面倒なことにならないうちに退散しよう。うん、それがいい。あたしは印刷途中の用紙も全て一まとめにして、一度机に置いた。
「じゃあ、秋元さんまた来週のゼミでね」
荷物を持って、印刷物に手を伸ばしたところで、あたしは手を止めた。秋元の手が伸びたからだ。
綺麗に整えられたスクエアカットのフレンチネイルが、ゆっくりとテーブルを払い、置かれていた印刷物が一斉に宙を舞った。ゆっくりと、あるいは鋭く風を切って床に散乱するレジュメ。
「……――――」
とうとうやらかしてくれた。あたしは凍てついてゆく心をどこか他人事のように思いながら、ゆっくりと床に膝をついた。そして一枚ずつプリントを集める。橘があたしたちゼミ生のために作ってくれた大切なレジュメだ。それを半分ほど拾ったところで、あたしの手は痛みと共に止められた。秋元のハイヒールの踵があたしの手の甲に食い込んでいる。
「――――なにするのよ」
静かに睨むと彼女はいまさら焦ったように、あたしの手を踏みつける足の力を弱くした。喧嘩の仕方も知らない箱入りの癖に、よくもまあこんな真似が出来たものだ。
「ち、調子に乗らないでよねっ」
頭に降ってきた声は震えていて、こういうことに慣れていないのだということを物語っている。
「私はずっとずっと橘先生のゼミに入りたくて、頑張ってきたの! それなのになんであんたみたいなギャルが橘先生に気に入られるのよ!」
鋭いヒールで踏まれた手の甲はズキズキと痛み、冷たい汗がじんわりと滲む。
「……こっちだっていい迷惑なんだけどね。あんなチャラ男に気に入られて、あんたみたいなのにいちゃもんつけられてさ」
ふんと鼻で笑い飛ばして、下から秋元を睨む。体勢こそ下になっているが、あたしの方が優勢なのは明らかだ。
痛いほどの沈黙が部屋に落ちる。
それを破ったのは、決して低すぎない甘く柔らかな男の声だった。
「痛そうだね、仔猫ちゃん」
革靴の乾いた足音が近づいてきて、あたしの目の前で止まる。靴の金具に小さくアルマーニの文字が見て取れた。ふん。高そうな靴はいちゃってさ。
「ええ、お陰さまで」
橘は躊躇いもなく床に膝を落とすと、ヒールの食い込むあたしの手を取った。秋元はその足をどけると、一歩二歩と後退りして、その表情は青ざめてかわいそうな程だ。
あたしは橘の手を借りて立ち上がると、どうしたものかと視線を彷徨わせた。踏まれた右手はズキズキと痛むが、病院へ行くほどのことではなさそう。
「さぁて……秋元さやかくん。僕のゼミはこういった諍いが絶えなくてね、取り決めがあるんだよ」
少し離れた場所のプリントに手を伸ばしながら言う橘の声は冷静そのものだ。けれど穏やかな声音がむしろ恐ろしくもあって、あたしも秋元も動けずにいる。一通りのプリントを拾い集めると、橘は手元の用紙を見て一瞬眉を顰めて、しかしすぐにいつもの微笑を浮かべた。
「秋元さやか、今期の単位は剥奪だ。教務課には僕から伝えておくから、いいね。いやぁ、毎年あるんだよ、僕のせいで生徒同士トラブルになることがね。今回は一方的に藤崎くんが被害を受けているようだから……」
「ちょっと待ってよ!」
朗々とした橘の言葉を遮ったのは、他でもないあたし自身だ。秋元は涙を浮かべ、噛み締めた口元を緩めることはない。
「あんた馬鹿じゃないの? 誰の為にトラぶってるのよ。秋元さんの単位取り上げる前に、あたしを贔屓するのを止めたらどう?!」
橘の前に仁王立ちするあたしを、橘は呆気に取られたように見つめた。
「仔猫ちゃん……」
ゼミの単位は絶対だ。専門学科の授業ならば他で取り返すことも可能だが、ゼミの単位が出ないとなれば留年が決定する。
