きみと描く青い未来。

 気づけば、あの場所に行くのが当たり前になっていた。

 美術室の前で足を止めることに、もう迷いはない。

 ドアは今日も少しだけ開いている。

 その隙間から、変わらない音が漏れている。

 ――サラ、サラ。

 鉛筆が紙を走る音。

 それを聞くと、なぜか少しだけ呼吸が楽になる。

 中に入ると、七瀬結衣はいつも通り窓際にいた。

 同じ場所。
 同じ光。
 同じようで、少しだけ違う背中。

 その“少しだけ違う”が、最近はやけに気になる。

「また来た」

 彼女は振り向かずに言う。

 もう挨拶みたいになっていた。

「おう」

 俺も自然に返す。

 このやり取りだけで、少しだけ“ここにいていい気がする”

 椅子に座る。

 スケッチブックを開く。

 白いページは、もう真っ白ではない。

 昨日までの線が、少しだけ形を持ち始めている。

「それ」

 結衣が言う。

「なんか、変わってきた」

 俺はページを見る。

「そうか?」

「うん」

 短い返事。

 でも、ちゃんと見ている声だった。

 その“見ている”という事実が、少しだけ嬉しい。

「なあ」

 俺は鉛筆を動かしながら言う。

「お前って、ずっとここいるけどさ」

「うん」

「他のこと、しないの?」

 結衣は少しだけ間を置く。

「してるよ」

「例えば?」

「描くこと」

 それだけ。

 会話が終わる。

 でも気まずくはならない。

 むしろ、こういう終わり方が普通になってきていた。

 しばらくして、結衣がぽつりと言う。

「ねえ」

「なんだよ」

「名前」

「え?」

「まだちゃんと呼んでない」

 一瞬、止まる。

 確かに、俺たちはまだお互いを“名前で呼んでいなかった”。

「……お前さ」

「七瀬結衣」

 先に言われる。

 その言い方が、妙に真っ直ぐだった。

 逃げでもなく、確認でもなく、ただ“それが自分だ”というだけの声。

「じゃあ俺は」

 少しだけ間を空けて言う。

「――悠人」

 自分の名前を、改めて言うのが少しだけ変な感じがした。

「悠人」

 結衣が繰り返す。

 たったそれだけなのに、空気の温度が少しだけ変わった気がした。

「なに」

「別に」

 彼女は少しだけ視線を落とす。

「呼んだだけ」

 その“呼んだだけ”が、なぜか頭に残る。

 午後の光が少しずつ傾いていく。

 キャンバスの影が長くなる。

「なあ」

 俺は言う。

「それ、何描いてるんだよ」

 結衣は筆を止める。

「まだ途中」

「それは聞いた」

「じゃあ、それでいいでしょ」

 少しだけ笑ってしまう。

「お前、ほんとそれ好きだな」

「何が?」

「途中」

 結衣は少しだけ考えてから言う。

「終わってるものより、好き」

 その言葉は、軽いのに重かった。

 気づけば、外が少し暗くなっている。

 窓の青が、昼とは違う色になっていた。

「ねえ」

 結衣が言う。

「悠人ってさ」

「ん?」

「なんでここ来るの」

 一瞬、言葉が出ない。

 理由を考えたことがなかったからだ。

「分からない」

 正直に言う。

「でも、来ないと変な感じする」

 結衣は少しだけこちらを見る。

 その目は、いつもより少しだけ長く俺に向いていた。

「それ」

 彼女が言う。

「いいと思う」

 何がいいのかは分からない。

 でも、その言葉は拒絶じゃなかった。

 放課後。

 いつものように帰ろうとする。

 でも今日は、少しだけ違う。

「悠人」

 後ろから声がする。

 初めてちゃんと呼ばれた気がした。

 振り返る。

 結衣は筆を持ったまま、こちらを見ている。

「明日も来る?」

 一瞬、答えに迷う。

 でもすぐに頷いていた。

「行く」

 結衣はそれを見て、何も言わない。

 ただ、少しだけ目を細める。

 それが笑顔なのかどうかは、まだ分からない。

 帰り道。

 俺は気づいてしまう。

 この場所はもう、“行ってもいい場所”じゃない。

 “行かないと落ち着かない場所”になっている。

 そしてもう一つ。



 あいつの声で、自分の名前が少しだけ違って聞こえた。