あの日以来、私は学校が終わると毎日のように桜坂くんの病室へと通うようになった
おばさまも私の訪問を温かく迎えてくれるようになり、二人の時間が少しずつ、静かに積み重なっていった
一月の夜、夜は厳しい寒さで病室の大きな窓ガラスには白い結露がびっしりと張り付いている
部屋の中は暖房が効いていて暖かく、心電図の「ピッ、ピッ」という規則正しい電子音だけが絶え間なく響いていた
「森永さん、今日も来てくれてありがとう」
ベッドの背もたれを起こした桜坂くんが弱々しく微笑んだ
酸素チューブを鼻につけた彼の顔色は相変わらず優れなかったけれどその瞳にはかつて図書室で見せてくれたような穏やかな光が戻っていた
「もう『森永さん』はやめてって言ったでしょ? 桜坂くん」
私はパイプ椅子に腰掛け、彼のために剥いたリンゴの皿をベッドサイドのテーブルに置いた
「あの日、私のこと『秋穂』って呼んでくれたのに」
私が少し拗ねてみせると彼は色の薄い唇を綻ばせて少し照れくさそうに視線を泳がせた
「…そうだね じゃぁ秋穂」
自分の名前が彼の口から零れ落ちるたび、胸の奥がくすぐったいような、それでいて泣き出したいような不思議な痛みを伴って熱くなる
「ねぇ秋穂 僕、最近よく考えるんだ」
桜坂くんは自分の胸の上に置いた細い手に視線を落とした
「もし僕の病気が治ったらやりたいこと」
「何がしたい?」
私は彼の手をそっと握りしめた
彼の体温は冬の寒さのせいだけでなく、病気の進行とともにますます冷たくなっているように感じられた
「まずは普通の制服を着て、普通に学校へ行くんだ 授業中に居眠りをして先生に怒られたり、放課後に秋穂と一緒に図書室の鍵を閉めたり それから大学生になったらもっと遠くへ旅行に行こう 海とか山とか、秋穂の見たことのない景色を僕が全部見せてあげるんだ」
彼の語る未来はどこまでもささやかで普通の高校生なら当たり前に手に入れられるものばかりだった
それが今の彼にとってはどんなに手を伸ばしても届かない宇宙の果てのように遠い場所にある
「うん…行こうね 私、どこへでもついていくよ」
私は溢れそうになる涙を必死に堪えて笑顔を作って頷いた
彼が前を向いて未来を語ってくれることが嬉しくて、そして狂おしいほど切なかった
桜坂くんは私の手を少しだけ強く握り返すと真剣な眼差しで私を見つめた
「だからね、秋穂 約束してほしいんだ」
「約束…?」
「僕が、その…いなくなっても 秋穂は僕の分までたくさん恋をして、たくさん美味しいものを食べて、たくさん笑って、普通に幸せになってほしい」
心臓がきゅっと縮み上がるのが分かった
それは彼からのあまりにも優しくて、あまりにも残酷な遺言だった
「嫌だよ…」
私は首を振った
「桜坂くんがいない世界で私だけが幸せになるなんて、そんなの、できないよ」
「できるよ、秋穂なら」
彼の声はどこまでも優しかった
「僕の寿命はここで尽きちゃう それはもうどうしようもない事実なんだ でもね、僕が生きた証は秋穂の心の中に残る 秋穂が笑って生きている限り、僕の一部もこの世界で一緒に生き続けられるんだ だから…僕を置いていかないでなんて言わない 僕の分まで、この世界を鮮やかに生きて」
彼の瞳から一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた
自分の死を受け入れ、それでも残される私の未来を願ってくれる彼の強さと優しさに私は涙を隠すことができなかった
「…分かった 約束する」
私は彼の冷たい手を自分の両手で包み込み、額を押し当てた
「約束するよ、桜坂くん 私はあなたの分まで、絶対に前を向いて生きる あなたの教えてくれた世界の美しさを一生忘れない」
「ありがとう、秋穂 …大好きだよ」
それが彼が初めて口にした、明確な愛の告白だった
私たちは病院の静かな夜の中で小さな、けれど絶対に破らない約束を交わした
彼の寿命が尽きるまであと45日。
