高校二年生の春
新学期特有のあの浮足立った空気があまり好きではなかった
誰もが新しい友だちを作り、新しいグループに属そうと必死になっている教室
その中で私はいつも教室の隅で文庫本に目を落とす「その他大勢」の一人でしかなかった
私の名前は森永秋穂(もりなが あきほ)
目立つのが苦手で声が小さくて、これといった特技もない
そんな私が新学期の委員決めであみだくじに負け、図書委員になってしまったのは今年の一年を象徴するような不運だと思っていた
けれど本当の不運__いや、運命と呼ぶべきものはその放課後に待っていた
「よろしくね、森永さん」
古い木製の机が並ぶ図書室でそう言って微笑んだのは同じクラスの桜坂春馬(さくらざか はるま)くんだった
桜坂くんの名前を知らない女子はこの学年にはいない
端正な顔立ちと誰にでも分け隔てなく接する穏やかな物腰
彼は間違いなく、教室の「中心」にいる人間だった
なぜ彼のような人気者が地味な図書委員をやっているのか私には不思議でならなかった
「あ、うん よろしく、桜坂くん」
緊張して声が裏返りそうになるのを必死で抑えながら私はペコリと頭を下げた
それが私たちの始まりだった
図書委員の仕事は驚くほど静かで、単調だった
放課後のカウンターに二人で並び、たまにやってくる生徒の貸出処理をする
それ以外の時間はそれぞれが本を読んだり、課題をこなしたりしていた
最初のうちは気まずかったけれど桜坂くんは無理に沈黙を埋めようとはせず、ただそこにいてくれた
彼の周囲にはいつも微かに清潔な石鹸の香りとどこか冷たい薬品のような匂いが混ざり合って漂っていた
五月に入り、窓の外の緑が濃くなってきた頃
その日の図書室は私たち以外の誰もいなかった
西日が大きな窓から差し込み、床の古いリノリウムを琥珀色に染めている
カチ、カチ、と壁の古い時計の音だけが響く静寂の中、桜坂くんがおむろにシャーペンを動かし始めた
彼がノートに描いていたのは勉強の文字ではなかった
一本の奇妙なグラフ
縦軸と横軸があり、右肩下がりにまっすぐ、きれいにゼロへと向かって落ちていく直線
「それ、何のグラフ?」
普段なら他人のノートを覗き見るような真似はしないのにその時はなぜか、引き寄せられるように声をかけてしまった
桜坂くんはシャーペンを止め、顔を上げて私を見た
夕日の光が彼の桜色の瞳を透き通らせ、まるでガラス細工のような危うさを感じさせる
「これ? 僕の『寿命』のグラフだよ」
彼は明日の天気を予報するかのような、あまりにも淡々とした声で言った
「え……?」
「正確に言うと僕の心臓のタイマーかな 生まれつき病気があってね、これ以上はもう心臓が大きく育たないんだ 身体の成長にポンプの機能が追いつかなくなる 医者からはもってあと一年だろうって言われてる」
頭の芯がじんと痺れたような感覚がした
何を言われているのか理解が追いつかない
目の前にいる桜坂くんは健康そのものに見える
肌は少し白いけれどスタイルが良くていつも楽しそうに笑っていて、死なんていう不吉な言葉から一番遠い場所にいるはずの男の子だ
「冗談…だよね?」
「冗談ならよかったんだけどね」
桜坂くんは困ったように笑い、自分の胸にそっと手を当てた
「ほら、耳を澄ますと聞こえる気がするんだ カチ、カチ、って 僕の命が削れていく音が たぶんね次の春、校庭の桜が満開になる頃には僕の寿命は尽きる」
嘘だ、信じたくない、信じるわけにはいかない。
けれど彼のその笑顔の裏にある、逃れようのない諦めとどこか冷徹な現実感が私の言葉を喉の奥に縫い付けた
彼がいつもまとっていた、あの微かな薬品の匂い。
体育の授業をいつも見学していたこと。
すべてのピースが最悪の形で噛み合っていく
「どうして私にそんなこと言うの?」
私の声は震えていた
クラスの親しい友達でもない、ただの図書委員の私になぜそんな重い秘密を打ち明けるのか
桜坂くんはノートを閉じるとふっと視線を窓の外に向けた
校庭の隅にある、今は青々とした葉を茂らせている桜の木を見つめている
「同情されたくないんだ 友達に言ったらみんな泣くか腫れ物に触るみたいに扱うだろう? 僕は残りの時間を普通に、ただ普通に過ごしたい 森永さんは僕に興味がなさそうだからさ ここなら静かに『普通』でいられると思ったんだ …迷惑だったかな?」
ずるいと思った
そんなことを言われてこれまで通り「普通」でいられるわけがない
けれど彼の瞳にはすがりつくような寂しさが一瞬だけ、本当に一瞬だけ浮かんでいた
誰もが羨む人気者の彼は誰よりも孤独な崖っぷちに立たされていたのだ
「…迷惑じゃない、けど」
私は握りしめた拳を制服のスカートに押し付けた
「泣かないって約束はできないよ」
桜坂くんは目を見開き、それから今日一番の少年らしい悪戯っぽい笑顔を咲かせた
「あはは、そうだね じゃぁ図書室の中だけで泣くなら許すよ」
窓から吹き込んだぬるい五月の風が彼の前髪を揺らす
こうして私と桜坂くんの世界で一番切なくて、静かなカウントダウンが始まった
彼の寿命が尽きるまであと365日。
Orangeから
初めましての方は初めまして
前にもあった方はこんにちは
Orange(オレンジ)です
いつもならBLを描いているのですが気が向いたので作ってみました!
覚えて行っていただけると光栄でございます!
