朝のニュースが、リビングのテレビから流れている。
私——楓は寝不足のまま階段を降りて、食卓に着いた。入部から二日目の朝。昨夜はほとんど眠れなかった。伊藤由依のこと、帰宅部アプリのこと、部員リストから消えた名前のこと——全てが頭の中でぐるぐると回り続けて、目を閉じても眠れなかった。天井を見つめながら、何度も寝返りを打って、気づいたら朝になっていた。
母親はテレビを見ながら朝食を食べている。画面には「行方不明」という文字が映っていて、アナウンサーが淡々と読み上げている。その声は平坦で、まるで天気予報でも読むような口調だった。
『昨日夕方、市内在住の高校生・伊藤由依さん(16)が下校中に行方不明となりました。伊藤さんは桜ヶ丘高校に通う1年生で、午後5時頃、自宅付近で目撃されたのを最後に連絡が取れなくなっています。警察は——』
「物騒ね」
母親がそう言って、味噌汁を啜る。それだけだ。茶碗を持ったまま、視線はテレビに向いたまま。心配そうな顔もしていない。ただ、遠い場所で起きた出来事のように、淡々と受け止めている。
私は「同じ学校の子かもしれない」と言いかけて、やめた。言葉が喉の途中で止まって、そのまま飲み込んだ。言っても意味がない気がした。母親に話したところで、何が変わるわけでもない。それに——本当に怖いのは、話しても信じてもらえないことじゃない。話しても興味を持ってもらえないことだ。
校内放送のことを話しても、「そう」とだけ言われる気がする。帰宅部アプリのことを話しても、「よくわからないけど、変なアプリは消しなさい」と言われる気がする。そして最後に「あなたちゃんと学校行ってるの?」と聞かれて、会話が終わる。そんな予感がした。予感というより、確信に近かった。
私は黙って朝食を食べる。トーストを一口かじる。味がしない気がする。味噌汁を飲む。温かいけど、それだけだ。母親はテレビを見続けている。ニュースは次の話題に移っていて、もう伊藤由依のことは映っていない。彼女の名前は、もうテレビからも消えた。
朝食を終えて、制服に着替える。鞄を持って玄関を出る。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母親の声が、リビングから聞こえてくる。私がいなくなっても、何も変わらない朝。
私は家を出て、登校の道を歩き始める。朝の空気が冷たくて、鞄の持ち手を握る手が少しかじかむ。スマホを取り出して、帰宅部アプリを確認する。
《本日の活動:準備中》
画面の上部に、そう表示されている。昨日の「活動開始」とは違う。まだ放課後じゃないから、アプリも動いていないのだろうか。白い画面に黒い文字だけが並んでいて、何の感情も感じられない表示だ。
私は「部員一覧」を開く。
田村楓、柊壮介、山田椿、佐藤良樹。
四人の名前が表示されている。昨夜確認したときと同じだ。伊藤由依の名前はない。最初から四人だったような表示になっている。クラスと名前だけが並んでいて、顔写真もない。ただの文字情報だけ。でも、昨日まで確かに五人いた。私はそれを知っている。
私はアプリを閉じて、スマホをポケットに入れる。校門が見えてくる。いつもと同じ朝の光景が広がっている。でも、何かが違う。私だけが知っている何かが、ずっと胸の奥に引っかかっている。重い石を飲み込んだような、そんな感覚がずっと続いている。
◇
1年A組の教室に入ると、いつも通りの朝のざわめきがあった。
入部から二日目の朝。クラスメイトたちは笑いながら話していて、誰も伊藤由依のことを話題にしていない。ニュースで流れていたはずなのに、誰も気にしていないようだった。隣の席の女子が「昨日のドラマ見た?」と話しかけていて、その向こうでは男子が今日の体育の授業について文句を言っている。普通の朝。何も変わらない朝。
私は自分の席に座って、周囲を見回す。伊藤由依がどこに座っていたかを思い出そうとする。後ろの方だった気がする。窓側だったか、廊下側だったか。でも思い出せない。顔は覚えている——丸顔で、メガネをかけていて、少し恥ずかしそうに笑っていた。でも、席がどこだったかは思い出せない。昨日まで同じ教室にいたはずなのに。
私は立ち上がって、黒板の横に貼ってある席順表に近づく。A4サイズの紙に、クラス全員の名前が座席順に並んでいる。紙の端が少し折れていて、セロハンテープで貼り直された跡がある。
上から順に目で追っていく。出席番号順に並んでいる。1番、2番、3番——。
伊藤由依の名前がない。
出席番号が詰まっている。どこかが一つ減っている気がする。でも、何が減ったのかがうまく言葉にできない。番号を数え直してみる。1番から40番まで。全員いる。でも——何かが足りない気がする。足し算が合わないような、どこかがずれているような感覚。指で一つずつ名前を追ってみるが、欠けている場所がわからない。
私は席順表から目を離して、教室を見渡す。窓側の席、廊下側の席、真ん中の席——どこを見ても、空席はない。全員いる。でも、誰かがいないような気がする。その「誰か」がどこに座っていたかも、もう思い出せない。
「楓ちゃん、おはよう!」
美咲が教室に入ってくる。いつも通りの明るい声で、私に手を振ってくる。その笑顔は朝から眩しいくらいで、私は思わず目を細める。私は作り笑いで手を振り返す。頬の筋肉を動かすのが、少しだけ重い。
美咲が隣の席に座る。鞄を置いて、楽譜を机の上に広げながら「昨日の部活、すごくよかったんだよ! 先輩が優しくて、初めてフルート上手に吹けた気がして」と話し始める。楽譜のページをめくりながら、昨日の練習を思い出しているような表情をしている。
私は相槌を打ちながら、美咲の話を聞いている。でも頭の中では、伊藤由依のことを考えている。彼女はどこへ行ったのか。帰宅部のルールを破ったのか、それとも別の何かが起きたのか。
「ねえ、美咲」
私は話しかける。美咲が「なに?」と顔を上げる。楽譜から目を離して、首を少し傾ける。
「伊藤由依って子、同じクラスだよね」
美咲は首を傾げる。眉の間に、小さな皺が寄る。
「誰それ? そんな子いたっけ」