「こんなことで留年なんて、こっちの気分が悪いわよ。秋元さんにはきちんと単位、出してください」
静かな部屋に印刷機の電子音が高く微かに響く。
一瞬の沈黙の後、くすり、と橘は口の端で笑って、スーツの胸ポケットから一本のペンを取り出した。そして優雅な動作で部屋の一角に置かれた予備のコピー用紙を一枚抜き取ると、そこに何かを書き始めた。ペンの滑る音すらどこか音楽的。橘は書き終えた用紙をあたしに音もなく差し出した。
その内容は今回のことを不問にし、秋元の単位も通常の授業とレポートによって評価するというもので、橘正宗と署名がついている。誓約書なのだと、一目でわかった。
そして再びそれを取り上げると、今度はそれを秋元に手渡した。
「先生、これ……」
「行きなさい。――――次は、ないよ」
決して激昂した声ではなかった。けれど、鳥肌が立つような、冷たい声だった。
秋元にもそれは伝わったようで、彼女は無言で踵を返した。廊下を駆ける足音は遠ざかり、甲高く響いたヒールの音は橘の静かな声に掻き消された。
「手は、大丈夫かい?」
橘はあたしに背を向け、空いた長机にプリントを並べ始めていた。バラバラになった順番を整えるのだろう。
あたしはただ彼の背中を見つめた。
「……君は何を考えているんだ」
「なにが、ですか」
「お人好しか、ただの馬鹿か」
「何が言いたいんですか」
「いや……馬鹿なのは、僕の方かもしれないな。君も今日はもう帰りなさい」
弱くなった言葉の端に、自嘲の響きが混ざっているように思えて。振り返った橘が今日はもう帰れと言われたその意味を、理解できずにあたしは立ち尽くした。
「印刷したのは再来週の分だったよ。印刷し直しだ」
「だったらあたしが……」
「君はもう帰りなさいと言っただろう。僕のそばにいたいというなら、それもやぶさかではないが」
挑発するような男の瞳が、それでもどこか悲しげに見える。それがなぜなのか、あたしにはわからない。けれど、なんとなくここで帰ってはいけないような気がして。あたしは橘の隣に並ぶと、レジュメ整理に手を伸ばした。
「先生のそばにいたいわけではありませんけど、最後まで手伝いますから」
レジュメを取る際、ほんの一瞬指先が触れる。その指先があまりにも冷たくて、思わず隣を見上げると、橘は何を考えているのか困ったように微笑んだ。
「強情だね」
「先生みたいに何考えてるかわからないよりは、わかりやすくていいでしょう」
「僕が?」
「はい。全然、わかりません」
あたしは橘が持っていた正規のレジュメの原本を受け取ると、再び印刷機へと向かい合った。橘とは背中あわせになったが、その存在は香水と共に誇示されて安心感を誘い、先ほどまでの怒りなどいつの間にか消え去っている。
印刷機が紙を吐き出す音と、橘が揃えるレジュメ同士の擦れる音がやけにうるさい。
一通り揃え終わったのか、橘がレジュメを揃えて机に置いたのが気配でわかった。
「君が、好きなんだ」
そうして。
唐突に背後から抱きしめられて、あたしは言葉を失う。むせ返るような甘い香りに、くらくらしそう。
橘の表情こそ見えないけれど、その声が真剣なものだということはわかった。
夕暮れの教室に、茜色の光が射す。
「君を見ていたい一心で、こんなトラブルを引き起こしてしまったことは申し訳なく思っている。いい大人のくせに周りが見えていなかった。君が迷惑しているというなら、僕は手を引こう」
背中越しに伝わるスーツの硬さとか、その向こうの身体の逞しさとか。やっぱり男の人なんだ。心臓がドキドキしているのは、あたし? 彼?
