◇
七尾のために、咲菜を誘うべきか否か。七尾は実のところ咲菜を誘いたかったのではないか否か。七尾に相談すべきか否か。
返されたばかりの数学のテストより難しい。平均点と大差ない。
星子(しょうこ)は溜息を吐いた。
肩に熱いものが乗る。焼石ではなかった。人の肌の質感と、それなりの質量がある。振り返ると、頬に同じような質感が刺さる。指だった。七尾だ。
「ダメだったか?」
「平均点より2点高いよ」
「良くやった」
「へへへ……」
親しいのだ。訊けばいい。だがどう訊けばいいのか分からなかった。
『咲菜ちゃんも、誘う?』
しかし、何故咲菜を誘うのか問われるに違いない。
『七尾くんてさ、咲菜ちゃんのこと好きだよね……?』
だがそれを明言したが最後、咲菜の恋を応援すると知られたとき、七尾は昔馴染みからの裏切りを知ってしまう。
『あのさ……咲菜ちゃんを誘うのは、どう?』
理由を問われても、咲菜とは親友なのだから、不自然はない。だがもし七尾がそれを赦したとして、3人になる。七尾と咲菜で2人きりになるべきだ。或いはもう1人誘うべきなのだ。だが七尾の恋路を知る者が他にいるだろうか。
『星子』
星子は眉を顰めた。
『おーい』
『七尾くんも、笹森くんとか誘ったら……?』
しかし笹森には今朝も無視されてしまった。目が合ったはずだが、まるで存在しないものかのように扱われてしまったのだった。介助の役に立たなかったことについて、侮蔑されてしまったらしい。ゆえに七尾が誘ったところで、諾とは言わないだろう。それならば星子は辞退して、代わりに鷲羽(わしゅう)さんが入れば丸く治まるはずだ。それがいい。それだ。
「星子」
「七尾! テストを取りに来なさい」
欣喜雀躍(きんきじゃくやく)、阿鼻叫喚、悲喜交々(ひきこもごも)、小うるさかった教室が静まり返る。
七尾は星子の肩を叩いて、テストを受け取りにいった。彼は学年最高点だったらしい。星子と30点以上の差があった。
周りの男子たちが七尾を誂(からか)い、女子たちが褒めそやす。
『五百鈴(いおり)も五百鈴でさー、おとなしい女子には優しいし? 多分忙しくても相手しちゃうと思うんだよね。だからさー、その、あんまり、期待とかしないほうが、星子チャンも傷付かなくて済むかなーって、ンハハハ』
鷲羽さんの言っていたことは、何も笹森のことだけではない。七尾もそうなのだ。彼も目立ち、男女問わず人気者で、クラスを代表するような男子だった。彼との接点は、ただ小学校と中学校が同じだったというだけのことで、自ら選んだ関係ではなかった。
鷲羽さんから離れ、咲菜が廊下へ呼び出した。
「星子ちゃん、肝試し大会、何着ていく?」
肝試し大会に4人で行くと話したことがある。笹森に愛想を尽かされるとは、そのときは考えてもいなかった。
「肝試し大会だから、多分歩くよね。Tシャツとかでいいんじゃないかな」
「そうよね、そうよね?」
しかし笹森も一緒ならば、咲菜は普段遊びに行くような、可愛らしいワンピースやスカートを着たいはずだ。
「ちゃんと虫除け対策とかしてあれば、ハーフパンツとかでも大丈夫なんじゃないかな?」
「星子ちゃんに後で写真送ってもいい? 変じゃないか、見てほしくって……」
好きな人との肝試し大会なのだ。気合いを入れておかしいということはない。
「うん。もちろんだよ。咲菜ちゃんだから多分何着ても似合うとは思うけれど……」
「もう、星子ちゃんたら!」
だが事実だ。彼女の選ぶ服はどれも彼女によく似合う。白地に赤い花柄のフリルが特徴的なワンピースや、ピンク色のチェック模様に真っ赤なサテンのリボンが裾を飾るスカートなど、彼女らしい。
「笹森くんと七尾くん、憶えてるかな、肝試し大会のこと……」
咲菜が訊ねた。
「咲菜ちゃんが一緒なんだもの。憶えてるよ」
そして口にして、七尾の恋を曝露しかけていたことに気付く。
「それは、星子ちゃんだって……」
咲菜は俯きがちになり、左右に揺れる。彼女は可愛らしい。
教室の小窓が開いた。鷲羽さんが顔を出す。
「えー、何なに? 肝試し大会って?」
咲菜が星子を見た。彼女のよく濡れた大きな瞳に戸惑いがある。
「あ、ああ……肝試し大会っていうのがあるらしくて……」
「五百鈴と七尾も行くの?」
「あ、う……うん……」
「じゃあ、アタシも行く。いいよね? 五百鈴に詳細訊いとくわ」
窓が閉まった。そして奥で、笹森を呼ぶ声が聞こえた。
「ど、どうしよう……」
咲菜が呟く。
「鷲羽さん、良い人だし……」
咲菜は星子を向くと、手を握った。
「ごめんなさい。あたし、無防備だったわ」
「え?」
「どうしよう……」
咲菜は鷲羽さんと仲が良い。一緒にいる。彼女の反応に、星子もまた戸惑った。
「笹森くんとか七尾くんも、鷲羽さんと仲良いし、きっと嬉しいと思うよ……?」
「でも……」
5人では奇数だ。肝試し大会は2人で1組組むと言っていた。奇数では1人、組めなくなる。
「大丈夫だよ。どうやってペア決めるか分からないけれど……咲菜ちゃんが1人になったら代わるよ。わたしマイペースだからさ!」
だが咲菜の顔色は晴れない。
