七月が終わり、学校は夏休みに入った
いつもならクーラーの効いた自室でダラダラと過ごすだけの退屈な長期休暇が今年の私にとっては一分一秒が惜しい特別な時間に変わっていた
「待たせてごめん、森永さん」
待ち合わせ場所に指定された駅前のロータリー
人混みをかき分けるようにして現れた桜坂くんは制服姿ではない、私服の姿だった
白いリネンのシャツに細身のチノパン
爽やかなその姿は真夏の強い日差しの中でもどこか涼しげですれ違う女の子たちが思わず振り返るほど目を引いた
「ううん、私も今着たところだから」
ベタな台詞を返しつつ、私は自分の服装が急に恥ずかしくなって肩にかけていたトートバッグの紐をぎゅっと握りしめた
少しでも大人っぽく見せたくて選んだサックスブルーのワンピースが彼にどう映っているのか気になって仕方がない
「そのワンピース、すごく似合ってる 今日の空の色みたいだね」
桜坂くんは私の心を透かしたように微笑み、それから「行こうか」と歩き出した
彼が提案した行き先は電車で二駅ほど離れた場所にある、古びた水族館だった
平日の昼間ということもあって館内は閑散としている
ひんやりとした空気と薄暗い通路を照らす青い水槽の光が外の茹だるような暑さを忘れさせてくれた
「わぁ、綺麗…」
巨大な水槽の前で私は思わず足を止めた
何百匹もの小さな銀色の魚たちが一つの大きな生き物のように形を変えながらきらきらと光を反射して泳いでいる
「鰯《いわし》の群れだよ 一匹一匹は弱いけどこうして集まることで大きな敵から身を守るんだって」
桜坂くんが私の隣に並んで水槽を見上げた
青い光に照らされた彼の横顔はまるで海の底に沈む美しい彫刻のようだった
「ねぇ森永さん、僕は時々自分がこの魚たちの一匹みたいだなって思うことがあるんだ」
「え?」
「大きな流れの中にいてただ流されているだけ でもね、こうして森永さんと一緒にいると自分がちゃんと『僕』としてここに生きているんだって実感が湧くんだ」
彼はそう言って私を見て優しく笑った
その言葉が私の胸の奥を激しく揺さぶる
私はただの、その他大勢の女の子でしかない
彼を救う特別な力も病気を治す知識もない
それなのに彼は私といることで「生きている」と感じてくれているという
水族館を出た後、私たちは近くの公園のベンチに座って売店で買ったソーダ味のアイスを食べた
カンカンと照りつける太陽の下、アイスは見る間に溶けて手首へと伝い落ちそうになる
「あ、大変 早く食べないと」
私が慌ててアイスを口に運ぶと桜坂くんはおかしくそうに声を立てて笑った
「あはは、森永さん、口の周りに青いのがついてるよ」
「えっ、嘘、どこ?」
ポケットからハンカチを出そうとした私より早く、桜坂くんの指先が私の口元に触れた
指先から伝わる、驚くほど冷たい体温
あの五月の図書室で涙を拭ってくれた時と同じ、消えてしまいそうな冷たさだった
「…とれたよ」
桜坂くんの顔がすぐ近くにある
彼の長い睫毛が夕方の風に揺れていた
心臓が耳の奥でうるさいほどの音を立てて脈打っている
これが恋なのだともう認めざるを得なかった
私はもうすぐいなくなってしまう男の子に世界で一番切ない恋をしてしまっている
「…ねえ、桜坂くん」
「ん?」
「私ね、桜坂くんのことがもっと知りたい」
私は溶けかけたアイスを見つめたまま、絞り出すように言った
「好きな音楽とか子供の頃の思い出とか、どんな小さなことでもいいの 全部、私に教えて」
桜坂くんは少し驚いたように目を見開き、それからどこか愛おしそうに目を細めた
「いいよ じゃぁこれから毎日、一つずつ僕の秘密を教えてあげる その代わり森永さんの秘密も僕に一つずつ教えてね」
「うん、約束する」
私たちは小さな子供のように指切りを交わした
彼の細い小指はやっぱり冷たかったけれど繋いだ場所からじんわりと温かいものが胸に染み込んでいくのを感じた
帰り道の電車の中、夕日に染まる車内で桜坂くんは私の隣で静かに眠ってしまった
ガタンゴトンと揺れる車体に合わせて彼の頭が私の肩にすとんと預けられる
規則正しい、けれど少し浅い彼の寝息を肩に感じながら私は心の中で祈り続けていた
神様がいるならどうかこの時間を止めないで
彼のタイマーのネジを少しだけでいいから巻き戻して
けれど現実は無情にも音を立てずに進んでいく
彼の寿命が尽きるまであと220日。
