音のない、歩行。
彼の声だけが、奇妙に響く。
千景は玄関とは逆の、ベランダへ向かっていた。
誰かが、来た。
「……誰が?」
「………」
「……ねぇ、千景」
流れていく天井から、視線を千景へ移す。
見上げた先の彼に、小さく小さく尋ねた。
「………」
私を抱える彼の腕に、ぐっと力が込められる。
「多夜」
その名前に、私は声を忘れた。
ビク、と震えた身体を、千景の腕が受け止めていた。
「大丈夫」
「………」
「何も心配しなくていい」
そう言った千景の視線は、私と交わらない。
鈍く光るその瞳は、もういつもの千景の幼い目つきではなかった。
濁りのない冷たさを孕んだ目。
昨日までの千景が、どこにもいなくなった気がした。