「そうじゃなくて……星子ちゃんが、嫌かと思って……」
「どうして? 鷲羽さん、優しいよ。友達想いだし。ありがとうね、咲菜ちゃん」
昼休みに七尾に話しかけると、彼からも星子に話があるようだった。
星子はあまり人目につきたくなかった。誰がどこで見ているか分からない。七尾から離れるように歩き、恰(あたか)も偶然、行く方向が同じであるクラスメイトを装った。"美人な3年生"が七尾を狙っているのだ。
天文台室に続く階段下が人気(ひとけ)もなく、濃い影を落とし、比較的涼しかった。
「で、話って?」
「七尾くんのほうの話が先で大丈夫だよ」
「いいから言えよ、星子の話。そっちが先だ」
七尾は階段に腰を下ろす。膝に乗った腕から、ミサンガが揺れている。星子が贈ったものだ。彼は優しく面倒見がいいが、女心というものには疎いのかもしれない。もし"美人な3年生"と交際することになったら、それは外さなければならない。外すのだろうか。
「何」
七尾はミサンガを隠した。
「ああ、ううん。2人でお出掛けするって話、あったじゃない?」
「お出掛けじゃねーよ。デートな。叔父さん、なんて?」
彼は逐一言わずとも、星子が叔父に相談することを理解していた。
「良いって、言っていたけれど……」
「"けれど"? "けれど"、なんだ?」
「わたしと2人きりじゃ、つまらないんじゃないかと思って……その、他の子とか誘う?」
「………お前、デートに他の奴連れて行く気かよ。結婚式に、友達も一緒にドレス着ろって? 誓いのキスは3、4人でして、新婚旅行も友達とってか」
「け、け、け、結婚? なんで?」
星子はデートというものを知らないが、周りの女子から話を聞くことはある。雑誌にも体験談が載っている。しかしデートに行くことは、結婚を確約することではないはずだ。しかし最近読んだ少女漫画は初めてのデート相手と結婚式を挙げて終わっていた。
「例え話な」
「あ、例え話……か。びっくりした」
「つまるかつまらないかは行ってみてから決めようぜ。ちょっと外れたデートでも、お前と一緒ならそれも悪くないかな……なんて思ってるけど。ま、ただなるべく、退屈はさせないようにする。お前の時間、貰っちまうんだからな」
「あ、あ、あ、そんな……」
星子は家にいたところで、食べて寝て、時間になれば家事をやる暮らしぶりだ。アルバイトも塾も習い事もなく、友人と遊ぶこともない。むしろ忙しいのは七尾のほうだ。
「時間をもらうのは、わたしのほう……だよ」
七尾は人気者なのだ。鷲羽さんもそう言っていた。周りからの需要が違う。
「人生ごとくれてもいいけどな」
「な、なんで……っ?」
「なんでって……そりゃ………、………野暮なこと訊くなよ」
「あ、ご、ごめん……"言葉の綾"か」
それか"例え話"だ。
「くだらねーこと考えるなよ。俺がいる、お前がいる。それで十分だろうがよ。それともなんだ、不満か?」
「ま、まさか!」
「それなら良かった。俺は楽しみで、お前は不満じゃない。この話は終わりだ。それで、今度は俺の話」
「う、うん……!」
星子は固唾を呑んだ。咲菜が好きだと打ち明けられたなら、星子はどう反応するべきか分からなかった。咲菜には他に好きな人がいる。七尾よ、諦めろと言えるだろうか。言ってしまっていいものか。
「肝試し大会、鷲羽も行くんだって?」
だが前のめりになった星子は、爪楊枝を刺したビーチボールよろしく萎んでいく。
「ああ……うん。咲菜ちゃんと話してるところを聞いてたみたいで、一緒に行きたいって……」
「奇数になっちまうな。誰か男子誘うか?」
「わたしが1人で回るよ。咲菜ちゃんも鷲羽さんも、七尾くんとか笹森くんとかと回りたいだろうし」
七尾は星子を見上げた。星子も、七尾を見下ろす。
「お前が五百鈴と組んで、琴峯(ことみね)さんと鷲羽が組めば?」
「えっ、えっ、咲菜ちゃんは笹森くんと組みたいんじゃないかな、あ! えっ! えっと……!」
星子はまた曝露してしまった。気の抜けた三白眼を睨んでしまう。
「は? なんで? 琴峯さんって、五百鈴のこと好きなのか?」
気の抜けた顔のまま喋る七尾はパペットを彷彿とさせる。
「あ、や! ほら……いや、そうなのかなーって。美男美女でお似合いだし! あ、七尾くんもかっこいいんだけどさ、咲菜ちゃんと笹森くんは少女漫画で……」
「ほ~ん。じゃあ星子が鷲羽と組めばいいか。仲良いっけ?」
「た、多分……」
鷲羽さんとは仲が良いはずだ。笹森のように無視はされていない。忠告もしてくれた。
「なんだそりゃ。やっぱ男子誘うか~」
「あ、き、奇数がダメなら、わたし今回は見送ろうかな~?なんて」
笹森もそれを願っているはずだ。
「なんで?」
しかし七尾に、笹森との仲が悪くなったとは言えなかった。七尾は面倒見が良い。気を揉むに違いない。
「その……なんていうか、一軍男子と一軍女子の間に混ざるのも、なんか変だし……?」
「なんだ、一軍って」
「だから……クラスの目立つ人たちっていうかさ……」
「俺、別に目立ってねーけど。フツーに陰キャだし。そんな騒いでたことあったか?」
