音のない世界

植木鉢が落ちた日から数日。

私はいつも通り朝四時に起きる。

新聞を配る。

スーパーで安い食材を買う。

家に帰れば、酒とタバコの臭い。

松永はソファで寝ていた。

起こさないように朝食を作る。

洗い物を済ませ、制服に着替える。

長袖。

スカートの下にはスウェット。

鏡を見る。

首元に紫色の痣。

制服の襟を少し上まで留める。

……隠れた。

耳栓をケースから取り出し、耳にはめる。

外の世界はうるさい。

聞きたくない。

男の怒鳴り声も。

車のクラクションも。

全部。

家を出る。

学校へ向かう途中、コンビニで水だけ買う。

朝ご飯は食べない。

食べる時間も、お金もない。

学校へ着く。

今日も誰とも話さない。

教室へ入り、一番後ろの席に座る。

鞄を机に置き、そのまま伏せる。

眠い。

昨日も二時間しか寝ていない。

目を閉じる。

……

……

「……」

何か視線を感じる。

ゆっくり顔を上げる。

教室の前。

一人の男。

……誰。

見覚えはある。

でも名前は知らない。

男はこちらを見ていた。

目が合った。

私はすぐに目を逸らす。

男は嫌い。

近付かないで。

それだけ思って、また机に伏せた。



昼休み。

チャイムは聞こえない。

耳栓をしているから。

みんなが立ち上がる音だけが、ぼんやり伝わる。

私は鞄から小さなパンを取り出す。

半額シールの付いたパン。

昨日の閉店前に買ったもの。

袋を開けようとした、その時。

パンが手から落ちた。

コロコロと転がる。

私は反射的にしゃがむ。

同じタイミングで、誰かの手がパンを拾った。

男の手。

心臓が大きく鳴る。

また男。

体が勝手に震える。

その手は何もせず、私の前へパンを差し出した。

私は受け取れない。

男の手が怖い。

数秒。

沈黙。

男は何か話している。

聞こえない。

耳栓をしているから。

私は小さく頭を下げると、パンを奪うように受け取り、そのまま教室を飛び出した。

廊下。

誰もいない階段まで走る。

壁にもたれ、息を整える。

「……はぁ……。」

まただ。

男が近付くだけで、体が動かなくなる。

助けようとしただけかもしれない。

そんなことくらい分かってる。

でも、怖い。

どうしても怖い。

私は膝を抱え、耳栓をぎゅっと押さえた。

ママ

私は、まだ誰も信じられない。

助けて。ママ