私の心臓が大きく跳ねる。美咲は本気でわからない顔をしている。目が左上に動いて、記憶を探っているような仕草をするが、すぐに首を横に振る。嘘をついているわけじゃない。ただ、知らない。
「昨日、校内放送で名前呼ばれてたじゃん」
「校内放送? 何の?」
「帰宅部の……」
「帰宅部って何?」
私は言葉に詰まる。美咲の目が真っ直ぐ私を見ている。不思議そうな、でも少し心配そうな目。美咲は本当に知らない。校内放送のことも、帰宅部のことも、伊藤由依のことも。私の言葉が美咲には意味をなしていない。まるで違う言語で話しかけているみたいだ。
「……ごめん、勘違いかも」
私はそう言って、話を打ち切る。曖昧に笑って、視線を窓の外に逃がす。美咲は「そっか」と言って、また楽譜に目を落とす。私は適当に相槌を打ちながら、胸の奥でざわざわとした不安が広がっていくのを感じる。
ホームルームのチャイムが鳴る。担任の田中先生が教室に入ってくる。いつも通りの淡々とした表情で、教壇に立つ。その顔に何の感情も読み取れない。
「おはよう。出席を取る」
田中先生が名簿を開いて、出席番号順に名前を呼んでいく。私は番号を数えながら聞く。どこかが一つ飛んでいる気がする。でも先生の声は淀みなく続いていて、止まらない。まるで全員が最初からここにいたかのように、流れるように名前を読み上げていく。
「1番、青木」
「はい」
「2番、石川」
「はい」
「3番、内田」
「はい」
私は頭の中で数を数える。3番——でも、3番は昨日まで誰だったか。思い出せない。内田だったか。それとも——記憶が霧の中に沈んでいくような感覚がある。
「10番、田村」
「はい」
私は返事をする。自分の声が少し上擦った気がした。田中先生は視線を私に向けることなく、次の名前を呼ぶ。私はもう一度、数を数え直そうとする。でも、途中でわからなくなる。
出席確認が終わる。田中先生が名簿を閉じて、連絡事項を伝え始める。私は席に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見る。校庭の木が風に揺れていて、葉が光を受けてきらめいている。普通の朝の景色。何も変わらない景色。でも、確かに何かが変わっている。昨日から、何かが欠けている。
◇
昼休み、私は職員室に向かった。
廊下を歩きながら、何を言えばいいのか考える。廊下には昼休みの生徒たちが溢れていて、笑い声や話し声が飛び交っている。その中を、一人だけ別の場所に向かっているような気分で歩いた。
職員室のドアを開ける。私は田中先生の机に向かって歩いていく。
「田中先生」
田中先生が顔を上げる。いつもの淡白な表情で、私を見る。眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなる。
「田村か。何の用だ」
「昨日出した部活希望調査票、確認させてもらえますか」
田中先生は少し間を置いてから、机の引き出しを開ける。金属の引き出しが少し軋む音がした。部活希望調査票の控えが綴じられたファイルを取り出して、ページをめくって、私の名前のページを開く。ファイルを私の方に向けて、無言で差し出す。
私は覗き込む。
帰宅部のチェックがない。
「その他(未定)」の欄が、空白のままだ。運動部の欄も文化部の欄も、全てチェックが入っていない。ただの白紙の調査票が、私の名前と一緒にファイルに綴じられている。鉛筆で引いたような薄い線が一本、余白に残っているだけ。それだけだ。
「これ、違います」
私は声を上げる。思ったより大きな声が出て、近くの先生が少し顔を上げた。私は声を落として続ける。
「帰宅部にチェックを入れました。確かに」
「そうは見えないが」
田中先生の声は低くて、感情がない。
「でも確かに——チェックマークが歪んでたのも覚えてます。紙が重くなって、手が震えて——」
「田村」
田中先生が私の言葉を遮る。静かな声だったが、その一言で私は黙った。
「お前、昨日ちゃんと帰れたか」
急に話が変わる。私は戸惑って、田中先生の顔を見る。田中先生は真剣な目で、私を見つめている。眼鏡の奥の目が、さっきとは違う光を持っている。何かを確認しようとしているような、あるいは何かを警告しようとしているような目だ。
「え、はい」
「今日も真っ直ぐ帰れ。それだけでいい」
田中先生の声は、低くて、どこか重い。「調査票のことは気にするな」でも「アプリのことは知らない」でもなく、ただ「真っ直ぐ帰れ」。それだけ。まるで私が、無事に帰れないかもしれないことを知っているかのような言い方だった。私は何も言えなくなって、ただ頷く。
「わかりました」
私は職員室を出る。ドアが閉まる音が背中越しに聞こえた。廊下に立って、さっきの控えを思い返す。確かにチェックした。あの紙が重くなった感覚も覚えている。なのに控えには残っていない。
私はスマホを取り出して、帰宅部アプリを開く。
《本日の活動:準備中》
部員一覧を確認する。田村楓、柊壮介、山田椿、佐藤良樹。四人の名前が並んでいる。アプリには確かに私の名前がある。でも、調査票には残っていない。校内放送も、誰も覚えていない。伊藤由依のことも、誰も覚えていない。
私は廊下に立ったまま、どうすればいいのかわからなくなる。窓の外では昼休みの生徒たちが校庭で笑っていて、その声がガラス越しに聞こえてくる。遠い。全てが、遠い場所の出来事みたいだ。
◇
六時間目が終わり、放課後のホームルームが始まる直前の短い休み時間。
私は自分の席でスマホを確認していた。帰宅部アプリを開いて、部員一覧を眺めている。柊壮介——1年B組。この名前の人物に、私は会ったことがない。名前とクラスだけが、画面の上に浮かんでいる。
「お前も見えてるのか」
急に声がして、私は顔を上げた。
気づくと、隣に見知らぬ男子生徒が立っていた。背が高くて、痩せていて、神経質そうな顔をしている。目つきが鋭くて、初対面なのにタメ口だ。制服の着こなしが少し乱れていて、ネクタイが緩んでいる。でも、その目には落ち着きがあった。私と同じものを見ている目だ、と直感的に思った。
「誰?」
「1年B組の、柊壮介」