「だから、そうじゃなくて…………」
「よく分からん。後から入ってきたのは鷲羽。お前が遠慮することはない。いいな」
「う、うん……」
七尾とのことが解決すると、星子の足取りは軽かった。
咲菜を誘う必要はないようだ。2人きりで出掛けるのだ。確かに、好きな人と共にいると、気を張るだろう。指先から言葉の端々から前髪の先まで、気を配らなければならない。
七尾は平生(へいぜい)から隙がない。そこに好きな人がいては疲れてしまうだろう。
日がな一日、"かっこいい七尾 文貴(ふみき)"でいられないことを、聡い彼は理解していたのだ。星子は疎い自分が厭になった。咲菜の持ち得る女心さえ、七尾のほうが詳しい可能性すらある。彼には姉と妹がいる。
放課後ということもあり、彼女は浮足立っていた。
咲菜はテスト返しが終わっても、テストの復習のために家庭教師を呼んでいるそうだ。都会の私立難関大学を目指していると語っていた。
咲菜がいなければ鷲羽さんもいない。星子は下駄箱に向かっていた。部活で急いでいた男子の掃除を代わり、遅くなってしまったが、星子に予定はなかった。
鼻歌でも唄いそうになりながら、家のクローゼットにしまった服のことを考えていた。七尾と出掛けるときは向日葵柄のワンピースにしようか。叔父に買ってもらったものだ。たまには着せたところを見せないのも悪い。肝試し大会にはパープルの半袖シャツにベルボトムジーンズだろうか。
上足サンダルを脱ぎ、下駄箱から革靴を取る。そして入れ替える。
"たなばた祭り"で下駄を履き、擦り傷を負って迷惑をかけたことは記憶に新しい。肝試し大会は履き慣れた靴がいいだろう。七尾と出掛けるときは、何を履くべきか……
「あのさぁ」
真後ろから声をかけられ、顔の真横に手が伸びた。振り向く。笹森が陰険な面構えで佇立(ちょりつ)している。目が合おうが、挨拶をしようが、話しかけようが散々無視していたアーモンド色の双眸に射抜かれている。今にもその眼差しで星子の眼玉を刳(く)り貫(ぬ)きそうだった。
「あ、あ、あ………」
星子は目を逸らした。散々、無視していたのだ。笹森は無反応を求めているはずだ。けれども対峙している。話しかけられている。
中学時代から、星子は人を無視するということが苦手だった。共に特定の女子を虐めようと提案されたときも、無視を貫くことができなかった。
「あ……」
「ムカつく」
教室では見たことのない鼻梁の皺が、快方に向かいつつも色濃い隈と相俟って、迫力を助長する。
「ご、ごめ……ん、なさい………」
「リップクリーム返してきてさ、何? オレの気、惹きたいの? 惹きたいんだろ? 認めろよ」
「え゛」
「鷲羽ちゃん使ってまでオレと接点持ちたかったワケ?」
「そ、そんなつもりじゃなくて……」
「お釣りだって返してきてさ、オレのことナメてんの? ナメてるでしょ。可哀想な病人だから募金のつもりで恵んであげますって感じ? オレ、病人じゃないからね」
金は借りたら返さなければならない。借りないことが望ましいが、そうもいかないことがある。星子は返金されると思っていなかった。だが渡されたのなら受け取るほかない。ならば差額は返すべきだ。そこに笹森を貶める意図はなかった。しかし彼には友人が多い。友人間で買った奢った奢られたという文化があったのかもしれない。
星子は知らなかった。
「アクリスとかのお金は、元々750円くらいで……」
「じゃあ足りてんじゃん。なんで返してくんの? オレとの繋がり切れんの嫌だった?」
「いや、あの……その………えーっと……こういうのは、ちゃんとしておかないと……」
異文化を持ち込んでしまったようだ。しかし、金の貸し借りは細心の注意を払えと叔父からは躾けられた。
「手間賃諸々込みって分かんない? 250円じゃ少な過ぎるか……」
笹森は目を眇めた。捩じ切られた金属片じみた輝きが眼を駆け抜けていく。
「別に、そんなの……いいよ………要らないよ………」
スポーツドリンクは絶対に必要なものではなかった。飲料ゼリーがなくても生き伸びることはできたはずだ。彼は自宅にいたし、水分は摂っていた。すぐさま命に関わる有様ではなかった。
「なんで怒らないの? 怒れよ。オレから頼んで、オレから鍵掛けたんだぞ。なんで怒らない?」
笹森の手が、画鋲と化して星子の肩を下駄箱に刺す。
「だって、具合、悪そうだったし……」
肩が下駄箱にぶつけられる。大した痛みはなかったが、彼の暴力に星子は身を竦めた。
「オレに好かれたいからなんだろ?」
「ち、違うよ!」
咲菜に悪い。忠告をくれた鷲羽さんにも悪い。
「嘘吐くな。オレに媚びたいんだろ? オレのこと、好きだから怒れないんだよな?」
「だから違うって! 好きじゃないよ!」
笹森の顔面に皺が集まっていく。
「……ムカつく」
星子は目を見開いた。笹森を傷付けた。語弊のある言い方をした。好きとは必ずしも恋愛感情のことを云うのではない。
「あ、だから、その、クラスメイトとしては好き、だよ……? たなばた祭りのときも、優しくしてくれて……」
