雨上がりの約束





深夜二時。

街灯が一本だけついている公園のブランコに、一人の少女が座っていた。

名前は**黒瀬 結月(くろせ ゆづき)**。高校二年生。

制服の袖からのぞく手首には、薄い傷がいくつも残っている。

家に帰りたくなかった。

帰れば、酒臭い父親の怒鳴り声と、何も見ていないふりをする母親がいる。

だから今日も、こうして夜の公園で時間を潰していた。

ポツリ。

頬に雨粒が落ちる。

「……最悪。」

立ち上がろうとした、その時だった。

ガサッ。

背後の茂みから音がした。

振り返る。

誰もいない。

でも、確かに音がした。

「……誰?」

返事はない。

代わりに、ブランコの下に何かが落ちていることに気づいた。

黒い封筒。

さっきまではなかった。

結月はゆっくりと拾い上げる。

表には一言だけ書かれていた。

**『君は死にたい?』**

背筋が冷える。

気味が悪い。

なのに、なぜか目が離せない。

震える手で封筒を開く。

中には、一枚の紙。

そこにはこう書かれていた。

**『もし君が本当に消えたいなら、明日の午後十一時。廃駅へ来て。』**

「……なに、これ。」

いたずら?

そう思って紙を丸めようとした。

その瞬間。

背後から声がした。

「行くの?」

結月は飛び上がる。

そこには、黒いパーカーを着た少年が立っていた。

顔の半分が前髪で隠れている。

いつからいたのか分からない。

「……誰?」

「さぁ。」

少年は小さく笑った。

「でも、俺もその手紙をもらった。」

そう言って、同じ黒い封筒を見せる。

「君、死にたいんでしょ?」

「……。」

言葉が出ない。

「その顔、図星だ。」

雨が強くなる。

少年は空を見上げた。

「俺はさ。」

静かな声だった。

「死にたいんじゃない。」

そして、結月を見る。

「全部、壊したいんだ。」

その瞳は、夜よりもずっと暗かった。

結月はなぜか、目をそらせなかった。

まるでその瞳の奥に、自分と同じ何かがある気がして。

少年はゆっくりと歩き出す。

「明日、廃駅で。」

「待って!」

少年が振り返る。

「……名前。」

数秒の沈黙。

そして彼は笑った。

「名前なんて、もういらない。」

そう言い残し、雨の中へ消えていった。

残された結月の手の中には、黒い封筒だけが残っていた。

そして彼女はまだ知らない。

その廃駅で待っているのが――

『死』よりもずっと恐ろしいものだということを。

---

翌日。

午後十一時。

結月は廃駅の前に立っていた。

本当は来るつもりなんてなかった。

何度も引き返そうと思った。

それなのに。

『君は死にたい?』

その言葉が頭から離れなかった。

古びた駅舎は、とっくに使われなくなっている。

窓ガラスは割れ、雑草が線路を覆っていた。

風が吹く。

ギィ……

扉が勝手に開いた。

「……。」

結月は息を飲む。

そして、一歩。

また一歩。

暗い駅の中へ入っていった。

すると――。

「来たんだ。」

あの少年だった。

昨日と同じ黒いパーカー。

壁にもたれかかり、静かに立っている。

「……あなた。」

「遅かったね。」

その時だった。

カツン。

奥から足音が響いた。

暗闇の中から、一人の女が現れる。

黒いワンピース。

長い黒髪。

そして――異様なほど白い肌。

「こんばんは。」

女は微笑んだ。

「来てくれてありがとう。」

「あなたが……手紙を?」

「そう。」