柊——アプリに表示されていた名前だ。わざわざ別のクラスから来たということは、クラスメイトに私が誰か聞いて特定してきたのだろう。柊は私の反応を気にした様子もなく、周囲をさっと確認してから、小声で続ける。
「昨日五人入部して、夜のうちに一人消えた」
「……伊藤さんのこと」
私も自然と声を落とす。柊の眉が少し動く。
「お前も確認したのか」
「うん」
柊は私のスマホを見る。帰宅部アプリの画面を確認して、静かに頷く。その動作に無駄がない。すでに状況を整理して、次に何をすべきか考えながら動いているような印象を受けた。
「調査票、後から見たら帰宅部のチェックがなかっただろ。放送のログも残っていない。放送室も今朝から閉鎖中だ」
私は何も言えなかった。調査票のことは自分でも確認した。でも放送のログや放送室のことは調べていなかった。柊は私と同じ日に入部していながら、すでに先を調べていた。
「入部した記録が、どこにもない」
柊が続ける。その声は静かだが、言葉に確信があった。
「アプリだけがある」
「……そう」
「お前も同じだったんだろ」
「うん」
私は短く答える。柊は私の反応を確認して、少し表情を緩める。安心したわけではない。ただ、同じ状況の人間が他にもいることを確認しただけだ。そのわずかな表情の変化を見て、私も少しだけ力が抜けた気がした。一人じゃない。それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
「山田椿と佐藤良樹には、もう接触したか」
「してない。柊は?」
「どちらもまだだ」
私はアプリの部員一覧を見る。田村楓、柊壮介、山田椿、佐藤良樹。四人の名前が並んでいる。でも、山田椿も佐藤良樹も、私は顔を知らない。名前と番号だけの存在だ。消えた伊藤由依も、昨日まではそんな存在だった。
「放課後は一人で帰れ。アプリの指示通りに」
それだけ言って、柊は教室を出ていく。廊下に出ると、すぐに人混みの中に溶け込んでいった。私は柊の後ろ姿を見送りながら、胸の奥に不安が広がっていくのを感じる。同じ状況の人間がいるとわかった安心感と、でもだからといって何も解決していないという焦りが、胸の中で混ざり合っている。
◇
二日目の放課後、私は一人で帰り始めた。
校門を出ると、アプリが振動して《本日の活動開始》という通知が表示される。私はアプリを開いて、帰宅経路を確認する。
昨日とは違う道が表示されている。商店街を通る道ではなく、一本裏の細い道を通るルートになっている。いつも通らない道だ。地図の上の青い線が、見慣れない路地を指している。
私は従う。校門を出て、いつもの道とは違う方向に歩き始める。細い道に入ると、急に人通りが少なくなる。両側には古い家が並んでいて、街灯が等間隔に立っている。昼間なのに、何となく薄暗い印象がある。家と家の間が狭くて、空が細長く切り取られて見える。
歩きながら、周囲を見回す。誰もいない。静かだ。自分の足音だけが聞こえて、その音が思ったより大きく響く。風が吹いて、木の葉が揺れる音だけが聞こえる。
街灯が一本、電球が切れかけてちらついている。規則的に点滅を繰り返していて、その下を通り過ぎるとき、自分の影が伸びたり縮んだりする。
「楓ちゃん」
声がする。
後ろから。女の声。
私は足を止める。心臓が大きく跳ねる。振り向こうとして——やめる。何か、応えてはいけない気がする。理由はわからない。ただ、そう感じた。
「楓ちゃん、待って」
声が近づいてくる。美咲がよく使う柔らかいイントネーションで、美咲と同じ「楓ちゃん」という呼び方だった。でも美咲は部活があるはずだ。今の時間、美咲は音楽室でフルートを持って、先輩の横に座っているはずだ。
私は振り向かないで歩き続ける。足を速める。靴底が地面を叩く音が早くなる。声はだんだん近づいてくる。距離が縮まっている。でも、自分以外に誰かが歩いている足音が聞こえない。声だけが近づいてくる。
「楓ちゃん、どうして無視するの」
声が、すぐ後ろまで来ている。首の後ろに息がかかりそうなほど近い。
気づいたら走り出していた。細い道を抜けて、住宅街の角まで来る。角を曲がったところで、どうしても気になって振り向く。
誰もいない。
細い道が、まっすぐ伸びているだけ。人の姿はどこにもない。風が吹いて、木の葉が揺れる音だけが聞こえる。光が揺れて、道の上に影が踊っている。それだけだ。
スマホが振動する。
《警告:不要な接触を検知しました》
《本日の評価が低下しました》
画面に赤い文字で警告が表示される。私は息を呑んで、スマホを見つめる。「不要な接触」——私は誰にも接触していない。ただ、声が聞こえただけだ。足を止めただけだ。でもアプリは、それを「接触」と判定している。
私は走って家に向かう。もう後ろを振り向かない。ただ前を見て、家に向かって走る。住宅街の曲がり角を曲がって、また曲がって、ようやく見慣れた通りに出る。普段通っている道に戻ると、少しだけ息ができるようになった。
◇
家に着くと、玄関のドアを開ける。鍵を差し込む手が、まだ少し震えていた。
「ただいま」
誰も返事はない。リビングからテレビの音が聞こえる。私は自分の部屋に直行する。階段を上りながら、リビングが少しだけ視界に入る。母親がソファに座ってスマホを見ていた。私が帰ってきたことに気づいているのかどうか、わからない。
部屋に入って、ドアを閉める。クローゼットに背中を預けて、少しの間そのまま立っていた。心臓がまだ速く動いている。深呼吸を一つして、ようやくベッドに倒れ込む。
スマホを取り出し、アプリを開く。
《本日の活動:成功》
緑色のチェックマークが表示される。でも、画面に新しい項目が増えている。
【評価】
田村楓:B
柊壮介:A
山田椿:判定中
佐藤良樹:B
評価がある。帰宅成功だけじゃなく、何かを採点されている。私の評価はB。柊はA。佐藤もB。でも、山田椿だけが「判定中」だ。判定中とは何なのか。どんな基準で、何を判定しているのか。
なぜ柊だけがAなのか。私は細い道で足を止めた。それがBになった理由なのか。では柊は——完璧に指示通りに帰ったのか。私には確かめる方法がない。
通知が来る。
