音のない世界

教室の扉が開く。

いつものように視線が集まる。

俺も何気なく顔を上げた。

その瞬間だった。

「……っ。」

息が止まる。

優花の左目の下。

髪では隠しきれない紫色の痣。

昨日まではなかった。

誰がやった。

胸の奥が熱くなる。

無意識に席を立っていた。

優花は何も気にした様子もなく、自分の席へ向かう。

まるで、その痣があることすら忘れているようだった。

俺は優花の前に立つ。

優花がゆっくり顔を上げる。

綺麗な目。

だけど、何も映していない。

俺は自分の目の下を指差した。

そして優花の痣を指差す。

「……どうした。」

返事はない。

そうか。

耳栓。

俺は思い出した。

優花は聞こえていない。

優花は小さく耳栓を外した。

「……何。」

初めてちゃんと聞いた声。

小さくて、透き通っていて。

思っていたよりずっと優しい声だった。

だけど今は、それどころじゃない。

「その痣、どうした。」

優花の表情が止まる。

ほんの一瞬だけ。

次の瞬間には耳栓を戻していた。

そして俺の横を通り過ぎようとする。

待て。

その痣を、そのままにできるか。

俺は反射的に手首を掴んだ。

「待っ──」

ビクッ。

優花の体が大きく震えた。

怯えた。

俺を見た目。

あれは恐怖だった。

まるで俺が化け物みたいに。

優花は勢いよく手を振り払う。

後ろへ下がる。

肩を震わせながら、何も言わず教室を飛び出していった。

「優花!」

名前を呼んでも振り返らない。

教室には静かな空気だけが残った。

俺は自分の手を見る。

……何やってんだ。

心配だった。

それだけだった。

でも、あいつには違った。

俺が手を掴んだ瞬間。

本気で怯えてた。

「龍。」

壱成が静かに隣へ来る。

「追いかけるか?」

俺は首を横に振った。

「今追いかけたら、もっと怖がらせる。」

陽介が腕を組む。

「普通じゃねぇな。」

「あぁ。」

「痣も気になる。」

日向が珍しく真面目な顔をした。

「転んだ痣には見えへん。」

教室が静まり返る。

誰もふざけない。

俺は優花が走って行った廊下を見つめた。

「龍。」

壱成が小さく言う。

「ちゃんと調べるか。」

俺は少しだけ考えた。

調べれば分かるかもしれない。

家族。

住所。

生活。

全部。

でも。

「……やめとく。」

三人が俺を見る。

「本人が話してないことを勝手に知るのは違う。」

俺は拳を握った。

「でも。」

痣を思い出す。

あの震え方を思い出す。

「もし誰かがお前を傷つけてるなら。」

誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。

「俺が絶対、見つけ出す。」

壱成、陽介、日向は何も言わなかった。

ただ三人とも、龍が本気で一人の女を想っていることだけは理解していた。