下駄で足を擦ったとき、絆創膏をくれた。ひとりで待機しているときに、彼は短冊を持ってきてくれた。笹森は意地の悪い人間ではない。
「なんだよ、それ……! オレの心掻き乱さないで! オレの心に入ってくるなよ!」
「え……」
笹森の叫びは玄関ホールに谺する。だが星子に分かるのは彼が吠え、そして彼に対して何か不義理をしてしまったということだった。彼女の頭の中では、黒色のボールペンが白紙の上を暴走していた。
「オレに好かれたいならそう言えよ! 嘘吐くなよ。オレのこと好きなんだろ? なぁ!」
右肩左肩を下駄箱にぶつけられる。
「うっ……う………」
星子は眼交いの台風に吹かれ荒(すさ)び、濡れ濡(そぼ)つ。
「オレのこと、好きって言え!」
背中が下駄箱に当たる。下駄箱が倒れかねなかった。
その咆哮は、星子の全身に画鋲を打ち、蜂の巣を凌ぐほど穴だらけにした。
「あ………う、………す、す、好き………だよ……」
クラスメイトとして好いているのは嘘ではなかった。咲菜が好いた人なのだ。悪人ではない。醜悪な精神の持ち主でもないはずなのだ。
求めに応じたというのに、笹森の顔中の皺は却って深くなり、或いは増えていく。
笹森の拳に力が籠もる。星子の肌に減り込んでいた指が骨を掴む。
「う、う………痛い……」
笹森の唇が開く。前に叔父の借りてきたアニマルパニックホラー"オルカネード"の派生作品"デス・クロコダイル"のワニの口のようだった。
風が吹いている。閉まっている玄関扉が出来損ないのリコーダーや粗末なフルートになって、隙間風を鳴らし、吹奏楽部の音出しに挑んでいる。
…
……
………
…………
星子は笹森のシャツにしがみついた。彼はまだ長袖を着ている。快方には向かっていても、彼はまだ痩せ細っていた。筋肉が脂肪に戻るどころか、筋肉から栄養を搾り取って、かろうじて健康状態と虚勢を張っているのだった。そういう体躯に、星子は縋りつき、立位を保っていた。
互いの息遣いが殴り合う。
星子の背骨を滑り降り、腰の辺りで落ち着いた掌が離れた。
「………甘」
笹森は舌舐めずりをして、外方(そっぽ)を向いた。
星子は痺れた唇を閉じることができず、口を半開きにしたまま、下駄箱の前で屈み込む。
「……」
「……」
「……」
「…………喜びなよ」
笹森は玄関ホールを去っていった。
星子は膝を抱えた。唇が風船になってしまったようだ。膨らみ、浮いて、どこかへ飛んでいってしまいそうだ。
彼女はしばらく呆然としていたが、そのうちに忽如(こつじょ)として立ち上がると、水場に走った。蛇口の把手を捻り、水を口に含むと吐き出した。3度、4度、繰り返す。
「う………ぅぅ………」
唇の腫れはまだ引かないようだった。手鏡を見たが、腫れてはいなかった。だが腫れているのだ。唇を洗う。冷えていく。拭き取ると萎んだ。そして皮下から左右に引っ張られる感じがあった。叔父の買ってきたセラミド配合のリップクリームを塗る。だが落ち着かない。
帰れなくなってしまった。足が重い。身体中が重力への抵抗をやめた。四方八方から力が加わり、小さくなっていく雨粒のようになってしまいたかった。
蹣跚(まんさん)とした足取りで共有スペースに辿り着き、彼女は茫乎として何も考えなかった。目蓋の開閉と呼吸を繰り返すだけだった。
空が曇っていく。ただでさえ暗い廊下が、さらに暗くなっていく。西側は青みを帯びたディムグレーをしていた。夏の天気はよく変わる。優柔不断だ。向日葵を炙るような旱々照(かんかんで)りかと思えば、繊細げに雲を寄せ集める。
星子は窓に飛び散った一筋の水滴を見詰めた。
向日葵柄のワンピースか、白地に青い水玉模様のワンピースにするか。前者ならばカーディガンを羽織る。後者ならば丸襟と袖がある。だが活発な七尾が選ぶところならば、ワンピースは合わないかも知れない。放課後にそのまま出掛ける可能性もある。
星子は肝試し大会の服装を考えた。パープルの半袖シャツに決めていたが、ピンク色のシースルーのトップスも悪くない。項に大きなリボンがある。
咲菜は可愛らしい服装になるはずだ。おそらくフリルやレースのふんだんにあしらわれたワンピースだろう。人形のような服装が多い。そして咲菜は、その華美な装飾とフェミニンな柄に呑まれないのだ。その姿を見れば笹森も釘付けになるだろう。
笹森……
星子は唇を揉んだ。歯医者で麻酔をしたときに似ていた。麻痺に任せて甚振るうちに、魔法が解けて痛みが戻る。
窓ガラスに次々と雨粒が叩きつけられる。次々と、次々と、拉(ひし)げ、叩きつけられていく。そのうち雨脚が耳鳴りとなる。
端末の振動を鞄越しに感じる。叔父からメッセージが来ていた。
[雨、大丈夫かい? まだ学校なら迎えに行こうか?]
星子は嫌な気持ちになった。叔父からのメッセージを待っていたのかも知れなかった。自分の足で帰りたくないあまり、叔父がこのメッセージを送るよう、仕向けていたのかも知れなかった。笹森に対してもそうだ。彼が怒るよう仕向けたのかも知れない。彼に乱暴されるよう、唆していたのかも知れなかった。
[自力で帰れそうです。ありがとうございます]
すぐに既読のマークがつく。
[今、1人?]