《明日の活動は、より慎重に行ってください》
私はスマホを置く。布団に倒れ込む。天井の白さだけが視界を埋める。家は静かだ。リビングからテレビの音が聞こえる。誰も私の部屋に来ない。今日も「ただいま」に返事はなかった。
細い道で聞こえた声——あれは何だったのか。目を閉じると、また声が聞こえる気がする。「楓ちゃん、待って」。でも振り向いたら誰もいなかった。アプリは「不要な接触」と言った。でも私は何にも触れていない。足を止めただけで接触と判定されるなら、この先どこまで気をつければいいのか。
◇
翌朝——入部から三日目。
教室に着くと、美咲がいつも通りの笑顔で手を振ってくる。私も笑顔で返す。その笑顔が少し疲れているのを、美咲は気づいているのかいないのか。
昨夜、ほとんど眠れなかった。細い道の声が頭から離れなかった。声の主が誰なのかはわからない。でも——確認できることがある。
「ねえ、美咲」
私は授業前の短い時間に話しかける。できるだけ何でもない口調で。
「昨日、部活何時に終わった?」
美咲は少し考えて、「六時頃かな。なんで?」と答える。その顔は無邪気で、私の質問の意図を全く読んでいない。
「なんでもない」
私はそう言って、視線を教科書に落とす。六時頃——私が細い道を歩いていたのは、四時半頃だった。美咲はまだ学校にいたはずだ。
では、あの声は何だったのか。
◇
三日目の昼休み、部員を探して学内を歩き回った末に、私は図書室に入った。本の匂いと静かな空気が漂っていた。昼休みの賑やかさが嘘のように、図書室の中は落ち着いていて、私は自然と足を奥へ向けていた。窓際の席に、見慣れない女子生徒がいる。スマホを見ながら、何かをノートに書き込んでいる。細かい字で、几帳面に。私はそのスマホの画面に見覚えのある青いアイコンを見つける。
帰宅部アプリだ。
「帰宅部の部員?」
私は声をかける。声が少し緊張して、想定より高くなった。女子生徒が顔を上げる。無表情で、観察するような目をしている。感情を読み取らせないような、静かな目だ。
「そう。1年C組の山田椿」
「私は田村楓、1年A組」
「知ってる。アプリに出てる」
椿はそう言って、スマホを私に見せる。部員一覧の画面だ。四人の名前が並んでいる。私の名前も、ちゃんとそこにある。
私は椅子を引いて、椿の向かいに座る。図書室の窓から差し込む光が、椿のノートの上に落ちている。
「椿は、いろいろ調べてるんだね」
ノートに書き込まれた情報量を見て、私は言う。びっしりと文字が並んでいて、矢印や丸印で整理されている。私が昨夜ベッドで天井を見つめていた間に、椿はこれだけのことをまとめていた。
「アプリの画面、外に持ち出せるか試した。家族にLINEで送ろうとした」
椿が淡々と話し始める。感情の起伏がなく、報告しているような口調だ。
「どうだった」
「送信できない。エラーにもならない。ただ、送れない」
椿はノートを開いて、私に見せる。試したこと、結果、推測——全てが几帳面に仕分けられている。
「アプリの共有リンクは」
「生成できない」
「つまり」
「アプリの存在を外に証明できない。証拠を作れない」
椿は淡々と説明する。感情が読み取れない声だが、その言葉の一つ一つに確信がある。試してみて、確認して、記録した。そういう声だ。
「帰宅部は、普通の部活じゃないと思う」
「なんで」
「わからない。でも——何かがおかしい」
椿はそこで少し間を置く。「わからない」と言いながら、その目は何かを考え続けている。ノートに視線を落として、それから私を見る。
「私のアプリで、椿の評価、判定中になってたけど」
「知ってる。自分でも確認した」
「なんで判定中なんだろう」
「わからない。でも——」
椿が少し間を置く。窓の外で鳥が鳴いた。昼休みの賑やかさが、遠くから聞こえてくる。
「入部初日の放送、何人呼ばれたか覚えてる?」
「五人」
私は即答する。五人の名前が、今でも耳に残っている。田村楓、伊藤由依、柊壮介、山田椿、佐藤良樹。校内放送で読み上げられた、あの順番で。
椿が少し間を置く。
「私は四人しか思い出せない」
二人の間に沈黙が落ちる。静かな図書室が、さらに静かになった気がした。五人入部した。一人消えた。椿の記憶からはすでに、その一人が薄れている。
「伊藤由依って子のこと、覚えてる?」
私は恐る恐る、名前を口にした。椿は少し考えて、首を横に振る。その動作が、少し遅かった。思い出そうとして、でも思い出せない、という時間があった。
「名前は覚えてる。でも、顔が思い出せない。どんな人だったかも思い出せない」
私は息を呑む。椿は伊藤由依の顔を思い出せない。私はまだ覚えている。丸顔で、メガネをかけていて、少し恥ずかしそうに笑っていた。でも、椿は思い出せない。このまま時間が経てば、私も同じになるのだろうか。
「柊にも確認した?」
「昨日連絡して聞いた。名前だけしか覚えてないって」
「佐藤良樹には連絡した?」
「した。ルールをなめてた。『ただのバグアプリ』って」
椿の声に、わずかに何かが混じった気がした。困惑とも、呆れとも取れるような、小さな揺れ。でもすぐに消えて、また平坦な声に戻る。
「今日の放課後、わざと経路を外れてみるって言ってた」
「止めなかったの」
「止めようとした。でも聞かなかった」
椿は淡々と答える。その声に後悔はない。ただ事実を述べているだけ。でも——止めようとしたということは、椿も何かを感じていたということだ。
「『どうせ家帰っても誰もいないし、別にいいじゃん』とも言ってた」
私は黙る。「どうせ家帰っても誰もいない」——その言葉が、胸に刺さる。軽い口調で言ったのかもしれない。でもその言葉の裏に、何かがある気がした。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。椿がノートを閉じて、立ち上がる。無駄のない動作だ。
「放課後、また話せる?」
「放課後は帰らないといけない。アプリのルールがある」
「……そうだよね」
椿は私に背を向けて、図書室を出ていく。その後ろ姿を見送りながら、私は胸の奥に不安が広がっていくのを感じる。佐藤が今日、ルールを破る。もし本当に何かが起きたら——。