人が来るかもしれないと、頭の片隅で警告する声が聞こえる。それでも、あたしを抱きしめる橘の腕が離れるのを防ぐように、あたしは彼の腕に手を沿わせた。
離れたくない、と思った。
嫌いな、はずなのに。
センセイ……――――。
「じゃあ、秋元さんまた来週のゼミでね」
荷物を持って、印刷物に手を伸ばしたところで、あたしは手を止めた。秋元の手が伸びたからだ。
綺麗に整えられたスクエアカットのフレンチネイルが、ゆっくりとテーブルを払い、置かれていた印刷物が一斉に宙を舞った。ゆっくりと、あるいは鋭く風を切って床に散乱するレジュメ。
「……――――」
とうとうやらかしてくれた。あたしは凍てついてゆく心をどこか他人事のように思いながら、ゆっくりと床に膝をついた。そして一枚ずつプリントを集める。橘があたしたちゼミ生のために作ってくれた大切なレジュメだ。それを半分ほど拾ったところで、あたしの手は痛みと共に止められた。秋元のハイヒールの踵があたしの手の甲に食い込んでいる。
「――――なにするのよ」
静かに睨むと彼女はいまさら焦ったように、あたしの手を踏みつける足の力を弱くした。喧嘩の仕方も知らない箱入りの癖に、よくもまあこんな真似が出来たものだ。
「ち、調子に乗らないでよねっ」
頭に降ってきた声は震えていて、こういうことに慣れていないのだということを物語っている。
「私はずっとずっと橘先生のゼミに入りたくて、頑張ってきたの! それなのになんであんたみたいなギャルが橘先生に気に入られるのよ!」
鋭いヒールで踏まれた手の甲はズキズキと痛み、冷たい汗がじんわりと滲む。
「……こっちだっていい迷惑なんだけどね。あんなチャラ男に気に入られて、あんたみたいなのにいちゃもんつけられてさ」
ふんと鼻で笑い飛ばして、下から秋元を睨む。体勢こそ下になっているが、あたしの方が優勢なのは明らかだ。
痛いほどの沈黙が部屋に落ちる。
それを破ったのは、決して低すぎない甘く柔らかな男の声だった。
「痛そうだね、仔猫ちゃん」
革靴の乾いた足音が近づいてきて、あたしの目の前で止まる。靴の金具に小さくアルマーニの文字が見て取れた。ふん。高そうな靴はいちゃってさ。
「ええ、お陰さまで」
橘は躊躇いもなく床に膝を落とすと、ヒールの食い込むあたしの手を取った。秋元はその足をどけると、一歩二歩と後退りして、その表情は青ざめてかわいそうな程だ。
あたしは橘の手を借りて立ち上がると、どうしたものかと視線を彷徨わせた。踏まれた右手はズキズキと痛むが、病院へ行くほどのことではなさそう。
「さぁて……秋元さやかくん。僕のゼミはこういった諍いが絶えなくてね、取り決めがあるんだよ」
少し離れた場所のプリントに手を伸ばしながら言う橘の声は冷静そのものだ。けれど穏やかな声音がむしろ恐ろしくもあって、あたしも秋元も動けずにいる。一通りのプリントを拾い集めると、橘は手元の用紙を見て一瞬眉を顰めて、しかしすぐにいつもの微笑を浮かべた。
「秋元さやか、今期の単位は剥奪だ。教務課には僕から伝えておくから、いいね。いやぁ、毎年あるんだよ、僕のせいで生徒同士トラブルになることがね。今回は一方的に藤崎くんが被害を受けているようだから……」
「ちょっと待ってよ!」
朗々とした橘の言葉を遮ったのは、他でもないあたし自身だ。秋元は涙を浮かべ、噛み締めた口元を緩めることはない。
「あんた馬鹿じゃないの? 誰の為にトラぶってるのよ。秋元さんの単位取り上げる前に、あたしを贔屓するのを止めたらどう?!」
橘の前に仁王立ちするあたしを、橘は呆気に取られたように見つめた。
「仔猫ちゃん……」
ゼミの単位は絶対だ。専門学科の授業ならば他で取り返すことも可能だが、ゼミの単位が出ないとなれば留年が決定する。
