聖女の力を与えられた悪女は

「まったく、何がそんなに気にくわないのか……」

 ルシアンは呆れたように小さく溜息をつくと、それ以上は何も言わず歩き出した。

 帰る場所は同じだ。不本意ながらも私は彼の後に続いて王室の廊下を歩くと、アルスハイン公爵家の紋章が刻まれた見慣れた馬車が現れた。

「ほら」

 馬車の前で足を止めたルシアンが、こちらに向かって手を差し伸べる。

 私はその姿を一瞥し、知らんぷりをして自力で馬車に乗り込む。

 そんな私を咎めることなく、続けて彼も馬車に乗り込んだ。

「出してくれ」

 ルシアンが御者へ声をかけると、ゆっくりと馬車が動き始める。

 私は深く座席にもたれかけ、窓に視線を固定する。

 ただひたすら、この居心地悪いこの時間が一刻も早く過ぎることを願いながら外の風景を眺めていると、突然伸びてきた色白い手が私の唇に触れた。

「唇を噛むなといつも言っているだろう」

 こちらに身を乗り出したルシアンが私の下唇に優しく触れながら、少し咎めるような口調で言う。

 私は急いでその手を叩くように振り払うと、冷静を取り戻すように息を吸い込んだ。

「ど、どうして触るのよ!」

「俺はお前の夫で、お前は俺の妻だ。夫が妻に触れてはいけない理由があるのか?」

 眉間に皺を寄せながら言ったルシアンに、私は返事をする代わりに顔を背けた。

 どう返事をしたらいいのか、分からなかった。

 無意識に噛んでいた下唇をそっと指で撫でて、そのまま窓の外へ視線を逃がす。
 向かい側から聞こえてきた、何度目か分からないため息に気づかないフリをして。

 エリオット皇太子殿下とは違って、夫であるルシアンには、私のこの生意気な態度を咎める権利がある。
 それでも彼は、私の行動のすべてに目を瞑ってくれた。

 後悔してるの? 私を妻にしたこと。めんどくさいって思ってるんでしょ?

 貴族間の結婚は一度も顔を合わすことなく、婚姻が進められることも少なくないが、ルシアンと私は、幼い頃からの顔見知りだった。

 私がまだロズレイン公爵家の令嬢だった頃、父に連れられて初めて彼と会った。

 アルスハイン公爵家は、同じ公爵家とはいえロズレイン家とは格が違う。
 積み重ねてきた歴史も、莫大な財も、権勢も。比べることさえおこがましいほどの名門だった。

 子ども同士を親しくさせれば、いずれ家同士の繋がりも深くなる。もしかすると、内内には私とルシアンの婚約を進めようとしていたのかもしれない。あの愚かな父がそんな浅はかな期待を抱いていたとしてもおかしくはなかった。

 けれど、私に光魔法が発現したことで状況は一変した。
 聖女の座を手にした私を、父は皇太子の元へ嫁がせようと考え始めた。

 それ以来、ルシアンと顔を合わせる機会はほとんどなくなった。

 幼馴染と呼べるほど親しかったわけでもない。一緒にいても、彼はいつも本ばかり読んでいて、ろくに口も利かない無愛想な子供だった。

 悪名高い私のことなんて嫌っていたはず。

 だからこそ、あの日、私の身勝手な願いにためらうことなく頷いた理由だけが、今だに分からないままだった。

 今思い返しても、なぜ、あの時ルシアンが私の無茶苦茶な言葉に頷いたのか信じられなかった。

『私を妻にしなさい。誰も私を悲しませることができないよう、あなたが私を守るの。世界で一番高貴な王女様に接するように、私をけして傷つけないように……そう、約束して』

 国に二人しかいない聖女を妻に迎えたいと考えたのだと言われれば、それまでだ。
 けれど、アルスハイン家は皇室への信仰に傾倒するような家ではない。
 王国屈指の名門公爵家の当主である彼が、わざわざ私のような面倒な女を妻に選ぶ理由にはならなかった。

 どれだけ考えてもその意図は分からないが、彼には感謝するべきだった。
 何としてでも、あの腹立たしい皇太子と結婚することだけは嫌だったから。
 父がまるで神のように崇拝する皇室の一員になることだけは何としてでも避けるべきだった。