[はい]
[迎えに行くよ。いつもの本屋さんで待っていて]
星子はまた嫌になった。叔父を操ってしまった。笹森に対してもそうだ。
[今、お友達と合流したので自分で帰ります]
星子は嘘を書いた。共有スペースに一人だった。
七尾のために、咲菜を誘うべきか否か。七尾は実のところ咲菜を誘いたかったのではないか否か。七尾に相談すべきか否か。
返されたばかりの数学のテストより難しい。平均点と大差ない。
星子(しょうこ)は溜息を吐いた。
肩に熱いものが乗る。焼石ではなかった。人の肌の質感と、それなりの質量がある。振り返ると、頬に同じような質感が刺さる。指だった。七尾だ。
「ダメだったか?」
「平均点より2点高いよ」
「良くやった」
「へへへ……」
親しいのだ。訊けばいい。だがどう訊けばいいのか分からなかった。
『咲菜ちゃんも、誘う?』
しかし、何故咲菜を誘うのか問われるに違いない。
『七尾くんてさ、咲菜ちゃんのこと好きだよね……?』
だがそれを明言したが最後、咲菜の恋を応援すると知られたとき、七尾は昔馴染みからの裏切りを知ってしまう。
『あのさ……咲菜ちゃんを誘うのは、どう?』
理由を問われても、咲菜とは親友なのだから、不自然はない。だがもし七尾がそれを赦したとして、3人になる。七尾と咲菜で2人きりになるべきだ。或いはもう1人誘うべきなのだ。だが七尾の恋路を知る者が他にいるだろうか。
『星子』
星子は眉を顰めた。
『おーい』
『七尾くんも、笹森くんとか誘ったら……?』
しかし笹森には今朝も無視されてしまった。目が合ったはずだが、まるで存在しないものかのように扱われてしまったのだった。介助の役に立たなかったことについて、侮蔑されてしまったらしい。ゆえに七尾が誘ったところで、諾とは言わないだろう。それならば星子は辞退して、代わりに鷲羽(わしゅう)さんが入れば丸く治まるはずだ。それがいい。それだ。
「星子」
「七尾! テストを取りに来なさい」
欣喜雀躍(きんきじゃくやく)、阿鼻叫喚、悲喜交々(ひきこもごも)、小うるさかった教室が静まり返る。
七尾は星子の肩を叩いて、テストを受け取りにいった。彼は学年最高点だったらしい。星子と30点以上の差があった。
周りの男子たちが七尾を誂(からか)い、女子たちが褒めそやす。
『五百鈴(いおり)も五百鈴でさー、おとなしい女子には優しいし? 多分忙しくても相手しちゃうと思うんだよね。だからさー、その、あんまり、期待とかしないほうが、星子チャンも傷付かなくて済むかなーって、ンハハハ』
鷲羽さんの言っていたことは、何も笹森のことだけではない。七尾もそうなのだ。彼も目立ち、男女問わず人気者で、クラスを代表するような男子だった。彼との接点は、ただ小学校と中学校が同じだったというだけのことで、自ら選んだ関係ではなかった。
鷲羽さんから離れ、咲菜が廊下へ呼び出した。
「星子ちゃん、肝試し大会、何着ていく?」
肝試し大会に4人で行くと話したことがある。笹森に愛想を尽かされるとは、そのときは考えてもいなかった。
「肝試し大会だから、多分歩くよね。Tシャツとかでいいんじゃないかな」
「そうよね、そうよね?」
しかし笹森も一緒ならば、咲菜は普段遊びに行くような、可愛らしいワンピースやスカートを着たいはずだ。
「ちゃんと虫除け対策とかしてあれば、ハーフパンツとかでも大丈夫なんじゃないかな?」
「星子ちゃんに後で写真送ってもいい? 変じゃないか、見てほしくって……」
好きな人との肝試し大会なのだ。気合いを入れておかしいということはない。
「うん。もちろんだよ。咲菜ちゃんだから多分何着ても似合うとは思うけれど……」
「もう、星子ちゃんたら!」
だが事実だ。彼女の選ぶ服はどれも彼女によく似合う。白地に赤い花柄のフリルが特徴的なワンピースや、ピンク色のチェック模様に真っ赤なサテンのリボンが裾を飾るスカートなど、彼女らしい。
「笹森くんと七尾くん、憶えてるかな、肝試し大会のこと……」
咲菜が訊ねた。
「咲菜ちゃんが一緒なんだもの。憶えてるよ」
そして口にして、七尾の恋を曝露しかけていたことに気付く。
「それは、星子ちゃんだって……」
咲菜は俯きがちになり、左右に揺れる。彼女は可愛らしい。
教室の小窓が開いた。鷲羽さんが顔を出す。
「えー、何なに? 肝試し大会って?」
咲菜が星子を見た。彼女のよく濡れた大きな瞳に戸惑いがある。
「あ、ああ……肝試し大会っていうのがあるらしくて……」
「五百鈴と七尾も行くの?」
「あ、う……うん……」
「じゃあ、アタシも行く。いいよね? 五百鈴に詳細訊いとくわ」
窓が閉まった。そして奥で、笹森を呼ぶ声が聞こえた。
「ど、どうしよう……」
咲菜が呟く。
「鷲羽さん、良い人だし……」
咲菜は星子を向くと、手を握った。
「ごめんなさい。あたし、無防備だったわ」
「え?」
「どうしよう……」
咲菜は鷲羽さんと仲が良い。一緒にいる。彼女の反応に、星子もまた戸惑った。
「笹森くんとか七尾くんも、鷲羽さんと仲良いし、きっと嬉しいと思うよ……?」
「でも……」
5人では奇数だ。肝試し大会は2人で1組組むと言っていた。奇数では1人、組めなくなる。
