来たれ、筋肉っ!~蓼食う虫も好き好きです~

 愛田(あいだ)愛里(あいり)、24歳。性別・女。名取(なとり)建設会社勤務、広報事務担当。
 
 ――この世の中で、何が一番素敵かって?
 それは筋肉。筋肉に決まっている。
 何故って?
 だって筋肉は嘘をつかないから。そこに嘘はないから。
 筋肉のある人は鍛えている。筋肉のある人は見た目もかっこいい。筋肉のある人は強い。守ってもらえそう。
 一石二鳥どころか、三鳥、四鳥、五鳥――それだけの価値が筋肉にはある。
 一朝一夕で形成されるものではない、日々の努力を怠っていない人間にしか絶対に持ち得ない、まさに研鑽と積み重ねの証――それが筋肉。
 例えば、顔が良いとか、体格がいいとか。
 そういうのは結局天運に左右される面が大部分な訳で、たまたま(・・・・)得ているだけのそこには私は何の価値も――いや、少しマイルドに言い直す、さほどの価値は見出せない。
 筋肉が好き。
 そう、この私の性癖はある日表れた突発的なものではなく昔から持っていたもので、多分この世に生を受けた時から私は筋肉が好きだった。
 過激な発言をさせて貰えば、筋肉の無い男の人に人権なんて無い。私は本気でその位の認識でいる。
「じゃあ、後よろしくね」
 月末で多忙を極める、慌ただしい、女性社員が十六人ほど在籍している事務室内。
 一通り事務員への連絡や指示を的確にした後、ふわりと完璧に絵になる笑顔を向けて事務室を背を向けて去って行ったのは――名取(なとり)鷹一(たかいち)副社長。
 この背中をこうして見送る瞬間、その度に、自分が筋肉意外に価値を置いてないのだという事をいつも実感してしまう。
 そして彼の来訪効果で室内が色めき立つのも、いつもの事。
 一応小さめには抑えているけれど、それでもあちこちから耳に届く、(はしゃ)ぎようが伝わって来てしまう高い悲鳴にも似たこの声には、入社して一年三か月が経った今でもやはり慣れない。
『常に入札情報や取引会社との対応に追われる中で潤いを与えてくれる、いわば砂漠の水であり大樹である』
『いつも丁寧な挨拶とルックスと笑顔だけでうっとりしてしまう』
 先輩、後輩、同期――他の女子社員はほぼ全員、いつもそんな話をして盛り上がっている。
『愛田さんって、副社長に興味湧かないの?』
 そう問われた事も幾度となくある。
 だけど、私は違う。私は全く共感出来ないし、付いていけないし、心も動かない。
 だからその問いには、イエスと答える他ない。
 確かに副社長はそれなりに素敵な人だと思うけど、でもそのスペックを全て帳消しにしてしまう重大な欠点が存在するではないか。
(――だって、筋肉がない!)
 もちろん、実物を完全に見て確認したという訳じゃない。副社長はいずれこの会社を継いでトップに立つ、雲の上のお人だ。私なんかがおいそれとお近づきになれる人ではない。
 ましてや肌を見せてもらえるような関係では絶対にないけど、でも私くらいの筋肉マスターになれば、例えばシャツから少しだけ覗く腕とか、薄い服の肌へのまとわりつきかた加減や皺の伸び方――そうった物からその量を逆算できてしまうのである。
 これは世間的には塵ほどの役にも立たない、私にとっては超重要、今まで大切に磨き上げて来た必要不可欠なスキルだ。
 それにプラスして、実際に偶発的に副社長に触れ合った(・・・・・)という経験も私にはあるので、これはもう間違いない。
 入社して二週間が経った頃、落ち着きという物が全く無い私は社内のフロアで転んでしまうという失態を犯した経験があり、その時たまたま隣を歩いていた副社長が私を支えてくれ、恐れ多くもその胸に凭れさせて頂いたその瞬間――確証を得てしまった。
 『やっぱり筋肉が無い』と。
 クッションになって助けて貰っておいてこう言うのも何なのだが、とにかくその時点で私の副社長に対するときめきゲージはほぼゼロになっている。
(それよりも、やっぱり……)
 刻み込まれた記憶が蘇って来て、私はデスクの真ん中の引き出しを開けると、そこに隠し持っていた手のひらサイズの赤いミニノートを取り出した。
 手に持ったのと同時に心が湧きたっていく。心がむずむずと疼く。
 ――今は仕事中。でも、でもやっぱり。
(我慢、できない……っっ!!)
 私はぱらぱらとノートをめくって、赤いペンで本日の日付と文字を書き込んでいく。
 
