三月に入り、凍てつくような寒さは和らぎ、街には柔らかな春の気配が満ち始めていた
けれど私たちが過ごす502号室の空気だけは日に日に重く、張り詰めたものに変わっていった
桜坂くんはもう一日のほとんどを眠って過ごすようになっていた
時折、目を覚ましても私のことが分かっているのか判別できないほどその瞳は虚ろだった
心電図のモニターの数値は不安定に上下し、鳴り響く警告音が彼の命の灯火が消えかけていることを冷酷に告げていた
三月半ばのよく晴れた朝のこと
学校へ行く前に病院へ立ち寄ると病室の空気がいつもと違っていた
おばさまがベッドの傍らで彼の細い手を握りしめ、静かに肩を震わせて泣いていた主治医の先生が沈痛な面持ちで私を見て小さく首を振った
「……秋穂、ちゃん……」
おばさまが涙で濡れた顔を上げた
「春馬がね、さっき一瞬だけ目を覚まして…『秋穂が来たら窓を開けてほしい』って…」
私はカバンを床に落とし、ベッドへと駆け寄った
「桜坂くん…!」
彼の枕元に這いつくばるようにしてその顔を覗き込む
桜坂くんはゆっくりと、本当にゆっくりと瞼を持ち上げた
その桜色の瞳は、ひどく濁ってしまっていたけれど私を捉えた瞬間、かつてのあの図書室の時のように微かにきらりと輝いた気がした
「……あ、ひ、ほ……」
酸素マスクの奥で彼の唇がかすかに動いた
音にはならなかったけれど確かに私の名前を呼んでいた
「うん、ここにいるよ 桜坂くん、ここにいるからね」
私は彼の右手を両手で包み込んだ
恐ろしいほどに冷たかった
まるで体中の熱がすべてどこかへ行ってしまったかのように
「……まど……あけ、て……」
掠れた、かすかな声が彼の口から零れ落ちた
私は頷き、立ち上がって大きな窓へと向かった
鍵を外し、窓を大きく横に引く
暖かな洗いたてのカーテンのような春の風が一気に病室の中へと流れ込んできた
その風に乗ってほんのりと甘い、桜の香りが漂う
窓の外を見下ろすと病院の中庭にある大きな桜の木の蕾が今朝の陽気でいくつか、小さなピンク色の花を咲かせ始めているのが見えた
「桜坂くん、見て……! 桜が咲き始めたよ……!」
私が振り返ると桜坂くんは窓から差し込む眩しい春の光を浴びて眩しそうに目を細めていた
そして私の顔をじっと見つめると酸素マスクの奥で本当に嬉しそうに、まるでいたずらが大成功した少年のような満面の笑みを浮かべた
「…きれい……だね……」
それが彼の最後の言葉だった
ピーーーーーーー____
無機質な、一本の長い電子音が病室に響き渡った
繋いでいた彼の右手からすべての力が抜け、ベッドの上にすとんと落ちる
彼の胸の上下が静かに止まった
「春馬…! 嫌よ、目を開けて!」
おばさまが彼の身体にしがみつき、激しく泣き叫ぶ
お医者様が静かに近づき、時計を見て彼の死亡時刻を告げた
私は泣かなかった
泣き叫ぶおばさまの横でただ立ち尽くし、彼の穏やかな死に顔を見つめていた
あの夜、彼と交わした約束が私の胸の奥で冷たく、けれど強く脈打っていたからだ
『僕の分までこの世界を鮮やかに生きて』
その言葉が私の涙を繋ぎ止めていた
窓から吹き込んだ春の風が彼の前髪を優しく揺らす
まるで彼が「ありがとう」と言って私の頬を撫でてくれたかのように
高校二年の春に出会い、始まったカウントダウン
桜坂くんの寿命は今、ここに尽きた
けれど彼のいない私の新しい時間が同時にここから始まろうとしていた
