仔猫のパティスリー

1・仔猫は落胆する

「マジでぇ……」
 あたしは学生共同研究室の掲示板に張られた用紙を見て愕然とした。そう、愕然というほかない。
『BX048 橘ゼミ』
 学生番号の隣に書かれた橘の名前。自分が書いたのは別の教授のゼミだったはずだ。落ちた、第一志望のゼミに。しかもよりによって割り当てられたのは、大嫌いな助教授、橘正宗。
 あたしは思わず底の厚いヒールで地団太を踏む。
「あーっ、誤算だった! 橘ゼミなら第二希望でも定員超過するから、第一希望に入れると思ってたのにっ」
 その掲示を破らんばかりの勢いに、隣にいた友人が苦笑する。
「柚季ちゃん、橘先生のゼミ?」
 彼女は第一志望のゼミに入れたようで、ほっとしているようだった。嫉妬する反面、しかし彼女の朗らかな笑顔にほだされてしまう。
「そう、最悪よ。あんな女たらしゼミなんて」
 もう、本当に最悪。それしか言葉が出ない。
「でも橘先生は現役の作家の先生なわけだし、現代文学研究にはいい先生だよ、きっと」
「どーだか。見てみなよ、橘ゼミの学生はみーんなあいつの取り巻きばっか! お遊びゼミに決まってる」
 私、藤崎柚季は私立大学に通う二年だ。来年度からは三年に進級する。きつく巻かれたイエローベージュの髪にテーラードジャケット、タイトなミニスカートはあたしの戦闘服。ギャル系と呼ばれるのは心外だ。
あたしはこの二年間の学生生活を思い返した。派手だと言われる見た目とは対照的に、真面目一本で遅刻も無断欠席もせずこれまでやってきたのに。成績もS、A、B、C、Dと評価されるこの大学でSとAばかりを取って来た。成績優秀者として大学から特別奨学金だってもらっているほどに。そんな自分が第一希望の表現制作ゼミを落ちるなど思っても見なかった。
 思えば年を明けてからまったくついていない。彼氏の二股を発見しただけでもショックなのに、さらにその男には捨てられた。ワンルームマンションの鍵をなくして管理会社に頭を下げ、買ったばかりの携帯は落として登録データが消える。そして、この仕打ち。今年は厄年だっただろうか。
「おやおや、僕はずいぶんな嫌われようだね、仔猫ちゃん」
 ふいに背後から声をかけられて、ふわりと香水の爽やかで甘い匂いがあたしの鼻をかすめる。そしてこの香水にも負けないほどの甘ったるい声。橘先生、と隣にいた友人が声を上げた。あたしは頭痛がしそうな思いでゆっくりと振り返る。
 長めな髪に緩くパーマをかけた、キザな男。グレーのスリーピーススーツに桜色のワイシャツ。目鼻立ちも整った甘いマスク、身長は高いヒールを履いた柚季でも優に見下ろすほどだ。その上様々な文学賞をとる作家の大先生がまだ四十前の独身男性だということにもなれば、黄色い声を上げる学生は少なくなくて。
「あーら、橘先生、聞いていらしたんですか」
 愛想笑いは完璧だ。これには自信がある。
「そんなに恐い顔をしてはいけないな。せっかくの美しい顔が台無しだよ」
 あたしの嫌味をさらりとかわして微笑むこの男は、やっぱり気に食わない。あたしの完璧なはずの愛想笑いを恐い顔? 誰のせいだ。
「元からこういう顔ですから」
「まぁとにかく、これは決定事項だから。来年度からよろしく頼むよ、仔猫ちゃん」
 軽ぅくウィンク。そんな軟派な仕草まで決まってしまうから不思議。
 けれどあたしはもはやうんざりとした表情を隠そうともせず、「仔猫ちゃん?」と聞き返した。仔猫とはあたしのことを指しているのだろうか? それとも友人の鈴花? いや、彼女は別なゼミだ。
「そう、僕のゼミ生の可愛い仔猫ちゃんだ」
 橘はそう言って呆然と佇むあたしの手を取ると、その手の甲に軽く口付けた。柔らかな唇。彼が動くたびに、香水が香って心を乱す。
「なにすんのよっ!」
 あたしはその手を乱暴に振り払った。不覚にも顔が火照っているのがわかる。その様子を見て橘はくすりと笑って踵を返した。残り香だけが手元にまとわりついているようだ。そのぬくもりとともに。あたしはその手を力いっぱい握り締める。

 男の背中を睨みつけながら、あたしは新しく始まったこの一年を思いやるのだった。



***



窓の外では桜が咲き誇り、風が吹くたびに薄紅色の花弁を散らしている。
ゼミの教室は橘が選り好みしたとしか思えない程、女性生徒がほとんどだった。それ橘のファンだと自称する生徒ばかりだ。コの字に設営された席の一番端に頬杖をついて、回されてきたプリントに目を通す。年間の講義計画だ。その合間には懇親会、クリスマスパーティーとゼミには関係のない予定まで組み込まれている。
あたしは大きく溜息をついた。
「このゼミは僕のファンの子も多くて嬉しい限りだ。が、それゆえに心無い輩から『お遊びゼミ』だとも噂される」
 心無い輩で悪かったわね、とあたしは橘を睨みつけた。教壇に立つ橘はいつものふざけた態度はどこへやら、聖人君子の雰囲気を漂わせている。が、あたしと視線が合うと目元だけで不敵に笑った。それが気に入らなくて、あたしはまた視線を外して窓の外を眺めた。
「諸君にはそんな噂を一掃するよう、優秀な研究成果を期待しているよ。まず来週のゼミだが、課題として僕の作品を取り上げようと思う。それについて今日くばった基本的なレジュメの作り方を見ながら、まとめてきて欲しい。それを加味しながら再来週からの発表者を決めていくよ」
 あたしはちらりと「レジュメ作成方法」と題されたプリントに目を通す。初版、先行論文など調べなければいけないことは多そうだ。
 ああそれと、と橘がホワイトボードにEメールアドレスを書き始める。
「基本的に僕は学生を研究室には入れない。質問があるときはメールで頼むよ。必要があれば研究室に呼ぶから、いいね」
 生徒の落胆の声を聞いて橘は苦笑するが、それ以上何も言わない。生徒を研究室に入れないとはどんな先生だ。だが自分が彼を部屋まで訪ねていくことはまずありえない。まぁ、あたしには関係ないか。
 一通りの説明をすると、授業終了時間前にゼミは解散となった。途端に彼を生徒たちが取り囲み、あたしはそれを横目に真っ先に教室を出ようとした。こんなうるさい教室からは早くおさらばしたいからだ。
「待ちなさい、仔猫ちゃん」
 まただ。なぜこの男はあたしを仔猫ちゃんと呼ぶのだろう。それは教室にいたほかのゼミ生も同様だったらしく、さっとあたしに視線が集中する。さっきまでのにぎやかさは消え、隣の教室の講義が聞こえてくるほどだ。
「……なんですか」