女は笑う。

「私は、死にたい人を集めているの。」

「……は?」

「だって、死にたい人って特別でしょう?」

女の口元がゆっくり吊り上がる。

「壊れている人間は、美しいもの。」

結月は一歩下がった。

怖い。

本能が警告している。

逃げろ、と。

しかし少年は動かなかった。

「……それで?」

女は嬉しそうに笑う。

「あなた達に、ゲームをしてもらうの。」

「ゲーム?」

「ええ。」

女は一本の鍵を取り出した。

「この駅には、地下室がある。」

「そこには、一人の人間が閉じ込められている。」

結月の顔から血の気が引く。

「……え?」

「その人を助ければ、あなた達は生きる理由を見つけられるかもしれない。」

女はそこで言葉を切った。

そして。

「でも、見捨てれば。」

ゾッ――。

「あなた達の望み通り、死なせてあげる。」

静寂。

雨音だけが響く。

結月の手が震える。

何を言っているのか分からない。

でも。

女の目だけは、本気だった。

「……狂ってる。」

結月が呟く。

すると女はクスリと笑った。

「狂っているのは私?」

その瞬間。

女の顔から笑みが消えた。

「……あなたは、自分が正常だと思ってるの?」

「毎日、消えたいと思っているのに?」

「……やめて。」

「誰にも助けてって言えないのに?」

「やめて……!」

「家に帰るのが怖いのに?」

「やめて!!」

「あなたも、壊れてる。」

結月の瞳が揺れた。

その時だった。

「それ以上言うな。」

低い声。

少年だった。

「お前には関係ない。」

数秒の沈黙。

そして女は、楽しそうに笑った。

「やっぱり面白い。」

そう言って、地下へ続く扉を指差した。

「さあ。」

「ゲームを始めましょう。」

その瞬間――

地下から。

**ドン。**

何かが壁を叩く音がした。

ドン。

ドン。

ドン。

誰かがいる。

本当に。

地下に、誰かがいる――。

---

二人は地下への階段を降りた。

暗い。

冷たい。

そして、嫌な空気がまとわりつく。

やがて、小さな部屋へ辿り着く。

その瞬間。

結月の呼吸が止まった。

部屋の中央。

椅子に縛られていたのは――

**結月自身だった。**

「……な、に……?」

縛られた少女が顔を上げる。

涙で濡れた目。

震える唇。

そして、同じ顔。

同じ声。

「……助けて。」

結月の全身に鳥肌が立つ。

「私……消えたくない……。」

その一言が、胸に突き刺さった。

「嘘……。」

「怖い……。」

「やめて……。」

「まだ……生きたい……。」

結月の目から涙がこぼれた。

その言葉は。

ずっと心の奥に閉じ込めていた、本当の気持ちだった。

「私は……。」

声が震える。

「私は……。」

『死にたい』じゃない。

『消えたい』じゃない。

ただ。

苦しいだけ。

助けてほしかっただけ。

「……生きたい。」

涙が止まらない。

「私……生きたい……!」

その瞬間。

縛られた少女も泣きながら頷いた。

「うん……!」

結月は駆け寄る。

震える手で縄をほどく。

少女を抱きしめる。

温かい。

まるで、本当に自分を抱きしめているみたいだった。

そして。

少女は光になり始める。

「ありがとう。」

「……え?」

「やっと、私を見つけてくれた。」

「待って……!」

「これからは……自分を捨てないで。」

そう言い残し、少女は静かに消えた。

その瞬間。

ドゴン!!