私——楓は寝不足のまま階段を降りて、食卓に着いた。入部から二日目の朝。昨夜はほとんど眠れなかった。伊藤由依のこと、帰宅部アプリのこと、部員リストから消えた名前のこと——全てが頭の中でぐるぐると回り続けて、目を閉じても眠れなかった。天井を見つめながら、何度も寝返りを打って、気づいたら朝になっていた。
母親はテレビを見ながら朝食を食べている。画面には「行方不明」という文字が映っていて、アナウンサーが淡々と読み上げている。その声は平坦で、まるで天気予報でも読むような口調だった。
『昨日夕方、市内在住の高校生・伊藤由依さん(16)が下校中に行方不明となりました。伊藤さんは桜ヶ丘高校に通う1年生で、午後5時頃、自宅付近で目撃されたのを最後に連絡が取れなくなっています。警察は——』
「物騒ね」
母親がそう言って、味噌汁を啜る。それだけだ。茶碗を持ったまま、視線はテレビに向いたまま。心配そうな顔もしていない。ただ、遠い場所で起きた出来事のように、淡々と受け止めている。
私は「同じ学校の子かもしれない」と言いかけて、やめた。言葉が喉の途中で止まって、そのまま飲み込んだ。言っても意味がない気がした。母親に話したところで、何が変わるわけでもない。それに——本当に怖いのは、話しても信じてもらえないことじゃない。話しても興味を持ってもらえないことだ。
校内放送のことを話しても、「そう」とだけ言われる気がする。帰宅部アプリのことを話しても、「よくわからないけど、変なアプリは消しなさい」と言われる気がする。そして最後に「あなたちゃんと学校行ってるの?」と聞かれて、会話が終わる。そんな予感がした。予感というより、確信に近かった。
私は黙って朝食を食べる。トーストを一口かじる。味がしない気がする。味噌汁を飲む。温かいけど、それだけだ。母親はテレビを見続けている。ニュースは次の話題に移っていて、もう伊藤由依のことは映っていない。彼女の名前は、もうテレビからも消えた。
朝食を終えて、制服に着替える。鞄を持って玄関を出る。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母親の声が、リビングから聞こえてくる。私がいなくなっても、何も変わらない朝。
私は家を出て、登校の道を歩き始める。朝の空気が冷たくて、鞄の持ち手を握る手が少しかじかむ。スマホを取り出して、帰宅部アプリを確認する。
《本日の活動:準備中》
画面の上部に、そう表示されている。昨日の「活動開始」とは違う。まだ放課後じゃないから、アプリも動いていないのだろうか。白い画面に黒い文字だけが並んでいて、何の感情も感じられない表示だ。
私は「部員一覧」を開く。
田村楓、柊壮介、山田椿、佐藤良樹。
四人の名前が表示されている。昨夜確認したときと同じだ。伊藤由依の名前はない。最初から四人だったような表示になっている。クラスと名前だけが並んでいて、顔写真もない。ただの文字情報だけ。でも、昨日まで確かに五人いた。私はそれを知っている。
私はアプリを閉じて、スマホをポケットに入れる。校門が見えてくる。いつもと同じ朝の光景が広がっている。でも、何かが違う。私だけが知っている何かが、ずっと胸の奥に引っかかっている。重い石を飲み込んだような、そんな感覚がずっと続いている。
◇
1年A組の教室に入ると、いつも通りの朝のざわめきがあった。
入部から二日目の朝。クラスメイトたちは笑いながら話していて、誰も伊藤由依のことを話題にしていない。ニュースで流れていたはずなのに、誰も気にしていないようだった。隣の席の女子が「昨日のドラマ見た?」と話しかけていて、その向こうでは男子が今日の体育の授業について文句を言っている。普通の朝。何も変わらない朝。
私は自分の席に座って、周囲を見回す。伊藤由依がどこに座っていたかを思い出そうとする。後ろの方だった気がする。窓側だったか、廊下側だったか。でも思い出せない。顔は覚えている——丸顔で、メガネをかけていて、少し恥ずかしそうに笑っていた。でも、席がどこだったかは思い出せない。昨日まで同じ教室にいたはずなのに。
私は立ち上がって、黒板の横に貼ってある席順表に近づく。A4サイズの紙に、クラス全員の名前が座席順に並んでいる。紙の端が少し折れていて、セロハンテープで貼り直された跡がある。
上から順に目で追っていく。出席番号順に並んでいる。1番、2番、3番——。
伊藤由依の名前がない。
出席番号が詰まっている。どこかが一つ減っている気がする。でも、何が減ったのかがうまく言葉にできない。番号を数え直してみる。1番から40番まで。全員いる。でも——何かが足りない気がする。足し算が合わないような、どこかがずれているような感覚。指で一つずつ名前を追ってみるが、欠けている場所がわからない。
私は席順表から目を離して、教室を見渡す。窓側の席、廊下側の席、真ん中の席——どこを見ても、空席はない。全員いる。でも、誰かがいないような気がする。その「誰か」がどこに座っていたかも、もう思い出せない。
「楓ちゃん、おはよう!」
美咲が教室に入ってくる。いつも通りの明るい声で、私に手を振ってくる。その笑顔は朝から眩しいくらいで、私は思わず目を細める。私は作り笑いで手を振り返す。頬の筋肉を動かすのが、少しだけ重い。
美咲が隣の席に座る。鞄を置いて、楽譜を机の上に広げながら「昨日の部活、すごくよかったんだよ! 先輩が優しくて、初めてフルート上手に吹けた気がして」と話し始める。楽譜のページをめくりながら、昨日の練習を思い出しているような表情をしている。
私は相槌を打ちながら、美咲の話を聞いている。でも頭の中では、伊藤由依のことを考えている。彼女はどこへ行ったのか。帰宅部のルールを破ったのか、それとも別の何かが起きたのか。
「ねえ、美咲」
私は話しかける。美咲が「なに?」と顔を上げる。楽譜から目を離して、首を少し傾ける。
「伊藤由依って子、同じクラスだよね」
美咲は首を傾げる。眉の間に、小さな皺が寄る。
「誰それ? そんな子いたっけ」