いつもならクーラーの効いた自室でダラダラと過ごすだけの退屈な長期休暇が今年の私にとっては一分一秒が惜しい特別な時間に変わっていた
「待たせてごめん、森永さん」
待ち合わせ場所に指定された駅前のロータリー
人混みをかき分けるようにして現れた桜坂くんは制服姿ではない、私服の姿だった
白いリネンのシャツに細身のチノパン
爽やかなその姿は真夏の強い日差しの中でもどこか涼しげですれ違う女の子たちが思わず振り返るほど目を引いた
「ううん、私も今着たところだから」
ベタな台詞を返しつつ、私は自分の服装が急に恥ずかしくなって肩にかけていたトートバッグの紐をぎゅっと握りしめた
少しでも大人っぽく見せたくて選んだサックスブルーのワンピースが彼にどう映っているのか気になって仕方がない
「そのワンピース、すごく似合ってる 今日の空の色みたいだね」
桜坂くんは私の心を透かしたように微笑み、それから「行こうか」と歩き出した
彼が提案した行き先は電車で二駅ほど離れた場所にある、古びた水族館だった
平日の昼間ということもあって館内は閑散としている
ひんやりとした空気と薄暗い通路を照らす青い水槽の光が外の茹だるような暑さを忘れさせてくれた
「わぁ、綺麗…」
巨大な水槽の前で私は思わず足を止めた
何百匹もの小さな銀色の魚たちが一つの大きな生き物のように形を変えながらきらきらと光を反射して泳いでいる
「鰯《いわし》の群れだよ 一匹一匹は弱いけどこうして集まることで大きな敵から身を守るんだって」
桜坂くんが私の隣に並んで水槽を見上げた
青い光に照らされた彼の横顔はまるで海の底に沈む美しい彫刻のようだった
「ねぇ森永さん、僕は時々自分がこの魚たちの一匹みたいだなって思うことがあるんだ」
「え?」
「大きな流れの中にいてただ流されているだけ でもね、こうして森永さんと一緒にいると自分がちゃんと『僕』としてここに生きているんだって実感が湧くんだ」
彼はそう言って私を見て優しく笑った
その言葉が私の胸の奥を激しく揺さぶる
私はただの、その他大勢の女の子でしかない
彼を救う特別な力も病気を治す知識もない
それなのに彼は私といることで「生きている」と感じてくれているという
水族館を出た後、私たちは近くの公園のベンチに座って売店で買ったソーダ味のアイスを食べた
カンカンと照りつける太陽の下、アイスは見る間に溶けて手首へと伝い落ちそうになる
「あ、大変 早く食べないと」
私が慌ててアイスを口に運ぶと桜坂くんはおかしくそうに声を立てて笑った
「あはは、森永さん、口の周りに青いのがついてるよ」
「えっ、嘘、どこ?」
ポケットからハンカチを出そうとした私より早く、桜坂くんの指先が私の口元に触れた
指先から伝わる、驚くほど冷たい体温
あの五月の図書室で涙を拭ってくれた時と同じ、消えてしまいそうな冷たさだった
「…とれたよ」
桜坂くんの顔がすぐ近くにある
彼の長い睫毛が夕方の風に揺れていた
心臓が耳の奥でうるさいほどの音を立てて脈打っている
これが恋なのだともう認めざるを得なかった
私はもうすぐいなくなってしまう男の子に世界で一番切ない恋をしてしまっている
「…ねえ、桜坂くん」
「ん?」
「私ね、桜坂くんのことがもっと知りたい」
私は溶けかけたアイスを見つめたまま、絞り出すように言った
「好きな音楽とか子供の頃の思い出とか、どんな小さなことでもいいの 全部、私に教えて」
桜坂くんは少し驚いたように目を見開き、それからどこか愛おしそうに目を細めた
「いいよ じゃぁこれから毎日、一つずつ僕の秘密を教えてあげる その代わり森永さんの秘密も僕に一つずつ教えてね」
「うん、約束する」
私たちは小さな子供のように指切りを交わした
彼の細い小指はやっぱり冷たかったけれど繋いだ場所からじんわりと温かいものが胸に染み込んでいくのを感じた
帰り道の電車の中、夕日に染まる車内で桜坂くんは私の隣で静かに眠ってしまった
ガタンゴトンと揺れる車体に合わせて彼の頭が私の肩にすとんと預けられる
規則正しい、けれど少し浅い彼の寝息を肩に感じながら私は心の中で祈り続けていた
神様がいるならどうかこの時間を止めないで
彼のタイマーのネジを少しだけでいいから巻き戻して
けれど現実は無情にも音を立てずに進んでいく
彼の寿命が尽きるまであと220日。