天井が大きく揺れた。

「あと五分よ。」

いつの間にか、女が立っていた。

「この地下室、崩れるわ。」

「……え?」

「助ける?」

女は笑う。

「それとも、自分ごと終わる?」


「逃げるぞ!」

少年――湊が結月の手を掴み、階段へ向かって走り出した。

後ろで次々と天井が崩れていく。

あと少し。

あと少しで出口――。

その瞬間。

**ガシャン!!**

大きな柱が落ちた。

「……っ!」

湊が結月を突き飛ばす。

「危ない!!」

結月は階段の上へ転がった。

だが。

振り返ると、落ちた柱の向こうに湊がいた。

「……え。」

道が塞がれている。

「うそ……。」

湊は向こう側で立ち尽くしていた。

そして、静かに笑った。

「……よかった。」

「な、何言ってるの……!」

「君だけでも助かった。」

「やめて……!」

結月は必死に柱を押す。

びくともしない。

「お願い……!」

涙が止まらない。

「一緒に帰ろうよ……!」

湊は数秒、黙っていた。

そして。

初めて、優しく笑った。

「……生きて。」

次の瞬間。

**ゴゴゴゴ……!!**

地下室は完全に崩れ落ちた。

---

「いやぁぁぁぁっ!!」

結月の叫び声だけが、廃駅に響く。

その時。

黒いワンピースの女が静かに言った。

「あなたは、合格。」

「……え?」

「死にたいと言う人のほとんどは、本当は死にたいんじゃない。」

女は結月を見つめる。

「苦しみから逃げたいだけ。」

「誰かに助けてほしいだけ。」

結月は言葉を失った。

「あなたは、自分の本当の気持ちを見つけた。」

「だから……もうここにいる必要はない。」

「……湊は?」

女の表情が少しだけ寂しそうになる。

「あの子は……何年も前にここへ来た子。」

「……え?」

「そして、帰れなかった。」

結月の息が止まる。

「もう、この世にはいない。」

頭が真っ白になった。

「あの子は最後まで、自分を許せなかった。」

「だから、あなたを助けたの。」

結月の目から涙がこぼれる。

空を見上げると。

一瞬だけ。

月の下に、黒いパーカーの姿が見えた。

『――生きて。』

あの声が聞こえた気がした。

「……うん。」

結月は涙を拭う。

「私、生きる。」

---

それから一か月。

結月は少しずつ前を向いていた。

ある雨の日。

部屋の窓を、誰かがコンコンと叩いた。

カーテンを開ける。

そして――

「……え。」

窓の外に立っていたのは。

黒いパーカーを着た少年だった。

「久しぶり。」

「……湊?」

「うん。」

結月の目から涙が溢れた。

「なんで……。」

湊は困ったように笑う。

「それ、俺も分かんない。」

その夜。

二人は朝まで話した。

そして、少しずつ分かった。

湊の姿は、結月以外には見えていないこと。

そして――

彼の体が、少しずつ透け始めていること。

---

「俺、多分……もうすぐ消える。」

夕焼けの公園。

湊は静かに言った。

「やだ……。」

「ごめん。」

「やだよ……。」

湊は空を見上げる。

「俺、少しずつ思い出してきたんだ。」

「……。」

「妹がいた。」

その声が震える。

「守るって約束したのに……守れなかった。」

「それで、全部どうでもよくなった。」

「気づいたら……あの場所にいた。」

結月の胸が痛む。

「でも、君に会えた。」

湊は笑う。

「今度こそ、誰かを助けられた。」

「……ばか。」

結月は泣きながら言う。

「自分のことも助けなきゃダメじゃん。」

湊は目を見開いた。

そして、ふっと笑う。

「……そうだね。」

その瞬間。

彼の姿が、光になり始めた。

「……いや。」

「結月。」

「消えないで……。」

湊は優しく笑う。

「最後に、一つだけ約束して。」

「……何。」

「自分を嫌いにならないで。」

「……。」

「苦しくなったら、一人で抱え込まないで。」

「……。」

「そして……生きて。」

結月は涙を流しながら、何度も頷いた。

「……うん。」

「約束。」

「……約束。」

湊は安心したように笑った。

そして。

「ありがとう。」

その一言を残して――

光の粒になり、空へ溶けていった。

---

数年後。

雨の日。

大学生になった結月は、駅のホームに立っていた。

ポツリ。

頬に雨粒が落ちる。

あの日と同じ匂い。

でも、もう嫌いじゃない。

結月は空を見上げ、小さく笑った。

「……ちゃんと、生きてるよ。」

風が吹く。

その瞬間。

どこからか、懐かしい声が聞こえた気がした。

『――うん。』


結月は目を閉じる。

そして。

少しだけ涙を浮かべながら、前を向いて歩き出した。