私の心臓が大きく跳ねる。美咲は本気でわからない顔をしている。目が左上に動いて、記憶を探っているような仕草をするが、すぐに首を横に振る。嘘をついているわけじゃない。ただ、知らない。
「昨日、校内放送で名前呼ばれてたじゃん」
「校内放送? 何の?」
「帰宅部の……」
「帰宅部って何?」
私は言葉に詰まる。美咲の目が真っ直ぐ私を見ている。不思議そうな、でも少し心配そうな目。美咲は本当に知らない。校内放送のことも、帰宅部のことも、伊藤由依のことも。私の言葉が美咲には意味をなしていない。まるで違う言語で話しかけているみたいだ。
「……ごめん、勘違いかも」
私はそう言って、話を打ち切る。曖昧に笑って、視線を窓の外に逃がす。美咲は「そっか」と言って、また楽譜に目を落とす。私は適当に相槌を打ちながら、胸の奥でざわざわとした不安が広がっていくのを感じる。
ホームルームのチャイムが鳴る。担任の田中先生が教室に入ってくる。いつも通りの淡々とした表情で、教壇に立つ。その顔に何の感情も読み取れない。
「おはよう。出席を取る」
田中先生が名簿を開いて、出席番号順に名前を呼んでいく。私は番号を数えながら聞く。どこかが一つ飛んでいる気がする。でも先生の声は淀みなく続いていて、止まらない。まるで全員が最初からここにいたかのように、流れるように名前を読み上げていく。
「1番、青木」
「はい」
「2番、石川」
「はい」
「3番、内田」
「はい」
私は頭の中で数を数える。3番——でも、3番は昨日まで誰だったか。思い出せない。内田だったか。それとも——記憶が霧の中に沈んでいくような感覚がある。
「10番、田村」
「はい」
私は返事をする。自分の声が少し上擦った気がした。田中先生は視線を私に向けることなく、次の名前を呼ぶ。私はもう一度、数を数え直そうとする。でも、途中でわからなくなる。
出席確認が終わる。田中先生が名簿を閉じて、連絡事項を伝え始める。私は席に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見る。校庭の木が風に揺れていて、葉が光を受けてきらめいている。普通の朝の景色。何も変わらない景色。でも、確かに何かが変わっている。昨日から、何かが欠けている。
◇
昼休み、私は職員室に向かった。
廊下を歩きながら、何を言えばいいのか考える。廊下には昼休みの生徒たちが溢れていて、笑い声や話し声が飛び交っている。その中を、一人だけ別の場所に向かっているような気分で歩いた。
職員室のドアを開ける。私は田中先生の机に向かって歩いていく。
「田中先生」
田中先生が顔を上げる。いつもの淡白な表情で、私を見る。眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなる。
「田村か。何の用だ」
「昨日出した部活希望調査票、確認させてもらえますか」
田中先生は少し間を置いてから、机の引き出しを開ける。金属の引き出しが少し軋む音がした。部活希望調査票の控えが綴じられたファイルを取り出して、ページをめくって、私の名前のページを開く。ファイルを私の方に向けて、無言で差し出す。
私は覗き込む。
帰宅部のチェックがない。
「その他(未定)」の欄が、空白のままだ。運動部の欄も文化部の欄も、全てチェックが入っていない。ただの白紙の調査票が、私の名前と一緒にファイルに綴じられている。鉛筆で引いたような薄い線が一本、余白に残っているだけ。それだけだ。
「これ、違います」
私は声を上げる。思ったより大きな声が出て、近くの先生が少し顔を上げた。私は声を落として続ける。
「帰宅部にチェックを入れました。確かに」
「そうは見えないが」
田中先生の声は低くて、感情がない。
「でも確かに——チェックマークが歪んでたのも覚えてます。紙が重くなって、手が震えて——」
「田村」
田中先生が私の言葉を遮る。静かな声だったが、その一言で私は黙った。
「お前、昨日ちゃんと帰れたか」
急に話が変わる。私は戸惑って、田中先生の顔を見る。田中先生は真剣な目で、私を見つめている。眼鏡の奥の目が、さっきとは違う光を持っている。何かを確認しようとしているような、あるいは何かを警告しようとしているような目だ。
「え、はい」
「今日も真っ直ぐ帰れ。それだけでいい」
田中先生の声は、低くて、どこか重い。「調査票のことは気にするな」でも「アプリのことは知らない」でもなく、ただ「真っ直ぐ帰れ」。それだけ。まるで私が、無事に帰れないかもしれないことを知っているかのような言い方だった。私は何も言えなくなって、ただ頷く。
「わかりました」
私は職員室を出る。ドアが閉まる音が背中越しに聞こえた。廊下に立って、さっきの控えを思い返す。確かにチェックした。あの紙が重くなった感覚も覚えている。なのに控えには残っていない。
私はスマホを取り出して、帰宅部アプリを開く。
《本日の活動:準備中》
部員一覧を確認する。田村楓、柊壮介、山田椿、佐藤良樹。四人の名前が並んでいる。アプリには確かに私の名前がある。でも、調査票には残っていない。校内放送も、誰も覚えていない。伊藤由依のことも、誰も覚えていない。
私は廊下に立ったまま、どうすればいいのかわからなくなる。窓の外では昼休みの生徒たちが校庭で笑っていて、その声がガラス越しに聞こえてくる。遠い。全てが、遠い場所の出来事みたいだ。
◇
六時間目が終わり、放課後のホームルームが始まる直前の短い休み時間。
私は自分の席でスマホを確認していた。帰宅部アプリを開いて、部員一覧を眺めている。柊壮介——1年B組。この名前の人物に、私は会ったことがない。名前とクラスだけが、画面の上に浮かんでいる。
「お前も見えてるのか」
急に声がして、私は顔を上げた。
気づくと、隣に見知らぬ男子生徒が立っていた。背が高くて、痩せていて、神経質そうな顔をしている。目つきが鋭くて、初対面なのにタメ口だ。制服の着こなしが少し乱れていて、ネクタイが緩んでいる。でも、その目には落ち着きがあった。私と同じものを見ている目だ、と直感的に思った。
「誰?」
「1年B組の、柊壮介」