「大丈夫だよ。どうやってペア決めるか分からないけれど……咲菜ちゃんが1人になったら代わるよ。わたしマイペースだからさ!」
だが咲菜の顔色は晴れない。
「そうじゃなくて……星子ちゃんが、嫌かと思って……」
「どうして? 鷲羽さん、優しいよ。友達想いだし。ありがとうね、咲菜ちゃん」
昼休みに七尾に話しかけると、彼からも星子に話があるようだった。
星子はあまり人目につきたくなかった。誰がどこで見ているか分からない。七尾から離れるように歩き、恰(あたか)も偶然、行く方向が同じであるクラスメイトを装った。"美人な3年生"が七尾を狙っているのだ。
天文台室に続く階段下が人気(ひとけ)もなく、濃い影を落とし、比較的涼しかった。
「で、話って?」
「七尾くんのほうの話が先で大丈夫だよ」
「いいから言えよ、星子の話。そっちが先だ」
七尾は階段に腰を下ろす。膝に乗った腕から、ミサンガが揺れている。星子が贈ったものだ。彼は優しく面倒見がいいが、女心というものには疎いのかもしれない。もし"美人な3年生"と交際することになったら、それは外さなければならない。外すのだろうか。
「何」
七尾はミサンガを隠した。
「ああ、ううん。2人でお出掛けするって話、あったじゃない?」
「お出掛けじゃねーよ。デートな。叔父さん、なんて?」
彼は逐一言わずとも、星子が叔父に相談することを理解していた。
「良いって、言っていたけれど……」
「"けれど"? "けれど"、なんだ?」
「わたしと2人きりじゃ、つまらないんじゃないかと思って……その、他の子とか誘う?」
「………お前、デートに他の奴連れて行く気かよ。結婚式に、友達も一緒にドレス着ろって? 誓いのキスは3、4人でして、新婚旅行も友達とってか」
「け、け、け、結婚? なんで?」
星子はデートというものを知らないが、周りの女子から話を聞くことはある。雑誌にも体験談が載っている。しかしデートに行くことは、結婚を確約することではないはずだ。しかし最近読んだ少女漫画は初めてのデート相手と結婚式を挙げて終わっていた。
「例え話な」
「あ、例え話……か。びっくりした」
「つまるかつまらないかは行ってみてから決めようぜ。ちょっと外れたデートでも、お前と一緒ならそれも悪くないかな……なんて思ってるけど。ま、ただなるべく、退屈はさせないようにする。お前の時間、貰っちまうんだからな」
「あ、あ、あ、そんな……」
星子は家にいたところで、食べて寝て、時間になれば家事をやる暮らしぶりだ。アルバイトも塾も習い事もなく、友人と遊ぶこともない。むしろ忙しいのは七尾のほうだ。
「時間をもらうのは、わたしのほう……だよ」
七尾は人気者なのだ。鷲羽さんもそう言っていた。周りからの需要が違う。
「人生ごとくれてもいいけどな」
「な、なんで……っ?」
「なんでって……そりゃ………、………野暮なこと訊くなよ」
「あ、ご、ごめん……"言葉の綾"か」
それか"例え話"だ。
「くだらねーこと考えるなよ。俺がいる、お前がいる。それで十分だろうがよ。それともなんだ、不満か?」
「ま、まさか!」
「それなら良かった。俺は楽しみで、お前は不満じゃない。この話は終わりだ。それで、今度は俺の話」
「う、うん……!」
星子は固唾を呑んだ。咲菜が好きだと打ち明けられたなら、星子はどう反応するべきか分からなかった。咲菜には他に好きな人がいる。七尾よ、諦めろと言えるだろうか。言ってしまっていいものか。
「肝試し大会、鷲羽も行くんだって?」
だが前のめりになった星子は、爪楊枝を刺したビーチボールよろしく萎んでいく。
「ああ……うん。咲菜ちゃんと話してるところを聞いてたみたいで、一緒に行きたいって……」
「奇数になっちまうな。誰か男子誘うか?」
「わたしが1人で回るよ。咲菜ちゃんも鷲羽さんも、七尾くんとか笹森くんとかと回りたいだろうし」
七尾は星子を見上げた。星子も、七尾を見下ろす。
「お前が五百鈴と組んで、琴峯(ことみね)さんと鷲羽が組めば?」
「えっ、えっ、咲菜ちゃんは笹森くんと組みたいんじゃないかな、あ! えっ! えっと……!」
星子はまた曝露してしまった。気の抜けた三白眼を睨んでしまう。
「は? なんで? 琴峯さんって、五百鈴のこと好きなのか?」
気の抜けた顔のまま喋る七尾はパペットを彷彿とさせる。
「あ、や! ほら……いや、そうなのかなーって。美男美女でお似合いだし! あ、七尾くんもかっこいいんだけどさ、咲菜ちゃんと笹森くんは少女漫画で……」
「ほ~ん。じゃあ星子が鷲羽と組めばいいか。仲良いっけ?」
「た、多分……」
鷲羽さんとは仲が良いはずだ。笹森のように無視はされていない。忠告もしてくれた。
「なんだそりゃ。やっぱ男子誘うか~」
「あ、き、奇数がダメなら、わたし今回は見送ろうかな~?なんて」
笹森もそれを願っているはずだ。
「なんで?」
しかし七尾に、笹森との仲が悪くなったとは言えなかった。七尾は面倒見が良い。気を揉むに違いない。
「その……なんていうか、一軍男子と一軍女子の間に混ざるのも、なんか変だし……?」
「なんだ、一軍って」
「だから……クラスの目立つ人たちっていうかさ……」
「俺、別に目立ってねーけど。フツーに陰キャだし。そんな騒いでたことあったか?」
「だから、そうじゃなくて…………」
