孤独な先輩と空しか撮れない私の話。

滝を離れる頃には、胸の奥のざわめきはまだ薄く残っていた。
バスの窓に流れる山の影が揺れるたび、その濁りは静かに揺れる。
前の席で笑い合う2人の声が時々、風みたくこちらへ届く。
その感情を覆い隠すように私は空を見つめる。
理由なんて知らなくていい。
バスがホテルの前で止まり、夕方の光が薄く滲み出す。
「凪ちゃん。荷物大丈夫?」
先輩の声が近くで響いた。
「別に、大丈夫です」
その優しさが今は少し痛い。
そう答えて、私は先にロビーへ歩き出した。
ガラスに映る空は、青と灰色が混ざり合っていてまるで今の自分の心みたいだった。

夕食を食べ終えて、みんなが寝静まった頃、私は音を立てないようにそっと布団から起き上がった。
ひんやりと冷えた廊下を足裏で感じて、身震いする。
音を立てないようにそっと乗り出したベランダは冷たく静謐だった。
幻想世界が凝縮されていて、一つの光に魅せられる。
きっと、この夜空なら、私の暗澹とした気分を覆い隠してくれる。
私は首掛けていたカメラを再び構えた。
煌々と無数の光が輝き出し、道標を差し出してくれる。
淡く遠い稜線と共に、私のその光景をカメラに収めた。
だけど、僅かにぶれていた。
夜空すら私のもとを去ってしまう焦燥。
それが溢れ出して、手汗が止まらない。
綺麗に撮らなければ。
私は失う。
撮らなければ。
撮らなければ。
「そんなに根を詰めなくても、空は逃げないよ」
欠伸を噛み殺しながら、先輩が歩み寄ってくる。
夜の冷たい匂いと先輩の暖かい匂いが緩く混じって、ほんのり華やぐ。
「部長さん、強そうに見えるのに、本当にお化け苦手なんですね」
風がほんのり温かくなって、私は言葉を紡ぐ。
静寂で埋めない責任感と共に出てきた言葉がそれ。
不自然すぎるな。
「小さい頃からの幼馴染でさ、他の時は結構強がってるのに、お化けのマネするとすぐ逃げるから面白いよ」
白く透き通った歯を見せて玉を転がす。
「凪ちゃんもやってみれば?」
その笑い声は遠く優しい。
「やりませんよ」
風は心地よく頬を薙いでいった。

翌日も、清々しいほどの晴れ。
行き先は日光東照宮。
観光客も多く、撮るチャンスがたくさんあるだろうという事で、先輩は身体が地面から数センチ浮いたように意気揚々としている。
東照宮は手を額にかざして日差しを避ける人や朱色の柱の前で写真を撮る人で溢れていた。
ファインダー越しに人を見ると、胸が少しだけ苦しくなる。
夏の光は陽明寺の緊迫をゆっくりと溶かしていく。
杉の影は深く、風が通るたびに細い影が石畳の上に揺れた。
先輩が手を揺らすその影を私はそっとカメラに収める。
観光客の足音が遠くで微かに重なって消えていく。
先輩は足早に前へ前へと進んでいった。
「すみません。撮らせてもらっていいですか?」
恥じらうことなく、声をかけて、笑顔を向けられている。
東照宮の陽が当たるごとに煌めく金箔が更に額の汗を際立たせる。
「ありがとうございます」
あの笑顔で、撮っていくからすぐに先輩の周りは人だかりになる。

「いやー、今回は沢山収穫あったわ」
やっと人波が止んできたところで、私達は集合写真を撮った。
カメラマンは先輩。
アウトカメラで画面を見ずに、勘で構える。
「それ、毎回やるけど大体撮り直すじゃん」
部長さんが軽口を叩き、「今回は行けるって」と先輩ははにかむ。
「ハイチーズ」
私に肩を寄せて、小指が軽く上がったピーズの形をとる。
カメラの目の奥をぎゅっと見つめた。
「よっしゃ。撮れた」
カメラを反対に持ち直して、確認する。
「うん。まあまあ、いいんじゃね」
その写真はどこか温かく、切なかった。