 チラッと視線を上げると、ルシアンは私と反対側の窓に向かって退屈そうに眺めていた。

 心内では何を考えているのか分からない。気を抜いたら、簡単に呑まれてしまいそうな淡い水色の瞳。

 そんなことを考えていた時だった。
 突如、馬車が大きく揺れ、身体が宙に浮くような衝撃とともに、けたたましい馬の嘶きが車内に響き渡った。

「フレイア、大丈夫ですか」

「へ、平気……」

 勢いよく壁へ頭をぶつけた私は、乱れた髪を押さえながら身を起こす。

 ズキズキと鈍く痛む額を撫でていると、馬車の外から慌てた声が飛び込んできた。

「ご無事ですか、公爵様! 公爵夫人!」

 ルシアンは返事をするより先に、私の額や肩、腕へと視線を走らせた。
 怪我がないことを確かめると、小さく息をつき、ようやく低い声で問いかける。

「何事だ」

「申し訳ございません、公爵様。どうやら馬が足を負傷したようです」

 馬が怪我を?

 御者が扉を開けると、ルシアンはすぐさま馬車を降りていく。
 気になった私は窓際へ身を寄せ、そっと外を覗き込んだ。
 視界に飛び込んできたのは、焦茶色の大きな馬だった。

 前脚を庇うように地面へ横たわり、苦しげに荒い息を吐いている。
 苦痛に耐えるように耳を伏せ、人を威嚇するような低い唸り声を漏らしていた。

「どうやら、鉄片を踏んでしまったようです」

 年老いた御者が地面に落ちていた金属片を拾い上げる。
 鋭く尖ったそれには赤い血が付着していた。

「なぜ、こんなものが……」

「残りの馬だけでは公爵邸まで辿り着くのは難しいかと思われます。こいつが転けた拍子に車輪が歪んだようなので、その確認も……」

 二人の会話へ耳を傾けていると、切羽詰まった叫び声が響いた。

「しっかりするんだ、マクシー! おい、しっかりしろ!」

 若い御者が必死に馬の首を撫でている。

 マクシーと呼ばれた馬は”ブルルン”と苦しそうに鼻を鳴らすばかりで、立ち上がる気配はない。

 青年は今にも泣き出しそうな表情で馬を見つめていたが、不意に何かを思いついたように顔を上げると、勢いよくこちらへ駆け寄ってきた。

「公爵夫人……いえ、聖女様!」

 縋るような眼差しが、真っ直ぐ私へ向けられる。

「聖女様は光魔法で傷を癒やせるのですよね? どうか、マクシーを助けてください。この子は幼い頃から一緒に育った大切な家族なのです……!」

 今にも泣きそうな顔で縋るように言われ、私は眉をひそめた。

 私に聖女の力を使えと言ってくる者は少なくない。光魔法はそれだけの価値がある。

 私は、私に聖女の勤めを果たせと言ってくるものを、誰であろうと容赦してこなかった。

 たとえ血の繋がった父であろうと、この国の皇太子であろうとも。

「……嫌よ」

「どうしてですか! 聖女様にとって、光魔法を扱うことなど容易いことだと聞きます! 聖女様が公爵邸に無事帰るためにも、この馬を治す必要が……」

「私が嫌だと言ったら嫌なの。理由なんて必要ないわ」

 青年の表情が悔しさに歪み、怒りを滲ませた瞳が私を射抜く。

「何をやっている!」

 その時、ルシアンと話をしていた男がこちらに駆け寄ってきたかと思えば、青年の頬を殴りつけた。

「馬鹿者! 誰に向かって口を聞いておるのだ!」

「父さん、だけどマクシーが……!」

「黙って謝らんか、この馬鹿息子が!」

「くそっ……。もう一人の聖女様なら、レティシア様だったら、きっと……」

 父から殴られたことなど些細なことのように、切れた口の端についた血を乱暴に拭いながら悔しそうに馬を見つめる青年に怒りなど微塵も湧いてこなかった。

「お前は本当に……。息子がとんだ無礼を。心から謝罪いたします、公爵夫人。どうかお許しください」

「どうでもいいわ。もう話しかけてこないで」

 淡白にそう言うと、年老いた御者は私に向かって深く頭を下げ、また馬車の先頭へと駆けていく。

 御者にとって馬は子のように大切な存在だという。

 若い御者が幼さ故に感情を爆発させただけで、この男もまた、私に怒鳴りたい気持ちを押し殺しているのだ。

 全知全能の癒しの力。
 神に愛され、選ばれた者のみが扱うことのできる聖女の力。それが光魔法だ。

『私の可愛いフレイア……』

 私は自身の手のひらを見つめると、心の奥底から湧き上がる不安を抑え込むように唇を噛んだ。