2026.7/3.17:16【スタート】
作者:Orange
新学期特有のあの浮足立った空気があまり好きではなかった
誰もが新しい友だちを作り、新しいグループに属そうと必死になっている教室
その中で私はいつも教室の隅で文庫本に目を落とす「その他大勢」の一人でしかなかった
私の名前は森永秋穂(もりなが あきほ)
目立つのが苦手で声が小さくて、これといった特技もない
そんな私が新学期の委員決めであみだくじに負け、図書委員になってしまったのは今年の一年を象徴するような不運だと思っていた
けれど本当の不運__いや、運命と呼ぶべきものはその放課後に待っていた
「よろしくね、森永さん」
古い木製の机が並ぶ図書室でそう言って微笑んだのは同じクラスの桜坂春馬(さくらざか はるま)くんだった
桜坂くんの名前を知らない女子はこの学年にはいない
端正な顔立ちと誰にでも分け隔てなく接する穏やかな物腰
彼は間違いなく、教室の「中心」にいる人間だった
なぜ彼のような人気者が地味な図書委員をやっているのか私には不思議でならなかった
「あ、うん よろしく、桜坂くん」
緊張して声が裏返りそうになるのを必死で抑えながら私はペコリと頭を下げた
それが私たちの始まりだった
図書委員の仕事は驚くほど静かで、単調だった
放課後のカウンターに二人で並び、たまにやってくる生徒の貸出処理をする
それ以外の時間はそれぞれが本を読んだり、課題をこなしたりしていた
最初のうちは気まずかったけれど桜坂くんは無理に沈黙を埋めようとはせず、ただそこにいてくれた
彼の周囲にはいつも微かに清潔な石鹸の香りとどこか冷たい薬品のような匂いが混ざり合って漂っていた
五月に入り、窓の外の緑が濃くなってきた頃
その日の図書室は私たち以外の誰もいなかった
西日が大きな窓から差し込み、床の古いリノリウムを琥珀色に染めている
カチ、カチ、と壁の古い時計の音だけが響く静寂の中、桜坂くんがおむろにシャーペンを動かし始めた
彼がノートに描いていたのは勉強の文字ではなかった
一本の奇妙なグラフ
縦軸と横軸があり、右肩下がりにまっすぐ、きれいにゼロへと向かって落ちていく直線
「それ、何のグラフ?」
普段なら他人のノートを覗き見るような真似はしないのにその時はなぜか、引き寄せられるように声をかけてしまった
桜坂くんはシャーペンを止め、顔を上げて私を見た
夕日の光が彼の桜色の瞳を透き通らせ、まるでガラス細工のような危うさを感じさせる
「これ? 僕の『寿命』のグラフだよ」
彼は明日の天気を予報するかのような、あまりにも淡々とした声で言った
「え……?」
「正確に言うと僕の心臓のタイマーかな 生まれつき病気があってね、これ以上はもう心臓が大きく育たないんだ 身体の成長にポンプの機能が追いつかなくなる 医者からはもってあと一年だろうって言われてる」
頭の芯がじんと痺れたような感覚がした
何を言われているのか理解が追いつかない
目の前にいる桜坂くんは健康そのものに見える
肌は少し白いけれどスタイルが良くていつも楽しそうに笑っていて、死なんていう不吉な言葉から一番遠い場所にいるはずの男の子だ
「冗談…だよね?」
「冗談ならよかったんだけどね」
桜坂くんは困ったように笑い、自分の胸にそっと手を当てた
「ほら、耳を澄ますと聞こえる気がするんだ カチ、カチ、って 僕の命が削れていく音が たぶんね次の春、校庭の桜が満開になる頃には僕の寿命は尽きる」
嘘だ、信じたくない、信じるわけにはいかない。
けれど彼のその笑顔の裏にある、逃れようのない諦めとどこか冷徹な現実感が私の言葉を喉の奥に縫い付けた
彼がいつもまとっていた、あの微かな薬品の匂い。
体育の授業をいつも見学していたこと。
すべてのピースが最悪の形で噛み合っていく
「どうして私にそんなこと言うの?」
私の声は震えていた
クラスの親しい友達でもない、ただの図書委員の私になぜそんな重い秘密を打ち明けるのか
桜坂くんはノートを閉じるとふっと視線を窓の外に向けた
校庭の隅にある、今は青々とした葉を茂らせている桜の木を見つめている
「同情されたくないんだ 友達に言ったらみんな泣くか腫れ物に触るみたいに扱うだろう? 僕は残りの時間を普通に、ただ普通に過ごしたい 森永さんは僕に興味がなさそうだからさ ここなら静かに『普通』でいられると思ったんだ …迷惑だったかな?」
ずるいと思った
そんなことを言われてこれまで通り「普通」でいられるわけがない
けれど彼の瞳にはすがりつくような寂しさが一瞬だけ、本当に一瞬だけ浮かんでいた
誰もが羨む人気者の彼は誰よりも孤独な崖っぷちに立たされていたのだ
「…迷惑じゃない、けど」
私は握りしめた拳を制服のスカートに押し付けた
「泣かないって約束はできないよ」
桜坂くんは目を見開き、それから今日一番の少年らしい悪戯っぽい笑顔を咲かせた
「あはは、そうだね じゃぁ図書室の中だけで泣くなら許すよ」
窓から吹き込んだぬるい五月の風が彼の前髪を揺らす
こうして私と桜坂くんの世界で一番切なくて、静かなカウントダウンが始まった
彼の寿命が尽きるまであと365日。
Orangeから
初めましての方は初めまして
前にもあった方はこんにちは
Orange(オレンジ)です
いつもならBLを描いているのですが気が向いたので作ってみました!
覚えて行っていただけると光栄でございます!
2026.7/3.17:16【スタート】
作者:Orange



