病院は、思っていたよりも静かだった。
静かというより、音が薄い。
足音も、話し声も、全部がどこか遠くに吸い込まれていく。
⸻
俺はその廊下に立っていた。
白い壁。白い床。白い光。
どれも同じ色に見えるのに、少しずつ違う白だった。
手には、何もない。
ただここに来る理由だけを持ってきたような気がした。
受付で名前を言うと、看護師は少しだけ間を置いてから案内してくれた。
「七瀬さんのお見舞いですね」
その言い方が、妙に“当たり前”だった。
廊下の奥。
少しだけ重いドアの前で止まる。
ノックをする。
一拍。
返事はない。
もう一度ノックしてから、ゆっくりドアを開けた。
そこに、七瀬結衣がいた。
ベッドの上。
窓から差し込む光が、白いシーツに落ちている。
いつもと同じ“窓際”なのに、全く違う場所だった。
結衣はこっちを見て、少しだけ目を瞬かせた。
「……来たんだ」
声はいつもより少しだけ小さい。
「おう」
それ以上の言葉が出なかった。
部屋の中は静かだった。
機械の小さな音だけが、一定のリズムで流れている。
椅子に座る。
何を言えばいいのか分からない。
「ここ、来るの分かってた?」
結衣がぽつりと言う。
「いや……分からなかった」
「そっか」
それだけ。
沈黙が落ちる。
でも不思議と気まずくはない。
ただ“言葉が追いついていないだけ”の静けさだった。
俺は結衣を見る。
いつものような強さはない。
でも、消えているわけでもない。
そこにいる。
確かにいる。
「なあ」
俺はようやく言葉を出す。
「大丈夫なのか」
結衣は少しだけ間を置く
「大丈夫って、何が」
その返しは、いつも通りだった。
でも少しだけ違う。
いつもの“距離を保つ軽さ”じゃなくて、“説明を避けるための軽さ”だった。
俺は言葉を失う。
結衣は窓の方を見る。
「ここ、嫌いじゃないよ」
「病院が?」
「うん」
少しだけ笑う。
「静かだから」
その笑いは、いつもよりずっと弱かった。
「結衣」
名前を呼ぶ。
それだけで、少しだけ胸が詰まる。
「俺さ」
言葉を探す。
「よく分かんないけどさ」
一度止まる。
「お前いないと、変なんだよ」
結衣はすぐには返さなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「そういうこと、言わなくていいのに」
小さな声。
「でも、言わないともっと変なんだよ」
また沈黙。
窓の外で、光が少しだけ動く。
「悠人」
結衣が呼ぶ。
「なに」
「描いてる?」
一瞬、意味が分からなかった。
でもすぐに気づく。
あのスケッチブックのことだ。
「ああ……あれか」
「うん」
「描いてるよ」
少しだけ嘘みたいな本当。
結衣はそれを聞いて、ほんの少しだけ安心したような顔をした。
「そっか」
それだけ。
でもその“そっか”が、なぜか一番重かった。
時間がゆっくり流れる。
俺は気づいてしまう。
これは“休んでいる”とか“体調が悪い”とか、そういう言葉ではもう足りない場所だ。
でも、今はまだそれを聞けない。
聞いたら、何かが終わる気がした。
帰る時間。
結衣が小さく言う。
「また来る?」
一瞬だけ迷う。
「来る」
結衣は少しだけ笑う。
「そっか」
今度は、その“そっか”が少しだけ優しかった。
病室を出る。
廊下はさっきより少しだけ明るく感じた。
でもその明るさは、安心じゃなかった。
むしろ、“現実に戻された感じ”だった。
俺は気づいてしまう。
あいつはまだそこにいる。
でも、ずっとそこにいられるわけじゃない。
その事実だけが、静かに形を持ちはじめていた。
静かというより、音が薄い。
足音も、話し声も、全部がどこか遠くに吸い込まれていく。
⸻
俺はその廊下に立っていた。
白い壁。白い床。白い光。
どれも同じ色に見えるのに、少しずつ違う白だった。
手には、何もない。
ただここに来る理由だけを持ってきたような気がした。
受付で名前を言うと、看護師は少しだけ間を置いてから案内してくれた。
「七瀬さんのお見舞いですね」
その言い方が、妙に“当たり前”だった。
廊下の奥。
少しだけ重いドアの前で止まる。
ノックをする。
一拍。
返事はない。
もう一度ノックしてから、ゆっくりドアを開けた。
そこに、七瀬結衣がいた。
ベッドの上。
窓から差し込む光が、白いシーツに落ちている。
いつもと同じ“窓際”なのに、全く違う場所だった。
結衣はこっちを見て、少しだけ目を瞬かせた。
「……来たんだ」
声はいつもより少しだけ小さい。
「おう」
それ以上の言葉が出なかった。
部屋の中は静かだった。
機械の小さな音だけが、一定のリズムで流れている。
椅子に座る。
何を言えばいいのか分からない。
「ここ、来るの分かってた?」
結衣がぽつりと言う。
「いや……分からなかった」
「そっか」
それだけ。
沈黙が落ちる。
でも不思議と気まずくはない。
ただ“言葉が追いついていないだけ”の静けさだった。
俺は結衣を見る。
いつものような強さはない。
でも、消えているわけでもない。
そこにいる。
確かにいる。
「なあ」
俺はようやく言葉を出す。
「大丈夫なのか」
結衣は少しだけ間を置く
「大丈夫って、何が」
その返しは、いつも通りだった。
でも少しだけ違う。
いつもの“距離を保つ軽さ”じゃなくて、“説明を避けるための軽さ”だった。
俺は言葉を失う。
結衣は窓の方を見る。
「ここ、嫌いじゃないよ」
「病院が?」
「うん」
少しだけ笑う。
「静かだから」
その笑いは、いつもよりずっと弱かった。
「結衣」
名前を呼ぶ。
それだけで、少しだけ胸が詰まる。
「俺さ」
言葉を探す。
「よく分かんないけどさ」
一度止まる。
「お前いないと、変なんだよ」
結衣はすぐには返さなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「そういうこと、言わなくていいのに」
小さな声。
「でも、言わないともっと変なんだよ」
また沈黙。
窓の外で、光が少しだけ動く。
「悠人」
結衣が呼ぶ。
「なに」
「描いてる?」
一瞬、意味が分からなかった。
でもすぐに気づく。
あのスケッチブックのことだ。
「ああ……あれか」
「うん」
「描いてるよ」
少しだけ嘘みたいな本当。
結衣はそれを聞いて、ほんの少しだけ安心したような顔をした。
「そっか」
それだけ。
でもその“そっか”が、なぜか一番重かった。
時間がゆっくり流れる。
俺は気づいてしまう。
これは“休んでいる”とか“体調が悪い”とか、そういう言葉ではもう足りない場所だ。
でも、今はまだそれを聞けない。
聞いたら、何かが終わる気がした。
帰る時間。
結衣が小さく言う。
「また来る?」
一瞬だけ迷う。
「来る」
結衣は少しだけ笑う。
「そっか」
今度は、その“そっか”が少しだけ優しかった。
病室を出る。
廊下はさっきより少しだけ明るく感じた。
でもその明るさは、安心じゃなかった。
むしろ、“現実に戻された感じ”だった。
俺は気づいてしまう。
あいつはまだそこにいる。
でも、ずっとそこにいられるわけじゃない。
その事実だけが、静かに形を持ちはじめていた。

