腰掛け、スマートフォンを取り出した。
「圏外……。」
やはり電波は入らない。
外は激しい雨。
風が窓を叩いている。
──コン……
突然、窓を叩く音がした。
美咲はカーテンを開く。
誰もいない。
庭には黒い薔薇が揺れているだけ。
「気のせい、だよね……。」
そう呟いてカーテンを閉めた、その直後。
ギシ……
廊下を誰かが歩く音が聞こえた。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと、美咲の部屋へ近づいてくる。
霧島は言っていた。
「九時以降は部屋を出ないでください。」
理由は聞かなかった。
いや、聞けなかった。
足音は部屋の前で止まる。
静寂。
息を呑む美咲。
次の瞬間――
コン、コン。
誰かが、扉を二度だけノックした。
「……朝倉さん。」
かすれた少女の声が、扉の向こうから聞こえた。
その声は、館へ来てから一度も聞いたことのない声だった。
そして、美咲はゆっくりと息を止める。
――廊下には、誰も出てはいけないはずなのに。