冷たい雪が夜の窓の外を静かに舞い落ちていた
おばさまも私の訪問を温かく迎えてくれるようになり、二人の時間が少しずつ、静かに積み重なっていった
一月の夜、夜は厳しい寒さで病室の大きな窓ガラスには白い結露がびっしりと張り付いている
部屋の中は暖房が効いていて暖かく、心電図の「ピッ、ピッ」という規則正しい電子音だけが絶え間なく響いていた
「森永さん、今日も来てくれてありがとう」
ベッドの背もたれを起こした桜坂くんが弱々しく微笑んだ
酸素チューブを鼻につけた彼の顔色は相変わらず優れなかったけれどその瞳にはかつて図書室で見せてくれたような穏やかな光が戻っていた
「もう『森永さん』はやめてって言ったでしょ? 桜坂くん」
私はパイプ椅子に腰掛け、彼のために剥いたリンゴの皿をベッドサイドのテーブルに置いた
「あの日、私のこと『秋穂』って呼んでくれたのに」
私が少し拗ねてみせると彼は色の薄い唇を綻ばせて少し照れくさそうに視線を泳がせた
「…そうだね じゃぁ秋穂」
自分の名前が彼の口から零れ落ちるたび、胸の奥がくすぐったいような、それでいて泣き出したいような不思議な痛みを伴って熱くなる
「ねぇ秋穂 僕、最近よく考えるんだ」
桜坂くんは自分の胸の上に置いた細い手に視線を落とした
「もし僕の病気が治ったらやりたいこと」
「何がしたい?」
私は彼の手をそっと握りしめた
彼の体温は冬の寒さのせいだけでなく、病気の進行とともにますます冷たくなっているように感じられた
「まずは普通の制服を着て、普通に学校へ行くんだ 授業中に居眠りをして先生に怒られたり、放課後に秋穂と一緒に図書室の鍵を閉めたり それから大学生になったらもっと遠くへ旅行に行こう 海とか山とか、秋穂の見たことのない景色を僕が全部見せてあげるんだ」
彼の語る未来はどこまでもささやかで普通の高校生なら当たり前に手に入れられるものばかりだった
それが今の彼にとってはどんなに手を伸ばしても届かない宇宙の果てのように遠い場所にある
「うん…行こうね 私、どこへでもついていくよ」
私は溢れそうになる涙を必死に堪えて笑顔を作って頷いた
彼が前を向いて未来を語ってくれることが嬉しくて、そして狂おしいほど切なかった
桜坂くんは私の手を少しだけ強く握り返すと真剣な眼差しで私を見つめた
「だからね、秋穂 約束してほしいんだ」
「約束…?」
「僕が、その…いなくなっても 秋穂は僕の分までたくさん恋をして、たくさん美味しいものを食べて、たくさん笑って、普通に幸せになってほしい」
心臓がきゅっと縮み上がるのが分かった
それは彼からのあまりにも優しくて、あまりにも残酷な遺言だった
「嫌だよ…」
私は首を振った
「桜坂くんがいない世界で私だけが幸せになるなんて、そんなの、できないよ」
「できるよ、秋穂なら」
彼の声はどこまでも優しかった
「僕の寿命はここで尽きちゃう それはもうどうしようもない事実なんだ でもね、僕が生きた証は秋穂の心の中に残る 秋穂が笑って生きている限り、僕の一部もこの世界で一緒に生き続けられるんだ だから…僕を置いていかないでなんて言わない 僕の分まで、この世界を鮮やかに生きて」
彼の瞳から一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた
自分の死を受け入れ、それでも残される私の未来を願ってくれる彼の強さと優しさに私は涙を隠すことができなかった
「…分かった 約束する」
私は彼の冷たい手を自分の両手で包み込み、額を押し当てた
「約束するよ、桜坂くん 私はあなたの分まで、絶対に前を向いて生きる あなたの教えてくれた世界の美しさを一生忘れない」
「ありがとう、秋穂 …大好きだよ」
それが彼が初めて口にした、明確な愛の告白だった
私たちは病院の静かな夜の中で小さな、けれど絶対に破らない約束を交わした
彼の寿命が尽きるまであと45日。
冷たい雪が夜の窓の外を静かに舞い落ちていた



