仔猫のパティスリー

2・仔猫は垣間見る

「椅子が足りないよー」
「機材の準備、急いで!」
「講師の先生にお茶だしして来てくれる」
「橘先生はどちら?」
「あ、こっちも橘先生よろしく!」

「はーい! 今、やりますから! 橘先生は研究室です」
 あまりにも急がしく走り回って、セットした夜会巻の髪もほつれかかってきた。ああ、もう。もっとしっかり固めればよかった。
 講演が始まるまであと三十分。会場設営は一段落した。橘はと言えば、原稿の締め切りがあると研究室で執筆中だ。ゼミ生だからと頼まれて、他の子もいるものだと思っていたのに、手伝いをさせられたのはあたし一人だ。
 あたしは研究室棟へヒールを甲高く鳴らしながら走った。走りすぎてつま先が痛い。
「先生っ! 皆さんお探しですよ、ちょっとは会場にっ……あ」
 橘の研究室をノックもなしに飛び込むと、講師と共に談笑中だった。
「ああ、仔猫ちゃん。準備ご苦労様」
「いえ、すみません」
 気に食わない男とはいえ、講師の前に礼儀もなく飛び込んだことをあたしは素直に謝った。
「牧村、ゼミ生の藤崎柚季くんだ。今日は君の身の回りの世話をしてくれる」
「藤崎です。よろしくお願いします」
 乱れかかった息を必死に静めて、あたしは丁寧に一礼した。頭を上げて、きちんと牧村を見てみると橘よりも若い爽やかな好青年だった。
 会場で事務員が待っていることを伝えると、橘は研究室を後にした。部屋に残っているのは私と牧村先生だけだ。手持無沙汰が居心地悪くて、私は室内に備え付けられたミニキッチンでお茶を入れた。
「橘が言っていた『子猫ちゃん』ていうのは、君の事か」
 いいものを見つけたと言わんばかりににっこりとほほ笑まれる。
 あの男は学外でもそんなことをほざいているのか。あたしは苦笑で憤りを隠して、緑茶を差し出した。
「その呼び方なんとかしてほしいんですけどね」
「彼が誰かに入れ込むところなんて初めて見たよ」
 うそつけ。女の子なら誰かれかまわず優しくしてるくせに。
「橘先生はみんなに紳士的でいらっしゃるから、私に入れ込んでるわけではないと思いますよ」
「うん。みんなに優しい人なんだけど、だからこそ一人だけ『子猫ちゃん』なんて珍しいんだよね」
 痛いところを突く人だなぁ。確かに、誰か一人を贔屓して連れ歩いてるところは見たことないけれど、大学の教授がそんなことをしていたら問題だ。
「俺も特別橘と仲がいい大親友って訳ではないけど、彼の事、よろしく頼むよ」
 あたしは「はぁ」と小さく相槌を打つ。何をどう『よろしく』したらいいのか、その解釈に困ってしまって。
 その後、慌しく彼を会場に案内し、講演中もその後の食事会の準備などで結局あたしは彼の話を聞けずじまいだった。ああ、せっかくプロの作家の話が聞けるチャンスだったのに。でもどちらにしろ、きっと今のあたしが聞いても右から左へ抜けていくに違いない。彼の『橘をよろしく』といった意味が気になって仕方がなかったからだ。
あたしは雑務をゼミ生に押し付けて、講演中も執筆に勤しむ橘を心の底から恨んだ。そして、ああ、橘も作家だっと今になって思い出す。まったく、どうしてあたしがあの男の事で悩まなければいけないのだろう。
 忘れよう。あの『よろしく』は社交辞令に決まっている。うん。忘れたことにしよう。あたしは自分自身に言い聞かせると、会場の撤去作業に加わった。

「仔猫ちゃん、今日はありがとう」
 橘と牧村の会食に、花が欲しいと半ば強引に連れ込まれ、今ようやく駅の改札口まで牧村を送ったところだ。
 少しはやめの夕食(と言っても、あたしはお酌と緊張でまったく食べた気がしていなかったけれど)を取った後の駅は、人々の帰宅時間とあいまってひどく混雑していた。
「申し訳ないが、もう少し付き合ってもらえるかい?」
 これ以上どこに付き合えというのだろう。走り回ったせいでもうふくらはぎはパンパンだったし、お腹も空いた。早く帰って安いコンビニ弁当を食べながらくつろぎたいのに。けれど、橘の口から発せられたのは、思いもよらない言葉だった。
「あんな会席料理じゃ食べた気にならなくてね。軽く何か食べて帰らないか?」
「いえ、あたしは……」
「ファミレス、マック、モス、どれがいい?」
「へ?」
 橘がファミリーレストランに入るというのだろうか? マックに? モスに? あまりにも優雅に問われて、あたしは高級レストランの名前だろうかと本気で戸惑ってしまう。
「いや、レディーをエスコートするにはチープすぎたね。失礼。イタリアンにしようか」
 橘はあたしの鞄を当然のように持つと、駅を出てタクシー乗り場へと向かう。あたしの意見など聞く耳をもたない感じで。なんだかそれが悔しくて、彼を困らせたくなった。
「先生! あたし、回転寿司がいいです!」
 一皿百円の、とあたしが言うと、橘はにっこりと笑った。
「いいね、それ」
 うそ。ハンバーガーを頬張る以上に想像がつかない。こんなに高そうなスーツを着込んだ男が、百円の回転寿司なんて。さあ行こうと橘は開けられたタクシーのドアへ、あたしを促した。
 タクシーは緩やかに走り出し、華やかな繁華街を抜けていく。車はあたしの家方向に向かっているようだ。これならば帰りも楽だ。らっき。
 それにしても、不思議な男。あんなに高そうな料亭の懐石を当然のように食べておきながら、安い回転寿司を快諾するなんて。彼の取り巻きたちは、こんな一面を知っているのだろうか。きっと、いや、絶対――……知らない。
 なんだか優越感みたいなふわふわした感情が浮かび上がってきて、緩んでしまいそうな口元をあたしは慌てて引き締める。
「先生の家、こっちの方向なんですか?」
 ああ、すっごいいい匂い。狭い車内に香る香水。
「うん? 学校から近いからね。君の家の近くだよ」
「え……あたしの家?」
突然の言葉にどきりとする。なぜあたしの家を知っているのだろう。
「そう。電車の中でもよく見かけるし、家の近くでも会ってるよ。覚えていないかい?」
 こんなキザな男に会っていれば絶対忘れるはずがないのに。あたしは橘の言葉に首を横に振った。
 タクシーは十分ほど走ったところで停まった。本当に家の近くの回転寿司だ。平日ということでさほど待たずに席に通された。
あたしは緑茶の粉末を2つの湯飲みに入れながら、ちらりと彼の表情を窺う。目が合うとにっこりと微笑まれた。
「今日の講演、少しは聞けたかい?」
「いいえ。控え室でお話させていただいた以外は、まったく」
 嫌味たっぷりで言ってやると、彼は困ったように笑って、すまなかったねと詫びた。
「でも……すごくいい方でしたね。気さくで、でも落ち着いてて。あたしサインもらっち