あの冬の日の夕方、病院から逃げ出してしまった自分自身への嫌悪感で私は押しつぶされそうになっていた
無機質な病室のベッドで何本ものチューブに繋がれていた桜坂くんの姿
それが頭から離れない
私は彼の「綺麗で完璧な王子様」の姿だけを愛していたのだろうか
衰えていく彼を見るのが怖くて逃げ出した私はなんて卑怯で薄情な人間なのだろう
学校の図書室は冬の冷気で底冷えしていた
終業式を終えた放課後、私は誰もいない図書室のカウンターで彼がいつも座っていた椅子を見つめていた
「あれ…?」
ふと貸出台の隅にある、返却されたばかりの古い小説の山が目に留まった
その中に見覚えのある手帳が挟まっていた
それは桜坂くんがいつも持ち歩いていたグラフが描かれていた黒いノートだった
文化祭の日に彼が持っていたものを誰かが図書室に届けたのだろうか
私は震える手でそのノートを開いた
最初の数ページには彼が私に見せてくれた「世界の美しさ」が書き留められていた
中庭の花、購買のパン、水族館の魚。
彼の端正な文字で私への感謝の言葉が並んでいる
『森永さんと出会えて僕の日常は奇跡になった 彼女に僕の生きた証を残したい』
けれどページをめくるにつれて文字は少しずつ乱れ、殴り書きのようになっていく
それは彼が病院に運ばれた、文化祭の直前のページだった
『本当は死にたくない』
大きく書かれたその文字を見た瞬間、心臓がドクンと跳ねた
『怖い 暗い海の底に沈んでいくみたい もっと生きたい 森永さんと一緒に卒業式に出たかった 来年の夏もあの青いワンピースを見ていたかった 彼女の手をもっとずっと握っていたかった 神様、どうして僕なんだ 嫌だ、まだ死にたくない、死にたくない、死にたくない__』
ノートの紙面にはいくつもの丸いシミが残っていた
彼の涙の跡だった
「桜坂くん…」
涙がボロボロと溢れてノートの文字を滲ませていく
彼は諦めてなんか、受け入れてなんかいなかった
十七歳の男の子が自分の命が尽きるのをただ待つのがどれほど恐ろしくて、孤独で絶望に満ちたことか
私に心配をかけまいと、格好悪い姿を見せまいと彼はあの優しい笑顔の仮面を被り続けていただけだったのだ
「私、何をしてるんだろう…」
私はノートを強く抱きしめ、図書室を飛び出した
格好悪くてもいい、無様でもいい
私は彼の本当の叫びを知ってしまった
なら今度こそ、私が彼の傍にいなきゃいけない
彼の孤独をほんの少しでも私が半分引き受けるんだ
走って、走って、冷たい冬の風を切り裂きながら、私は再びあの病院へと向かった
息を切らせて502号室のドアの前に立つ
もう迷いはなかった
私は大きく息を吸い込み、ドアを激しくノックした
「失礼します!」
返事も待たずにドアを開ける
病室の中の空気が一瞬で凍りついたように止まった
ベッドの上で酸素マスクをつけた桜坂くんが驚いたように目を見開いた
その顔は先日見た時よりもさらに青白く、痩せ細っていた
傍らにいたおばさまが「森永さん……」と絶句する
「…だめよ、面会は…」
「おばさま、お願いです 私、桜坂くんと話がしたいです」
私は一歩も引かなかった
ベッドの上の桜坂くんは酸素マスクの奥でひどく困ったように、そして悲しそうに首を振った
『帰ってくれ』
彼の瞳が無言でそう訴えていた
「嫌だよ、桜坂くん」
私はベッドの脇まで歩み寄り、彼の痩せた手を両手でぎゅっと握りしめた
「私の前で格好つけるのはもうやめて ノート、読んだよ 死ぬのが怖いって、もっと生きたいって、書いてあった」
桜坂くんの身体がびくりと震えた
「あなたの綺麗なところだけを見ていたわけじゃない ボロボロの桜坂くんでも苦しんでる桜坂くんでも、私にとっては世界で一人だけの大切な桜坂くんなんだよ お願いだからひとりで逝こうとしないで…!」
私の涙が彼の手の甲にポタポタと落ちていく
桜坂くんはじっと私を見つめていた
やがて彼の目から大粒の涙が溢れ出た
彼は弱々しい手で自分の酸素マスクを少しだけずらした
「……秋穂」
初めて彼は私のことを名前で呼んだ
その声は掠れていて、今にも消えてしまいそうだったけれど
「ごめん…ごめんね… 僕、本当は…もっと、君と生きたかった…っ」
彼は子供のように声を上げて泣いた
私は彼の細い身体を壊さないように、けれど二度と離さないように優しく強く抱きしめた
彼の寿命が尽きるまであと17日。