柊——アプリに表示されていた名前だ。わざわざ別のクラスから来たということは、クラスメイトに私が誰か聞いて特定してきたのだろう。柊は私の反応を気にした様子もなく、周囲をさっと確認してから、小声で続ける。
「昨日五人入部して、夜のうちに一人消えた」
「……伊藤さんのこと」
私も自然と声を落とす。柊の眉が少し動く。
「お前も確認したのか」
「うん」
柊は私のスマホを見る。帰宅部アプリの画面を確認して、静かに頷く。その動作に無駄がない。すでに状況を整理して、次に何をすべきか考えながら動いているような印象を受けた。
「調査票、後から見たら帰宅部のチェックがなかっただろ。放送のログも残っていない。放送室も今朝から閉鎖中だ」
私は何も言えなかった。調査票のことは自分でも確認した。でも放送のログや放送室のことは調べていなかった。柊は私と同じ日に入部していながら、すでに先を調べていた。
「入部した記録が、どこにもない」
柊が続ける。その声は静かだが、言葉に確信があった。
「アプリだけがある」
「……そう」
「お前も同じだったんだろ」
「うん」
私は短く答える。柊は私の反応を確認して、少し表情を緩める。安心したわけではない。ただ、同じ状況の人間が他にもいることを確認しただけだ。そのわずかな表情の変化を見て、私も少しだけ力が抜けた気がした。一人じゃない。それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
「山田椿と佐藤良樹には、もう接触したか」
「してない。柊は?」
「どちらもまだだ」
私はアプリの部員一覧を見る。田村楓、柊壮介、山田椿、佐藤良樹。四人の名前が並んでいる。でも、山田椿も佐藤良樹も、私は顔を知らない。名前と番号だけの存在だ。消えた伊藤由依も、昨日まではそんな存在だった。
「放課後は一人で帰れ。アプリの指示通りに」
それだけ言って、柊は教室を出ていく。廊下に出ると、すぐに人混みの中に溶け込んでいった。私は柊の後ろ姿を見送りながら、胸の奥に不安が広がっていくのを感じる。同じ状況の人間がいるとわかった安心感と、でもだからといって何も解決していないという焦りが、胸の中で混ざり合っている。
◇
二日目の放課後、私は一人で帰り始めた。
校門を出ると、アプリが振動して《本日の活動開始》という通知が表示される。私はアプリを開いて、帰宅経路を確認する。
昨日とは違う道が表示されている。商店街を通る道ではなく、一本裏の細い道を通るルートになっている。いつも通らない道だ。地図の上の青い線が、見慣れない路地を指している。
私は従う。校門を出て、いつもの道とは違う方向に歩き始める。細い道に入ると、急に人通りが少なくなる。両側には古い家が並んでいて、街灯が等間隔に立っている。昼間なのに、何となく薄暗い印象がある。家と家の間が狭くて、空が細長く切り取られて見える。
歩きながら、周囲を見回す。誰もいない。静かだ。自分の足音だけが聞こえて、その音が思ったより大きく響く。風が吹いて、木の葉が揺れる音だけが聞こえる。
街灯が一本、電球が切れかけてちらついている。規則的に点滅を繰り返していて、その下を通り過ぎるとき、自分の影が伸びたり縮んだりする。
「楓ちゃん」
声がする。
後ろから。女の声。
私は足を止める。心臓が大きく跳ねる。振り向こうとして——やめる。何か、応えてはいけない気がする。理由はわからない。ただ、そう感じた。
「楓ちゃん、待って」
声が近づいてくる。美咲がよく使う柔らかいイントネーションで、美咲と同じ「楓ちゃん」という呼び方だった。でも美咲は部活があるはずだ。今の時間、美咲は音楽室でフルートを持って、先輩の横に座っているはずだ。
私は振り向かないで歩き続ける。足を速める。靴底が地面を叩く音が早くなる。声はだんだん近づいてくる。距離が縮まっている。でも、自分以外に誰かが歩いている足音が聞こえない。声だけが近づいてくる。
「楓ちゃん、どうして無視するの」
声が、すぐ後ろまで来ている。首の後ろに息がかかりそうなほど近い。
気づいたら走り出していた。細い道を抜けて、住宅街の角まで来る。角を曲がったところで、どうしても気になって振り向く。
誰もいない。
細い道が、まっすぐ伸びているだけ。人の姿はどこにもない。風が吹いて、木の葉が揺れる音だけが聞こえる。光が揺れて、道の上に影が踊っている。それだけだ。
スマホが振動する。
《警告:不要な接触を検知しました》
《本日の評価が低下しました》
画面に赤い文字で警告が表示される。私は息を呑んで、スマホを見つめる。「不要な接触」——私は誰にも接触していない。ただ、声が聞こえただけだ。足を止めただけだ。でもアプリは、それを「接触」と判定している。
私は走って家に向かう。もう後ろを振り向かない。ただ前を見て、家に向かって走る。住宅街の曲がり角を曲がって、また曲がって、ようやく見慣れた通りに出る。普段通っている道に戻ると、少しだけ息ができるようになった。
◇
家に着くと、玄関のドアを開ける。鍵を差し込む手が、まだ少し震えていた。
「ただいま」
誰も返事はない。リビングからテレビの音が聞こえる。私は自分の部屋に直行する。階段を上りながら、リビングが少しだけ視界に入る。母親がソファに座ってスマホを見ていた。私が帰ってきたことに気づいているのかどうか、わからない。
部屋に入って、ドアを閉める。クローゼットに背中を預けて、少しの間そのまま立っていた。心臓がまだ速く動いている。深呼吸を一つして、ようやくベッドに倒れ込む。
スマホを取り出し、アプリを開く。
《本日の活動:成功》
緑色のチェックマークが表示される。でも、画面に新しい項目が増えている。
【評価】
田村楓:B
柊壮介:A
山田椿:判定中
佐藤良樹:B
評価がある。帰宅成功だけじゃなく、何かを採点されている。私の評価はB。柊はA。佐藤もB。でも、山田椿だけが「判定中」だ。判定中とは何なのか。どんな基準で、何を判定しているのか。
なぜ柊だけがAなのか。私は細い道で足を止めた。それがBになった理由なのか。では柊は——完璧に指示通りに帰ったのか。私には確かめる方法がない。
通知が来る。
《明日の活動は、より慎重に行ってください》