「よく分からん。後から入ってきたのは鷲羽。お前が遠慮することはない。いいな」
「う、うん……」
七尾とのことが解決すると、星子の足取りは軽かった。
咲菜を誘う必要はないようだ。2人きりで出掛けるのだ。確かに、好きな人と共にいると、気を張るだろう。指先から言葉の端々から前髪の先まで、気を配らなければならない。
七尾は平生(へいぜい)から隙がない。そこに好きな人がいては疲れてしまうだろう。
日がな一日、"かっこいい七尾 文貴(ふみき)"でいられないことを、聡い彼は理解していたのだ。星子は疎い自分が厭になった。咲菜の持ち得る女心さえ、七尾のほうが詳しい可能性すらある。彼には姉と妹がいる。
放課後ということもあり、彼女は浮足立っていた。
咲菜はテスト返しが終わっても、テストの復習のために家庭教師を呼んでいるそうだ。都会の私立難関大学を目指していると語っていた。
咲菜がいなければ鷲羽さんもいない。星子は下駄箱に向かっていた。部活で急いでいた男子の掃除を代わり、遅くなってしまったが、星子に予定はなかった。
鼻歌でも唄いそうになりながら、家のクローゼットにしまった服のことを考えていた。七尾と出掛けるときは向日葵柄のワンピースにしようか。叔父に買ってもらったものだ。たまには着せたところを見せないのも悪い。肝試し大会にはパープルの半袖シャツにベルボトムジーンズだろうか。
上足サンダルを脱ぎ、下駄箱から革靴を取る。そして入れ替える。
"たなばた祭り"で下駄を履き、擦り傷を負って迷惑をかけたことは記憶に新しい。肝試し大会は履き慣れた靴がいいだろう。七尾と出掛けるときは、何を履くべきか……
「あのさぁ」
真後ろから声をかけられ、顔の真横に手が伸びた。振り向く。笹森が陰険な面構えで佇立(ちょりつ)している。目が合おうが、挨拶をしようが、話しかけようが散々無視していたアーモンド色の双眸に射抜かれている。今にもその眼差しで星子の眼玉を刳(く)り貫(ぬ)きそうだった。
「あ、あ、あ………」
星子は目を逸らした。散々、無視していたのだ。笹森は無反応を求めているはずだ。けれども対峙している。話しかけられている。
中学時代から、星子は人を無視するということが苦手だった。共に特定の女子を虐めようと提案されたときも、無視を貫くことができなかった。
「あ……」
「ムカつく」
教室では見たことのない鼻梁の皺が、快方に向かいつつも色濃い隈と相俟って、迫力を助長する。
「ご、ごめ……ん、なさい………」
「リップクリーム返してきてさ、何? オレの気、惹きたいの? 惹きたいんだろ? 認めろよ」
「え゛」
「鷲羽ちゃん使ってまでオレと接点持ちたかったワケ?」
「そ、そんなつもりじゃなくて……」
「お釣りだって返してきてさ、オレのことナメてんの? ナメてるでしょ。可哀想な病人だから募金のつもりで恵んであげますって感じ? オレ、病人じゃないからね」
金は借りたら返さなければならない。借りないことが望ましいが、そうもいかないことがある。星子は返金されると思っていなかった。だが渡されたのなら受け取るほかない。ならば差額は返すべきだ。そこに笹森を貶める意図はなかった。しかし彼には友人が多い。友人間で買った奢った奢られたという文化があったのかもしれない。
星子は知らなかった。
「アクリスとかのお金は、元々750円くらいで……」
「じゃあ足りてんじゃん。なんで返してくんの? オレとの繋がり切れんの嫌だった?」
「いや、あの……その………えーっと……こういうのは、ちゃんとしておかないと……」
異文化を持ち込んでしまったようだ。しかし、金の貸し借りは細心の注意を払えと叔父からは躾けられた。
「手間賃諸々込みって分かんない? 250円じゃ少な過ぎるか……」
笹森は目を眇めた。捩じ切られた金属片じみた輝きが眼を駆け抜けていく。
「別に、そんなの……いいよ………要らないよ………」
スポーツドリンクは絶対に必要なものではなかった。飲料ゼリーがなくても生き伸びることはできたはずだ。彼は自宅にいたし、水分は摂っていた。すぐさま命に関わる有様ではなかった。
「なんで怒らないの? 怒れよ。オレから頼んで、オレから鍵掛けたんだぞ。なんで怒らない?」
笹森の手が、画鋲と化して星子の肩を下駄箱に刺す。
「だって、具合、悪そうだったし……」
肩が下駄箱にぶつけられる。大した痛みはなかったが、彼の暴力に星子は身を竦めた。
「オレに好かれたいからなんだろ?」
「ち、違うよ!」
咲菜に悪い。忠告をくれた鷲羽さんにも悪い。
「嘘吐くな。オレに媚びたいんだろ? オレのこと、好きだから怒れないんだよな?」
「だから違うって! 好きじゃないよ!」
笹森の顔面に皺が集まっていく。
「……ムカつく」
星子は目を見開いた。笹森を傷付けた。語弊のある言い方をした。好きとは必ずしも恋愛感情のことを云うのではない。
「あ、だから、その、クラスメイトとしては好き、だよ……? たなばた祭りのときも、優しくしてくれて……」
下駄で足を擦ったとき、絆創膏をくれた。ひとりで待機しているときに、彼は短冊を持ってきてくれた。笹森は意地の悪い人間ではない。
「なんだよ、それ……! オレの心掻き乱さないで! オレの心に入ってくるなよ!」