 6/25  会社に来てくれた水道修理業者の人の筋肉!! 筋肉が素敵だった!! あの腕にしがみつきたい……♡

 副社長が来る前にこの事務室に来てくれていた水道修理業者のお兄さんの筋肉を思い出し、むふふ、と私は口元を緩ませた。
 三日前頃から調子が悪くなっていたこの事務所の給湯室の水道を、プロの技で見事に一瞬で修理していったお兄さんの、シャツから覗いていた、あの見事なまでの逞しく美しい筋肉。
 思い出すだけで興奮して鼻息が荒くなりそうになってしまう。
 私は貴重な筋肉との出会いをこうしてこのノートに書き溜めそして読み直し、日々のエネルギー補給にしている。
 素晴らしい筋肉との出会いは絶対に忘れたくない。その出会いは一期一会なのだから。
(皆どこ見てるんだろう……)
 副社長はもちろん魅力ある人だけど、今日きたあの水道修理業者のお兄さんの筋肉はもっと素晴らしいではないか。
 記入を終えたノートを眺めながらそう思うけど、でもこればかりは仕方ない。
 蓼食う虫も好き好きと言うし、重きを置くポイントという物がそれぞれきっと違うのだ。
 別に副社長を下げている訳じゃない。
 副社長には何度も助けて貰っているので、私も本当に頭が上がらないほど感謝はしている。
 実は、この会社の面接を受けに来た時にも私は助けて貰った。
 面接日前夜、緊張でまともに眠れなかった私は見事に寝坊をしてしまい、遅刻をしてしまって。
 何とかならないかと受付担当者に説得を試みたものの、時間に遅れた方にはご遠慮いただいておりますとにべもなく返され、とぼとぼと会社を後にしようとしたその時――たまたまそこを通りがかった副社長が、私が面接に臨めるよう取り計らってくれたのだ。
 あの時の副社長はまさに神だった。おかげで無事に今、こうして働けている。
(優しい人だっていうのは、分かっているの)
 あとは筋肉。筋肉さえあれば良かったのに。
 うん、優しくて筋肉のある人が、やっぱり一番いい。
(……どこかにいないかなあ、そんな人)
 理想を思い描きながら、私は天井を仰ぐ。
「――ほら! 仕事仕事!」
 ぼんやりと妄想に浸っていると、隣の机を利用している同期入社の比嘉(ひが)夕美(ゆうみ)から厳しい指摘を食らってしまった。
「はーい」
 ちょっとまだ夢の世界から抜けきれていない、間延びした声で返事をして、私はそっとノートを引きだしに戻す。
 夕美はよく私にこうしてダメ出しをしてくる。
 最近はようやく私の性癖を受け入れてくれて(匙を投げられたと言った方が正しいのかもしれない)、仕事に支障がない限り細かく注意してこなくなったけれど。
 この間私が筋肉トークをしたら
『キショい、キモい。気持ち悪い』
 なんて三拍子みたいにして言われてしまったので、本当の意味で筋肉の素晴らしさを理解してもらうのは、やっぱり難しそうだ。
 でも私もここは絶対に譲れない。
 とにかく筋肉。異性に魅力を感じる部分は、筋肉。
「今日来てくれた水道会社の人……今度話しかけてみようかなあ」
 ふと思った事がそのまま、口をついて出た。
 筋肉に夢中になっている間に時間は流れ、恋愛経験ゼロのままここまで来てしまったけれど――これでも結婚願望は、一応ある。
 24歳。もういい加減私も待ってるだけじゃ駄目で、何か動き出さなければいけない。
(来週、修理に問題が無かったか、また水道の様子見に来るって言ってたし)
 きっと私の筋肉好きを知っている夕美なら納得してくれるだろう、と、思っていたけれど。
 夕美を見ると、ぎょっとした表情をして私を見ていた。信じがたい物を見るような目で。
(え? 何で?)
 何か、おかしい?
 こういう出会いもあっていいと思うんだけど。取引先の社員との恋愛なんてごく普通だと思うし。
 ――何故かは分からなかったけど、でも夕美がこういう顔をしているという事は、やっぱり止めておいた方がいいのか。
 夕美は真面目で仕事も正確だから。間違いないし。
 そういえば、副社長から北海道出張のお土産にハンドクリームを貰った時、
『お土産にハンドクリームまで社員に配ってくれるなんて副社長って本当に優しいよね』
 とランチの時夕美に言ったら、
『それ、他の人に言わない方が良い。絶対言っちゃダメ、やめて』
 って変に口止めされた事もあったな。
 あの時もこういう渋い、そしてどこか呆れたような表情をしていた。夕美は私にこういう口止めもよくしてくる。
 意味が分からない。
 だけど、別にこっちも言いたくて仕方ないって訳じゃないから、今の所は言われた通りにしている。
(夕美は何だかんだで大事な友達だし)
 まだ愕然とした顔のままの夕美を見てそう思いつつ、私はとりあえず真面目な社員に戻るべくパソコンのマウスに手をかける。
 仕事はまだまだ沢山ある。定番のメールチェック、広報業務、議事録の作成から、休憩ルームの整備などのいわゆる雑用まで。
 決して楽ではないけど、この仕事自体は好きだし、この職場も好きだ。
 業界大手で、清掃が行き届いている綺麗なオフィス。
その上お給料もかなり良くて、そして私の筋肉好きを何だかんだで受け入れてくれる同僚ばかり。
 上司も有能で頼りになり、特に副社長は頭が切れ、自らの足でも動きバリバリと仕事をさばき、こなしていく。
 ゆくゆくは会社を引き継ぐであろう副社長がこれならば、この会社の未来も明るい。前途は洋々だ。
(うん、副社長は素晴らしい人ですごい人。立派な人)
 ――筋肉は、無いけど。
 ともあれ、私は今日も最高の環境にいれて、幸せなのである。
 自分の境遇の幸せをそう噛み締めつつ、私は脳内スイッチを仕事モードに切り替えてパソコンを操作し始めた。