「こんなことで留年なんて、こっちの気分が悪いわよ。秋元さんにはきちんと単位、出してください」
静かな部屋に印刷機の電子音が高く微かに響く。
一瞬の沈黙の後、くすり、と橘は口の端で笑って、スーツの胸ポケットから一本のペンを取り出した。そして優雅な動作で部屋の一角に置かれた予備のコピー用紙を一枚抜き取ると、そこに何かを書き始めた。ペンの滑る音すらどこか音楽的。橘は書き終えた用紙をあたしに音もなく差し出した。
その内容は今回のことを不問にし、秋元の単位も通常の授業とレポートによって評価するというもので、橘正宗と署名がついている。誓約書なのだと、一目でわかった。
そして再びそれを取り上げると、今度はそれを秋元に手渡した。
「先生、これ……」
「行きなさい。――――次は、ないよ」
決して激昂した声ではなかった。けれど、鳥肌が立つような、冷たい声だった。
秋元にもそれは伝わったようで、彼女は無言で踵を返した。廊下を駆ける足音は遠ざかり、甲高く響いたヒールの音は橘の静かな声に掻き消された。
「手は、大丈夫かい?」
橘はあたしに背を向け、空いた長机にプリントを並べ始めていた。バラバラになった順番を整えるのだろう。
あたしはただ彼の背中を見つめた。
「……君は何を考えているんだ」
「なにが、ですか」
「お人好しか、ただの馬鹿か」
「何が言いたいんですか」
「いや……馬鹿なのは、僕の方かもしれないな。君も今日はもう帰りなさい」
弱くなった言葉の端に、自嘲の響きが混ざっているように思えて。振り返った橘が今日はもう帰れと言われたその意味を、理解できずにあたしは立ち尽くした。
「印刷したのは再来週の分だったよ。印刷し直しだ」
「だったらあたしが……」
「君はもう帰りなさいと言っただろう。僕のそばにいたいというなら、それもやぶさかではないが」
挑発するような男の瞳が、それでもどこか悲しげに見える。それがなぜなのか、あたしにはわからない。けれど、なんとなくここで帰ってはいけないような気がして。あたしは橘の隣に並ぶと、レジュメ整理に手を伸ばした。
「先生のそばにいたいわけではありませんけど、最後まで手伝いますから」
レジュメを取る際、ほんの一瞬指先が触れる。その指先があまりにも冷たくて、思わず隣を見上げると、橘は何を考えているのか困ったように微笑んだ。
「強情だね」
「先生みたいに何考えてるかわからないよりは、わかりやすくていいでしょう」
「僕が?」
「はい。全然、わかりません」
あたしは橘が持っていた正規のレジュメの原本を受け取ると、再び印刷機へと向かい合った。橘とは背中あわせになったが、その存在は香水と共に誇示されて安心感を誘い、先ほどまでの怒りなどいつの間にか消え去っている。
印刷機が紙を吐き出す音と、橘が揃えるレジュメ同士の擦れる音がやけにうるさい。
一通り揃え終わったのか、橘がレジュメを揃えて机に置いたのが気配でわかった。
「君が、好きなんだ」
そうして。
唐突に背後から抱きしめられて、あたしは言葉を失う。むせ返るような甘い香りに、くらくらしそう。
橘の表情こそ見えないけれど、その声が真剣なものだということはわかった。
夕暮れの教室に、茜色の光が射す。
「君を見ていたい一心で、こんなトラブルを引き起こしてしまったことは申し訳なく思っている。いい大人のくせに周りが見えていなかった。君が迷惑しているというなら、僕は手を引こう」
背中越しに伝わるスーツの硬さとか、その向こうの身体の逞しさとか。やっぱり男の人なんだ。心臓がドキドキしているのは、あたし? 彼?
人が来るかもしれないと、頭の片隅で警告する声が聞こえる。それでも、あたしを抱きしめる橘の腕が離れるのを防ぐように、あたしは彼の腕に手を沿わせた。
離れたくない、と思った。
嫌いな、はずなのに。
センセイ……――――。