彼の寿命が尽きるまで、あと_______0日。
けれど私たちが過ごす502号室の空気だけは日に日に重く、張り詰めたものに変わっていった
桜坂くんはもう一日のほとんどを眠って過ごすようになっていた
時折、目を覚ましても私のことが分かっているのか判別できないほどその瞳は虚ろだった
心電図のモニターの数値は不安定に上下し、鳴り響く警告音が彼の命の灯火が消えかけていることを冷酷に告げていた
三月半ばのよく晴れた朝のこと
学校へ行く前に病院へ立ち寄ると病室の空気がいつもと違っていた
おばさまがベッドの傍らで彼の細い手を握りしめ、静かに肩を震わせて泣いていた主治医の先生が沈痛な面持ちで私を見て小さく首を振った
「……秋穂、ちゃん……」
おばさまが涙で濡れた顔を上げた
「春馬がね、さっき一瞬だけ目を覚まして…『秋穂が来たら窓を開けてほしい』って…」
私はカバンを床に落とし、ベッドへと駆け寄った
「桜坂くん…!」
彼の枕元に這いつくばるようにしてその顔を覗き込む
桜坂くんはゆっくりと、本当にゆっくりと瞼を持ち上げた
その桜色の瞳は、ひどく濁ってしまっていたけれど私を捉えた瞬間、かつてのあの図書室の時のように微かにきらりと輝いた気がした
「……あ、ひ、ほ……」
酸素マスクの奥で彼の唇がかすかに動いた
音にはならなかったけれど確かに私の名前を呼んでいた
「うん、ここにいるよ 桜坂くん、ここにいるからね」
私は彼の右手を両手で包み込んだ
恐ろしいほどに冷たかった
まるで体中の熱がすべてどこかへ行ってしまったかのように
「……まど……あけ、て……」
掠れた、かすかな声が彼の口から零れ落ちた
私は頷き、立ち上がって大きな窓へと向かった
鍵を外し、窓を大きく横に引く
暖かな洗いたてのカーテンのような春の風が一気に病室の中へと流れ込んできた
その風に乗ってほんのりと甘い、桜の香りが漂う
窓の外を見下ろすと病院の中庭にある大きな桜の木の蕾が今朝の陽気でいくつか、小さなピンク色の花を咲かせ始めているのが見えた
「桜坂くん、見て……! 桜が咲き始めたよ……!」
私が振り返ると桜坂くんは窓から差し込む眩しい春の光を浴びて眩しそうに目を細めていた
そして私の顔をじっと見つめると酸素マスクの奥で本当に嬉しそうに、まるでいたずらが大成功した少年のような満面の笑みを浮かべた
「…きれい……だね……」
それが彼の最後の言葉だった
ピーーーーーーー____
無機質な、一本の長い電子音が病室に響き渡った
繋いでいた彼の右手からすべての力が抜け、ベッドの上にすとんと落ちる
彼の胸の上下が静かに止まった
「春馬…! 嫌よ、目を開けて!」
おばさまが彼の身体にしがみつき、激しく泣き叫ぶ
お医者様が静かに近づき、時計を見て彼の死亡時刻を告げた
私は泣かなかった
泣き叫ぶおばさまの横でただ立ち尽くし、彼の穏やかな死に顔を見つめていた
あの夜、彼と交わした約束が私の胸の奥で冷たく、けれど強く脈打っていたからだ
『僕の分までこの世界を鮮やかに生きて』
その言葉が私の涙を繋ぎ止めていた
窓から吹き込んだ春の風が彼の前髪を優しく揺らす
まるで彼が「ありがとう」と言って私の頬を撫でてくれたかのように
高校二年の春に出会い、始まったカウントダウン
桜坂くんの寿命は今、ここに尽きた
けれど彼のいない私の新しい時間が同時にここから始まろうとしていた
彼の寿命が尽きるまで、あと_______0日。