私はスマホを置く。布団に倒れ込む。天井の白さだけが視界を埋める。家は静かだ。リビングからテレビの音が聞こえる。誰も私の部屋に来ない。今日も「ただいま」に返事はなかった。
細い道で聞こえた声——あれは何だったのか。目を閉じると、また声が聞こえる気がする。「楓ちゃん、待って」。でも振り向いたら誰もいなかった。アプリは「不要な接触」と言った。でも私は何にも触れていない。足を止めただけで接触と判定されるなら、この先どこまで気をつければいいのか。
◇
翌朝——入部から三日目。
教室に着くと、美咲がいつも通りの笑顔で手を振ってくる。私も笑顔で返す。その笑顔が少し疲れているのを、美咲は気づいているのかいないのか。
昨夜、ほとんど眠れなかった。細い道の声が頭から離れなかった。声の主が誰なのかはわからない。でも——確認できることがある。
「ねえ、美咲」
私は授業前の短い時間に話しかける。できるだけ何でもない口調で。
「昨日、部活何時に終わった?」
美咲は少し考えて、「六時頃かな。なんで?」と答える。その顔は無邪気で、私の質問の意図を全く読んでいない。
「なんでもない」
私はそう言って、視線を教科書に落とす。六時頃——私が細い道を歩いていたのは、四時半頃だった。美咲はまだ学校にいたはずだ。
では、あの声は何だったのか。
◇
三日目の昼休み、部員を探して学内を歩き回った末に、私は図書室に入った。本の匂いと静かな空気が漂っていた。昼休みの賑やかさが嘘のように、図書室の中は落ち着いていて、私は自然と足を奥へ向けていた。窓際の席に、見慣れない女子生徒がいる。スマホを見ながら、何かをノートに書き込んでいる。細かい字で、几帳面に。私はそのスマホの画面に見覚えのある青いアイコンを見つける。
帰宅部アプリだ。
「帰宅部の部員?」
私は声をかける。声が少し緊張して、想定より高くなった。女子生徒が顔を上げる。無表情で、観察するような目をしている。感情を読み取らせないような、静かな目だ。
「そう。1年C組の山田椿」
「私は田村楓、1年A組」
「知ってる。アプリに出てる」
椿はそう言って、スマホを私に見せる。部員一覧の画面だ。四人の名前が並んでいる。私の名前も、ちゃんとそこにある。
私は椅子を引いて、椿の向かいに座る。図書室の窓から差し込む光が、椿のノートの上に落ちている。
「椿は、いろいろ調べてるんだね」
ノートに書き込まれた情報量を見て、私は言う。びっしりと文字が並んでいて、矢印や丸印で整理されている。私が昨夜ベッドで天井を見つめていた間に、椿はこれだけのことをまとめていた。
「アプリの画面、外に持ち出せるか試した。家族にLINEで送ろうとした」
椿が淡々と話し始める。感情の起伏がなく、報告しているような口調だ。
「どうだった」
「送信できない。エラーにもならない。ただ、送れない」
椿はノートを開いて、私に見せる。試したこと、結果、推測——全てが几帳面に仕分けられている。
「アプリの共有リンクは」
「生成できない」
「つまり」
「アプリの存在を外に証明できない。証拠を作れない」
椿は淡々と説明する。感情が読み取れない声だが、その言葉の一つ一つに確信がある。試してみて、確認して、記録した。そういう声だ。
「帰宅部は、普通の部活じゃないと思う」
「なんで」
「わからない。でも——何かがおかしい」
椿はそこで少し間を置く。「わからない」と言いながら、その目は何かを考え続けている。ノートに視線を落として、それから私を見る。
「私のアプリで、椿の評価、判定中になってたけど」
「知ってる。自分でも確認した」
「なんで判定中なんだろう」
「わからない。でも——」
椿が少し間を置く。窓の外で鳥が鳴いた。昼休みの賑やかさが、遠くから聞こえてくる。
「入部初日の放送、何人呼ばれたか覚えてる?」
「五人」
私は即答する。五人の名前が、今でも耳に残っている。田村楓、伊藤由依、柊壮介、山田椿、佐藤良樹。校内放送で読み上げられた、あの順番で。
椿が少し間を置く。
「私は四人しか思い出せない」
二人の間に沈黙が落ちる。静かな図書室が、さらに静かになった気がした。五人入部した。一人消えた。椿の記憶からはすでに、その一人が薄れている。
「伊藤由依って子のこと、覚えてる?」
私は恐る恐る、名前を口にした。椿は少し考えて、首を横に振る。その動作が、少し遅かった。思い出そうとして、でも思い出せない、という時間があった。
「名前は覚えてる。でも、顔が思い出せない。どんな人だったかも思い出せない」
私は息を呑む。椿は伊藤由依の顔を思い出せない。私はまだ覚えている。丸顔で、メガネをかけていて、少し恥ずかしそうに笑っていた。でも、椿は思い出せない。このまま時間が経てば、私も同じになるのだろうか。
「柊にも確認した?」
「昨日連絡して聞いた。名前だけしか覚えてないって」
「佐藤良樹には連絡した?」
「した。ルールをなめてた。『ただのバグアプリ』って」
椿の声に、わずかに何かが混じった気がした。困惑とも、呆れとも取れるような、小さな揺れ。でもすぐに消えて、また平坦な声に戻る。
「今日の放課後、わざと経路を外れてみるって言ってた」
「止めなかったの」
「止めようとした。でも聞かなかった」
椿は淡々と答える。その声に後悔はない。ただ事実を述べているだけ。でも——止めようとしたということは、椿も何かを感じていたということだ。
「『どうせ家帰っても誰もいないし、別にいいじゃん』とも言ってた」
私は黙る。「どうせ家帰っても誰もいない」——その言葉が、胸に刺さる。軽い口調で言ったのかもしれない。でもその言葉の裏に、何かがある気がした。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。椿がノートを閉じて、立ち上がる。無駄のない動作だ。
「放課後、また話せる?」
「放課後は帰らないといけない。アプリのルールがある」
「……そうだよね」
椿は私に背を向けて、図書室を出ていく。その後ろ姿を見送りながら、私は胸の奥に不安が広がっていくのを感じる。佐藤が今日、ルールを破る。もし本当に何かが起きたら——。


