仔猫のパティスリー

6・仔猫は享受する

 定時に橘は大学を出て、あたしは橘の車に乗せられた。あたしの家を通り過ぎて、さらに五分ほど走ったマンションで橘は車を止めた。
「先生の、お家ですか?」
「そう。近かっただろう、君の家と」
 橘はスマートな仕草であたしをマンションのエントランスへとエスコートする。
「それで、見せたいものって何ですか?」
 エレベーターに乗り込むと、橘の手が優しくあたしの腰に添えられた。恥ずかしくて、くすぐったくて、でも抵抗はしなかった。
「君は覚えていないかもしれないな」
 橘は苦笑しながらエレベーターを降りて、廊下を進む。
「あたしが、覚えてない?」
「そう。ずいぶんと前の話だからね」
橘は角の一室の前まで来ると鍵を開けて、あたしを促した。
玄関を入ると橘の香りがした。研究室なんかより、ずっと深く甘く。橘はリビングへあたしを通すと、対面するダイニングキッチンでアイスティーを入れながら話し始めた。



 3年前のまだ肌寒い春だった。
 橘はその頃、さらにあたしの家の近くに住んでいたそうだ。その日は強い雨が降っていた。
 日が沈んだ夕闇の中、橘が公園の脇を通ると、一人の少女が傘も持たずに蹲っていた。
『どうかしたの?』
 声を掛けたのは気まぐれだった。
 少女は橘を見上げて小さく「猫が……」とか細い声で言った。よくよく見ると、少女の脇には彼女がさしていたであろう水色の傘が開かれて置かれている。そしてその中を覗き込むと、真っ白な仔猫が一匹ダンボールに入って震えていたのだ。
『うち、ペット禁止だから、連れて行ってあげられなくて。でも放っておくことも出来ないし』
 ずぶ濡れになった少女はメイクもしておらず、セミロングの髪からは始終雨が伝って滴り落ちている。
 泣いているのかと思った。涙だと思ったものは雨の雫で、しかし捨て猫に同情しているにはあまりに切なげな様子に、橘は目をそらすことが出来ない。
『あたし、一人暮らし始めたばかりで、ホームシックなんです。多分。だからこの子も放って置けなくて』
『――――この子は僕が引き取ろう。だから君は安心していい』
 けなげで、純粋で、初心で。その上、儚さと憂いを含んだ少女。幼さを残した顔だったが、どうしてか美しく見えた。
『ありがとうございます』
 そう言って微笑んでいるのに、その瞳は悲しげで。「よかったね、仔猫ちゃん」とその猫を一撫ですると、少女はゆっくりと立ち上がった。
『この子、よろしくお願いしますね』
 そう言って、少女は走り去った。名前も聞けないまま、強い印象だけを男に残して。
 橘はすぐに腕の中で震える仔猫を病院に連れて行ったが、看病の甲斐なく数日後に風邪をこじらせて息を引き取った。
 それから一ヵ月後、大学の新入生ガイダンスで橘はその少女を見つけた。メイクを施し、髪も染めていたが、橘にはすぐわかった。仔猫の少女だ、と。


 ワイシャツのボタンを外しながら、橘はあたしの隣に腰を下した。
「だから、あたしを『仔猫ちゃん』って?」
「君に思い出してほしかったんだが、見事に惨敗だったね」
 橘はソファーに座るあたしにアイスティーを出してくれる。そうだ、あの日のお兄さんと同じ香りだったから、切なくなったんだ。
「ずっと謝りたかったんだ。だけど君にわざわざつらい事実を告げる必要もないとも思った。すっと悩んだまま君を見ていたら、いつの間にか君をみていることが目的になっていたよ」
「先生だったんですね、あれ。謝るなんて……あたしが、もっと早く病院に連れて行ってあげればよかったのに。大変なこと、押しつけてすみませんでした」
「君のせいじゃないし、あの子を引き取ったのは僕の意思だよ。健やかに育ててやれなくて、すまなかった」
「いえ、幸せだったと思います」
 仔猫を引き取ってくれると聞いてすごく安心した反面、一人ぼっちなのはあたしだけだと泣きそうになって、逃げるように帰ってきたあの日。
 強くならなければと、あの日を境に髪を染めて、きつめのメイクを研究した。スーツのようなテーラードジャケットは着ていると、背筋が伸びるようで頻繁に着るようになったのだ。あたしが自分の事で精一杯になっている間、彼はこの静かな部屋であの子猫を見取っていたのだと思うと、自分がすごく恥ずかしい。
小さな命。雨に濡れた段ボールの中で震えていた、小さな、小さな。
「君が思い悩むことじゃない。見てごらん」
橘は携帯を差し出すと、そのディスプレイには真っ白な仔猫が毛布に包まれて眠っているところだった。
「亡くなる数日前の写真だ。少なくとも僕は君を見つけなければこの子猫を連れ帰ることはなかった。君がこの子を見つけてくれたから、この子はあたたかい部屋の中で僕に見取られて静かに息を引き取ることができたんだよ」
「かわいい……。気持ち良さそうに寝てますね」
「病院に行った時点で、持ちこたえられそうにないと言われていたからね。できるだけ苦痛を抑えてやれるように、薬を処方してもらったんだ」
 優しく微笑んで橘はあたしの頭をゆっくりと撫でた。
 リビングは広く、どんな間取りかはわからないが2LDKくらいはありそうだ。生活観がないほど整頓され、シックな家具が静かに佇んでいる。
 橘の腕が伸びて、あたしの肩を抱く。
「今度こそ、僕に君を守らせてほしい」
「別に……あたしは……」
「柚希、君が好きなんだ」
 唇が耳朶に触れるか触れないかのギリギリのところで囁かれて、もどかしさにあたしは顔を背ける。そしてそのまま小さく呟いた。
「――――あたしのことも、拾ってくれるんですか?」
 くすりと橘が笑ったのがわかった。
「もちろんだよ。僕の可愛い仔猫ちゃん」
 しなやかな手が頬に添えられて、故意に逸らし続けていた視線を絡め取られる。見透かされそうな、深い深い瞳。
「大事に、して下さいね」
 不意打ちとばかりにちゅっと触れるように口づけると、橘は一瞬面くらって。内心、してやったり、とかガッツポーズ。しかし相手は一枚上手だった。
「お前を大事にしないわけがないだろう?」
「う……」
 うそ。
 穏やかな微笑みは一瞬にして影を潜め、不遜な笑みをたたえる。それから、噛みつくようなキス。これってなんだか詐欺じゃないだろうか?
 これから始まる二人の時間に、一抹の不安を覚えながら、あたしは彼の唇をぞんぶんに享受するのだった。