春は、ずっと同じ顔をしているわけじゃない。
昨日と今日で、少しだけ空気の色が変わる。
気のせいだと言われればそれまでの、ほんのわずかな差。
でもその“わずかさ”が、なぜか気になる日がある。
⸻
俺はいつものように美術室の前に立っていた。
ドアは少しだけ開いている。
そこから聞こえる音も、いつもと同じ――
――サラ、サラ。
のはずだった。
でも今日は、少しだけ違って聞こえた。
なんというか、筆の速度がわずかに不規則だった。
中に入る。
七瀬結衣はいつも通り窓際にいる。
光の中。
キャンバスの前。
でも今日は、少しだけ肩が固い。
「来てたんだ」
彼女は筆を動かしながら言う。
いつもの言い方。
でも声がほんの少しだけ軽かった。
「おう」
俺はそれ以上深く考えずに椅子に座る。
スケッチブックを開く。
線はもう、ただの線じゃなくなってきている。
何かの輪郭になりかけている。
「それ」
結衣が言う。
「昨日より、いい」
「ほんとか?」
「うん」
即答。
でもその声は、どこか集中しきれていない感じがした。
俺はふと気づく。
結衣の筆の動きが、少しだけ遅い。
遅いというより、止まる瞬間が増えている。
「なあ」
俺は何気なく聞く。
「疲れてる?」
一瞬、間が空いた。
「別に」
短い返事。
いつも通りのはずのその言葉が、今日は少しだけ重く感じた。
そのあと、会話は続かなかった。
ただ時間だけが流れる。
窓の外では、風が少し強くなっていた。
桜の花びらが、昨日より多く舞っている。
「ねえ」
結衣がぽつりと言う。
「悠人」
「なんだよ」
「さっきの線」
俺はスケッチを見る。
「これ?」
「うん」
少しだけ間。
「いいと思う」
その言葉はいつも通りのはずなのに、今日は少しだけ違って聞こえた。
なんというか、“無理に明るくしている感じ”が混ざっている。
「なあ」
俺は言う。
「なんか今日、変じゃね?」
結衣の手が一瞬止まる。
「何が?」
「いや……なんか」
うまく言葉にできない。
「お前さ、いつもより」
そこで止まる。
言っていいのか分からなかった。
結衣は少しだけこちらを見る。
でもすぐに視線を外す。
「気のせい」
それだけ。
その言い方が、妙に“逃げるための言葉”に聞こえた。
午後の光が少しずつ傾いていく。
いつもならその変化はただの風景なのに、今日はなぜか気になる。
「なあ」
帰り際、俺は言う。
「明日もいるよな?」
結衣は筆を置く。
一瞬だけ間があった。
「いるよ」
そう言ったあと、少しだけ視線を落とす。
その動きが、ほんのわずかだけ引っかかった。
「ほんとに?」
思わず聞いてしまう。
「いるって言ったでしょ」
結衣は少しだけ強めに言う。
でも、それは怒りじゃない。
どこか“自分に言い聞かせている”みたいな声だった。
その違和感が、初めてはっきり形を持った。
放課後。
教室に戻る廊下で、俺は少しだけ振り返る。
美術室のドアは、もう閉まりかけていた。
その隙間から見えた結衣の横顔が、なぜか少しだけ遠かった。
帰り道。
空はまだ青いのに、どこか薄い。
昨日までと同じ空のはずなのに、少しだけ違って見える。
俺は気づいてしまう。
あいつは、何かを隠している。
でもそれが何なのかは、まだ分からない。
そしてもう一つ。
たぶん俺は、その“分からなさ”から目をそらせなくなっている。
昨日と今日で、少しだけ空気の色が変わる。
気のせいだと言われればそれまでの、ほんのわずかな差。
でもその“わずかさ”が、なぜか気になる日がある。
⸻
俺はいつものように美術室の前に立っていた。
ドアは少しだけ開いている。
そこから聞こえる音も、いつもと同じ――
――サラ、サラ。
のはずだった。
でも今日は、少しだけ違って聞こえた。
なんというか、筆の速度がわずかに不規則だった。
中に入る。
七瀬結衣はいつも通り窓際にいる。
光の中。
キャンバスの前。
でも今日は、少しだけ肩が固い。
「来てたんだ」
彼女は筆を動かしながら言う。
いつもの言い方。
でも声がほんの少しだけ軽かった。
「おう」
俺はそれ以上深く考えずに椅子に座る。
スケッチブックを開く。
線はもう、ただの線じゃなくなってきている。
何かの輪郭になりかけている。
「それ」
結衣が言う。
「昨日より、いい」
「ほんとか?」
「うん」
即答。
でもその声は、どこか集中しきれていない感じがした。
俺はふと気づく。
結衣の筆の動きが、少しだけ遅い。
遅いというより、止まる瞬間が増えている。
「なあ」
俺は何気なく聞く。
「疲れてる?」
一瞬、間が空いた。
「別に」
短い返事。
いつも通りのはずのその言葉が、今日は少しだけ重く感じた。
そのあと、会話は続かなかった。
ただ時間だけが流れる。
窓の外では、風が少し強くなっていた。
桜の花びらが、昨日より多く舞っている。
「ねえ」
結衣がぽつりと言う。
「悠人」
「なんだよ」
「さっきの線」
俺はスケッチを見る。
「これ?」
「うん」
少しだけ間。
「いいと思う」
その言葉はいつも通りのはずなのに、今日は少しだけ違って聞こえた。
なんというか、“無理に明るくしている感じ”が混ざっている。
「なあ」
俺は言う。
「なんか今日、変じゃね?」
結衣の手が一瞬止まる。
「何が?」
「いや……なんか」
うまく言葉にできない。
「お前さ、いつもより」
そこで止まる。
言っていいのか分からなかった。
結衣は少しだけこちらを見る。
でもすぐに視線を外す。
「気のせい」
それだけ。
その言い方が、妙に“逃げるための言葉”に聞こえた。
午後の光が少しずつ傾いていく。
いつもならその変化はただの風景なのに、今日はなぜか気になる。
「なあ」
帰り際、俺は言う。
「明日もいるよな?」
結衣は筆を置く。
一瞬だけ間があった。
「いるよ」
そう言ったあと、少しだけ視線を落とす。
その動きが、ほんのわずかだけ引っかかった。
「ほんとに?」
思わず聞いてしまう。
「いるって言ったでしょ」
結衣は少しだけ強めに言う。
でも、それは怒りじゃない。
どこか“自分に言い聞かせている”みたいな声だった。
その違和感が、初めてはっきり形を持った。
放課後。
教室に戻る廊下で、俺は少しだけ振り返る。
美術室のドアは、もう閉まりかけていた。
その隙間から見えた結衣の横顔が、なぜか少しだけ遠かった。
帰り道。
空はまだ青いのに、どこか薄い。
昨日までと同じ空のはずなのに、少しだけ違って見える。
俺は気づいてしまう。
あいつは、何かを隠している。
でもそれが何なのかは、まだ分からない。
そしてもう一つ。
たぶん俺は、その“分からなさ”から目をそらせなくなっている。

