きみと描く青い未来。

 次の日も、その次の日も、俺は美術室の前に立っていた。

 理由は、正直よく分からなかった。

 ただ「行ってみようかな」と思った瞬間に、足がそっちに向いてしまう。
 それだけのことだった。

 ドアはいつも少しだけ開いている。

 そこから聞こえる音も、変わらない。

 ――サラ、サラ。

 鉛筆が紙をなぞる音。

 その音を聞くと、教室のざわつきが少し遠くなる。

 中に入ると、七瀬結衣はいつも通り窓際にいた。

 同じ場所。
 同じ姿勢。
 同じようにキャンバスと向き合っている。

 でも昨日とまったく同じかと言われると、そうでもない。

 筆の動きが、ほんの少しだけ変わっている。

 迷いが増えたというより、“考える時間が入った”という感じだった。

「また来たんだ」

 彼女は振り向かないまま言った。

 もうそれが挨拶みたいになっていた。

「……まあな」

 俺は少しだけ慣れた声で返す。

 椅子に座る。

 昨日と同じ場所。

 でも昨日より、少しだけ落ち着いていた。

 何をすればいいか分からない時間に、少しだけ慣れてきていた。

「それ」

 結衣が言う。

「昨日の続き?」

 俺はスケッチブックを見る。

 開いたままの白いページ。

 昨日引いた線が、まだそこに残っている。

「続きっていうか……止まってる」

「じゃあ、動かせばいい」

 簡単に言う。

「簡単に言うけどさ」

「簡単だよ」

 結衣はキャンバスを見たまま続ける。

「難しくしてるのはそっち」



 その言葉は、昨日より少しだけ刺さった。

 でも不思議と嫌じゃない。

 むしろ、少しだけ考えたくなる言い方だった。

 俺は鉛筆を取る。

 昨日の線の続きに、少しだけ線を足す。

 手が止まる。

 でも昨日ほど怖くない。

「それ、何に見える?」

 結衣がふと聞いた。

 俺はスケッチを見る。

 まだ形にはなっていない。

「……分からない」

「じゃあ、それでいい」

 即答だった。

 その“いい”が、妙に軽くて、妙に救いだった。

 気づけば、昼休みが終わる時間が近づいていた。

 窓の光が少し傾いている。

「お前さ」

 俺は何気なく聞いた。

「毎日ここいるの?」

 結衣は少しだけ間を置く。

「だいたい」

「飽きないのか?」

 彼女はそこで初めて、少しだけ俺の方を見た。

「飽きるとかじゃない」

「じゃあ何だよ」

「途中だから」

 その一言で終わりだった。

 説明でもなく、理由でもなく。

 ただそれ以上でも以下でもない。

 俺はそれ以上聞けなかった。

 放課後。

 気づけば、また来ていた。

 昨日と同じように、ドアの前に立つ。

「今日も来た」

 結衣は筆を動かしながら言う。

「……悪いかよ」

「別に」

 短い返事。

 でも少しだけ、昨日より距離が近い気がした。

 それは気のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 俺は椅子に座る。

 鉛筆を取る。

 線を引く。

 昨日より少しだけ迷わずに。

 結衣がちらりとこちらを見る。

 ほんの一瞬。

 でもその一瞬だけで、なぜか“見られた”感覚が残る。

「ちょっとは形になってきたな」

 彼女が言った。

「ほんとに?」

「うん」

 それだけ。

 評価でもなく、褒めでもない。

 ただ事実としてそこに置かれた言葉だった。

 気づけば夕方だった。

 窓の外の空が、青から灰色に変わっていく。

「なあ」

 帰り際、俺は聞いた。

「明日もいるのか?」

 結衣は筆を置く。

「たぶん」

「たぶんって何だよ」

「いるかもしれないし、いないかもしれない」

 曖昧な返事。

 でもそれが、逆に“ここにいる人間”っぽかった。

 俺は頷いた。

「じゃあまた来るわ」

 言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。

 結衣はそれを見ても何も言わなかった。

 ただ、キャンバスに視線を戻す。

 帰り道。

 俺は気づいてしまう。

 これ、ただの習慣になりかけてる。

 でもまだ、恋って言うには遠い。

 ただ一つだけ分かるのは。

 あの場所に行かない日が、想像しにくくなっているということだった。