「え……」
笹森の叫びは玄関ホールに谺する。だが星子に分かるのは彼が吠え、そして彼に対して何か不義理をしてしまったということだった。彼女の頭の中では、黒色のボールペンが白紙の上を暴走していた。
「オレに好かれたいならそう言えよ! 嘘吐くなよ。オレのこと好きなんだろ? なぁ!」
右肩左肩を下駄箱にぶつけられる。
「うっ……う………」
星子は眼交いの台風に吹かれ荒(すさ)び、濡れ濡(そぼ)つ。
「オレのこと、好きって言え!」
背中が下駄箱に当たる。下駄箱が倒れかねなかった。
その咆哮は、星子の全身に画鋲を打ち、蜂の巣を凌ぐほど穴だらけにした。
「あ………う、………す、す、好き………だよ……」
クラスメイトとして好いているのは嘘ではなかった。咲菜が好いた人なのだ。悪人ではない。醜悪な精神の持ち主でもないはずなのだ。
求めに応じたというのに、笹森の顔中の皺は却って深くなり、或いは増えていく。
笹森の拳に力が籠もる。星子の肌に減り込んでいた指が骨を掴む。
「う、う………痛い……」
笹森の唇が開く。前に叔父の借りてきたアニマルパニックホラー"オルカネード"の派生作品"デス・クロコダイル"のワニの口のようだった。
風が吹いている。閉まっている玄関扉が出来損ないのリコーダーや粗末なフルートになって、隙間風を鳴らし、吹奏楽部の音出しに挑んでいる。
…
……
………
…………
星子は笹森のシャツにしがみついた。彼はまだ長袖を着ている。快方には向かっていても、彼はまだ痩せ細っていた。筋肉が脂肪に戻るどころか、筋肉から栄養を搾り取って、かろうじて健康状態と虚勢を張っているのだった。そういう体躯に、星子は縋りつき、立位を保っていた。
互いの息遣いが殴り合う。
星子の背骨を滑り降り、腰の辺りで落ち着いた掌が離れた。
「………甘」
笹森は舌舐めずりをして、外方(そっぽ)を向いた。
星子は痺れた唇を閉じることができず、口を半開きにしたまま、下駄箱の前で屈み込む。
「……」
「……」
「……」
「…………喜びなよ」
笹森は玄関ホールを去っていった。
星子は膝を抱えた。唇が風船になってしまったようだ。膨らみ、浮いて、どこかへ飛んでいってしまいそうだ。
彼女はしばらく呆然としていたが、そのうちに忽如(こつじょ)として立ち上がると、水場に走った。蛇口の把手を捻り、水を口に含むと吐き出した。3度、4度、繰り返す。
「う………ぅぅ………」
唇の腫れはまだ引かないようだった。手鏡を見たが、腫れてはいなかった。だが腫れているのだ。唇を洗う。冷えていく。拭き取ると萎んだ。そして皮下から左右に引っ張られる感じがあった。叔父の買ってきたセラミド配合のリップクリームを塗る。だが落ち着かない。
帰れなくなってしまった。足が重い。身体中が重力への抵抗をやめた。四方八方から力が加わり、小さくなっていく雨粒のようになってしまいたかった。
蹣跚(まんさん)とした足取りで共有スペースに辿り着き、彼女は茫乎として何も考えなかった。目蓋の開閉と呼吸を繰り返すだけだった。
空が曇っていく。ただでさえ暗い廊下が、さらに暗くなっていく。西側は青みを帯びたディムグレーをしていた。夏の天気はよく変わる。優柔不断だ。向日葵を炙るような旱々照(かんかんで)りかと思えば、繊細げに雲を寄せ集める。
星子は窓に飛び散った一筋の水滴を見詰めた。
向日葵柄のワンピースか、白地に青い水玉模様のワンピースにするか。前者ならばカーディガンを羽織る。後者ならば丸襟と袖がある。だが活発な七尾が選ぶところならば、ワンピースは合わないかも知れない。放課後にそのまま出掛ける可能性もある。
星子は肝試し大会の服装を考えた。パープルの半袖シャツに決めていたが、ピンク色のシースルーのトップスも悪くない。項に大きなリボンがある。
咲菜は可愛らしい服装になるはずだ。おそらくフリルやレースのふんだんにあしらわれたワンピースだろう。人形のような服装が多い。そして咲菜は、その華美な装飾とフェミニンな柄に呑まれないのだ。その姿を見れば笹森も釘付けになるだろう。
笹森……
星子は唇を揉んだ。歯医者で麻酔をしたときに似ていた。麻痺に任せて甚振るうちに、魔法が解けて痛みが戻る。
窓ガラスに次々と雨粒が叩きつけられる。次々と、次々と、拉(ひし)げ、叩きつけられていく。そのうち雨脚が耳鳴りとなる。
端末の振動を鞄越しに感じる。叔父からメッセージが来ていた。
[雨、大丈夫かい? まだ学校なら迎えに行こうか?]
星子は嫌な気持ちになった。叔父からのメッセージを待っていたのかも知れなかった。自分の足で帰りたくないあまり、叔父がこのメッセージを送るよう、仕向けていたのかも知れなかった。笹森に対してもそうだ。彼が怒るよう仕向けたのかも知れない。彼に乱暴されるよう、唆していたのかも知れなかった。
[自力で帰れそうです。ありがとうございます]
すぐに既読のマークがつく。
[今、1人?]
[はい]
[迎えに行くよ。いつもの本屋さんで待っていて]
星子はまた嫌になった。叔父を操ってしまった。笹森に対してもそうだ。
[今、お友達と合流したので自分で帰ります]
星子は嘘を書いた。共有スペースに一人だった。