私たちはようやく本当の心で向き合うことができたのだった
無機質な病室のベッドで何本ものチューブに繋がれていた桜坂くんの姿
それが頭から離れない
私は彼の「綺麗で完璧な王子様」の姿だけを愛していたのだろうか
衰えていく彼を見るのが怖くて逃げ出した私はなんて卑怯で薄情な人間なのだろう
学校の図書室は冬の冷気で底冷えしていた
終業式を終えた放課後、私は誰もいない図書室のカウンターで彼がいつも座っていた椅子を見つめていた
「あれ…?」
ふと貸出台の隅にある、返却されたばかりの古い小説の山が目に留まった
その中に見覚えのある手帳が挟まっていた
それは桜坂くんがいつも持ち歩いていたグラフが描かれていた黒いノートだった
文化祭の日に彼が持っていたものを誰かが図書室に届けたのだろうか
私は震える手でそのノートを開いた
最初の数ページには彼が私に見せてくれた「世界の美しさ」が書き留められていた
中庭の花、購買のパン、水族館の魚。
彼の端正な文字で私への感謝の言葉が並んでいる
『森永さんと出会えて僕の日常は奇跡になった 彼女に僕の生きた証を残したい』
けれどページをめくるにつれて文字は少しずつ乱れ、殴り書きのようになっていく
それは彼が病院に運ばれた、文化祭の直前のページだった
『本当は死にたくない』
大きく書かれたその文字を見た瞬間、心臓がドクンと跳ねた
『怖い 暗い海の底に沈んでいくみたい もっと生きたい 森永さんと一緒に卒業式に出たかった 来年の夏もあの青いワンピースを見ていたかった 彼女の手をもっとずっと握っていたかった 神様、どうして僕なんだ 嫌だ、まだ死にたくない、死にたくない、死にたくない__』
ノートの紙面にはいくつもの丸いシミが残っていた
彼の涙の跡だった
「桜坂くん…」
涙がボロボロと溢れてノートの文字を滲ませていく
彼は諦めてなんか、受け入れてなんかいなかった
十七歳の男の子が自分の命が尽きるのをただ待つのがどれほど恐ろしくて、孤独で絶望に満ちたことか
私に心配をかけまいと、格好悪い姿を見せまいと彼はあの優しい笑顔の仮面を被り続けていただけだったのだ
「私、何をしてるんだろう…」
私はノートを強く抱きしめ、図書室を飛び出した
格好悪くてもいい、無様でもいい
私は彼の本当の叫びを知ってしまった
なら今度こそ、私が彼の傍にいなきゃいけない
彼の孤独をほんの少しでも私が半分引き受けるんだ
走って、走って、冷たい冬の風を切り裂きながら、私は再びあの病院へと向かった
息を切らせて502号室のドアの前に立つ
もう迷いはなかった
私は大きく息を吸い込み、ドアを激しくノックした
「失礼します!」
返事も待たずにドアを開ける
病室の中の空気が一瞬で凍りついたように止まった
ベッドの上で酸素マスクをつけた桜坂くんが驚いたように目を見開いた
その顔は先日見た時よりもさらに青白く、痩せ細っていた
傍らにいたおばさまが「森永さん……」と絶句する
「…だめよ、面会は…」
「おばさま、お願いです 私、桜坂くんと話がしたいです」
私は一歩も引かなかった
ベッドの上の桜坂くんは酸素マスクの奥でひどく困ったように、そして悲しそうに首を振った
『帰ってくれ』
彼の瞳が無言でそう訴えていた
「嫌だよ、桜坂くん」
私はベッドの脇まで歩み寄り、彼の痩せた手を両手でぎゅっと握りしめた
「私の前で格好つけるのはもうやめて ノート、読んだよ 死ぬのが怖いって、もっと生きたいって、書いてあった」
桜坂くんの身体がびくりと震えた
「あなたの綺麗なところだけを見ていたわけじゃない ボロボロの桜坂くんでも苦しんでる桜坂くんでも、私にとっては世界で一人だけの大切な桜坂くんなんだよ お願いだからひとりで逝こうとしないで…!」
私の涙が彼の手の甲にポタポタと落ちていく
桜坂くんはじっと私を見つめていた
やがて彼の目から大粒の涙が溢れ出た
彼は弱々しい手で自分の酸素マスクを少しだけずらした
「……秋穂」
初めて彼は私のことを名前で呼んだ
その声は掠れていて、今にも消えてしまいそうだったけれど
「ごめん…ごめんね… 僕、本当は…もっと、君と生きたかった…っ」
彼は子供のように声を上げて泣いた
私は彼の細い身体を壊さないように、けれど二度と離さないように優しく強く抱きしめた
彼の寿命が尽きるまであと17日。
私たちはようやく本当の心で向き合うことができたのだった



