桜坂くんの余命が尽きるまで。

季節は足早に通り過ぎ、九月半ば
学校は文化祭の準備で活気に満ちあふれていた
クラスの出し物は教室を改装して行う「小さなダンスカフェ」
男子はベストを、女子はクラシカルなエプロンドレスを着てお客様を案内しながら簡単なステップのダンスを披露するという趣向だった
「森永さん、ちょっとステップ、合わせてもらってもいい?」
放課後、机を後ろに下げた騒がしい教室の片隅で桜坂くんが私に右手を差し出した
夕方の光が窓から差し込み、埃の粒がきらきらと金色に舞っている
「え、私、ダンスなんて全然踊れないよ…」
緊張で固くなる私に彼は「大丈夫、僕に合わせて」と優しく微笑んだ
彼の冷たい左手が私の右手を包み、もう片方の手がそっと私の背中に添えられる
一、二、三。一、二、三。
桜坂くんのリードはとても自然で彼の歩調に合わせるうちに不器用な私の足も不思議と滑らかに動き出した
「上手、上手 森永さんは筋がいいね」
「からかわないでよ 頭の中でずっとカウントを数えてるんだから」
すぐ目の前にある彼の笑顔
学校の制服のはずなのに彼が身にまとうとまるでどこかの国の王子様のように見えてしまう
クラスの他の女子たちが遠巻きに私たちを羨ましそうに見つめているのが分かった
けれど今の私には彼の心臓の音が何よりも近くで聞こえていた
タッ、タン、とステップを刻む
その時彼、の胸の奥から不自然に速く、不規則な鼓動の響きが伝わってきた気がした
「……桜坂くん?」
「ん? どうしたの?」
「ううん、なんでもない…」
私の気のせいだと思いたかった
けれど文化祭が近づくにつれて彼の「異変」は誰の目にも明らかなほどに現れ始めていた
急に激しく咳き込んだり、階段を上るだけで立ち止まって肩で息をしたり
クラスの皆は「準備のしすぎで疲れてるんだよ」と心配していたけれど私だけは知っていた
彼のタイマーの砂時計が確実に落ちる速度を速めていることを
そして迎えた、文化祭の当日
カフェは大盛況で私たちは息をつく暇もないほど忙しく働いた
桜坂くんは持ち前の笑顔で完璧に接客をこなしていたけれど休憩時間にふと彼を見ると控室の椅子に深く腰掛け、真っ白な顔で胸を強く押さえていた
「桜坂くん、大丈夫!? やっぱり休んだ方が…」
私が駆け寄ると彼は無理に口元を歪めて微笑んだ
「大丈夫… ちょっとはしゃぎすぎちゃっただけだから 森永さん、最後の後夜祭、一緒に行こうね」
彼の強い眼差しに押され、私はそれ以上何も言えなくなってしまった
夜、校庭の中央に大きなキャンプファイヤーが灯された
パチパチと爆ぜる炎の粉が夜空へと吸い込まれていく
大音量の音楽が流れ、生徒たちが肩を組んで踊り、叫び、青春の真っ只中を楽しんでいる
そんな喧騒から少し離れた、校舎の影の暗がりに私と桜坂くんはいた
「綺麗だね、森永さん」
炎の光に照らされた彼の顔は酷く痩せて見えた
けれどその瞳だけは出会った頃よりもずっと強く、美しく輝いていた
「うん …すごく、綺麗」
私の声が震えていたのは寒さのせいではなかった
「僕ね、今年が人生で一番楽しいよ 森永さんと出会えて、たくさんの『普通』を教えてもらって 本当に幸せだ」
桜坂くんはそう言うとそっと私の手を握った
いつも以上に冷たい、まるで氷のような手
私は彼のその手を両手でぎゅっと包み込んだ
私の体温が少しでも彼に伝わるように。
少しでも彼の命をここに繋ぎ止められるように。
「桜坂くん、私___」
あなたが好き
その言葉が喉の奥まで出かかった、その時だった
「あ……っ……」
桜坂くんの口から 短い悲鳴が漏れた
彼の手が私の手を拒絶するように強く握りしめられ、次の瞬間、彼の身体からすべての力が抜けた。
「桜坂くん!?」
私の腕の中に彼の身体が崩れ落ちる
「嫌…嘘でしょ!? 桜坂くん! 目を覚まして!」
夜空に響く大音量の音楽と生徒たちの歓声
その眩しい光の世界の裏側で私は冷たくなっていく彼を抱きしめながら、ただ名前を叫び続けることしかできなかった
遠くから誰かの悲鳴と近づいてくる救急車のサイレンの音が聞こえていた
彼の寿命が尽きるまであと160日。