早瀬ホールディングスは戦後まもなく貿易会社として創業し、現在は製造とエネルギー、金融、通信、不動産やメディアなどの分野に事業を展開している大企業だ。
そのグループ企業として名を連ねる早瀬インベストメント・ストラテジーは戦略投資会社として十年前に設立された会社で、渋谷区の神宮前にオフィスを構えている。
母親の見舞いに行くという千花を病院まで送り届けたあと、秘書の運転で会社に戻った奏は、社員から次々と声をかけられた。
「社長、お疲れさまです」
「これから投資戦略室のミーティングがありますが、出席されますか?」
「出席します。先に始めていてください」
一度自分のオフィスに入り、パソコンを立ち上げてメールのチェックをする。
そうしながらも、先ほどの千花とのやり取りを思い出して微笑んだ。
(千花さんが、俺の提案をのんでくれてよかった。金銭的なことを条件にするのはある意味賭けだったけど、乗ってきたということはやはり相当困っていたんだな)
大学時代に交際していた千花は奏より二歳年上で、とてもきれいな女性だ。
背は成人女性の平均より高い一六七センチだといい、すらりとした体形をしている。顔立ちは整っていて、睫毛の長い大きな目や透明感のある肌、桜色の唇を適度にトレンドを取り入れたメイクが引き立て、背すじが伸びた姿勢やサラサラで艶のある髪、颯爽とした雰囲気で自然と衆目を集める存在だった。
交際のきっかけは友人の紹介だったが、千花は考え方がはっきりしていて相手に媚びた態度を取らず、自立心に溢れていた。聞けば母子家庭で母親に苦労をかけた分、独り立ちすることこそが親孝行だと考えているようで、それまでそういう女性に会ったことがなかった奏の目には新鮮に映った。
大学に休まず通いながらアパートで独り暮らしをし、生活費を自分で賄うというのは、資産家の家に生まれ育った奏にとって理解できない部分だった。わざわざ苦労をしなくても、親元から通えば家賃がかからない上、アルバイトも小遣いを稼ぐ程度で済む。
それなのに実家から離れ、時間に追われる生活をしているのは無駄な苦労に思えてならなかったものの、自分で決めたことのために努力ができる千花がひどく眩しく見えた。
その理由は、奏が昔から富裕層の人間に囲まれており、友人もおのずと同じようなレベルが多かったため、彼女のような境遇の人間に会ったことがなかったからだ。
大学ではトラブルを避けるために実家が裕福であることを伏せ、ごく普通の大学生として振る舞っていた奏は、千花が住んでいるアパートの古さや狭さはもちろん、奨学金を借りなければ大学に進学することもままならない人がいるという事実に驚きをおぼえた。
彼女を見下すつもりはまったくなく、半年間交際するうちに千花の溌剌とした性格や苦労を表に出さない明るい笑顔、何事にも真剣に取り組む真面目な姿勢に強く心惹かれた奏は、「自分が支えになりたい」という気持ちが高じて言ってはいけないことを言ってしまった。
(あのときは、千花さんが俺の申し出にあそこまで反発するとは思わなかった。てっきり感謝してくれると思っていたのに、まさか別れる事態にまで発展するなんて)
家賃や生活費、奨学金を肩代わりすることを申し出たのは、過密なスケジュールで体調を崩した千花を見て歯痒さをおぼえたからだ。
奏にとっては苦も無く用意できる金額で、それで彼女の生活が楽になるならと考えて口にした言葉だった。しかしその発言は千花のプライドを深く傷つけてしまったらしく、彼女は卒論で忙しいのを理由に奏と距離を置いたあと、別れを切り出してきた。
しかも「卒業後はフランスに渡り、向こうで数年間暮らすつもりだ」と予想外のことを告げてきて、それを聞いた奏は愕然とした。
(千花さんがいつかフランスに移住したいという夢を抱いていたのは知っていたけど、実現するのは数年先の話だと思ってた。俺が知らないうちに、卒業後の身の振り方を決めていたなんて)
千花と別れることなどまったく想定していなかった奏は必死に食い下がったものの、彼女の決意は固く、やむなく別れを受け入れた。
しかしどうしても諦めきれず、SNSで千花の動向を見守りながら、いつか日本に戻ってくるときをじっと待ち続けた。
(千花さんは別れることになったきっかけは金銭的な感覚の違いだったけど、俺が援助の話を出すまで関係は上手くいっていた。つまり金に対する価値観が違うだけで、そのギャップは努力で埋められる)
復縁を申し出たときの彼女の反応は芳しくなかったが、母親の治療費で悩んでいるようで、それを知った奏は千花にフランス語の通訳の仕事を持ちかけた。
本業であるライター業を優先しつつ、商談の際にフランス語の通訳をしてもらい、その労働に対価を支払う。金の力で囲い込むのは彼女がもっとも嫌うやり方であり、一か八かの賭けだったが、本当に困窮しているならきっと受けるはずだという勝算があった。
「婚約者のふりをしてくれれば、その倍の報酬を出す」と告げたのは、咄嗟の思いつきだ。復縁に乗り気ではない様子の千花だったが、奏は彼女を逃がすつもりはない。
(一緒にいる時間を増やせば、千花さんはきっとまた俺に恋愛感情を抱いてくれる。でもやり方を間違えば逃げられてしまいそうだから、慎重に事を進めないと)
本来金の力で囲い込むことをよしとしないはずの彼女は、自らのプライドを抑えて奏の婚約者兼通訳になることを了承してくれた。
雇用契約書を交わすために明日ここに来社する予定で、奏は思わず微笑む。そして急ぎのメールに返信し、投資戦略室のミーティングに参加した。議題はスタートアップ投資比率に関してで、現在アメリカに三十五パーセントであるところをアジア圏に四十パーセントへシフトする案が出され、議論を興味深く聞く。
夕方にはシンガポール系の投資ファンドの人間が来社し、協業に関する打ち合わせを行ったあと、夜は麻布で財界の人間と会食して午後十時に帰宅した。
翌朝は六時に起きてマンション内にあるジムで一時間ほど運動し、シャワーを浴びてコーヒーを飲みながら、海外のスタートアップ企業の動向や為替や金利などをチェックする。
出社するのは、いつも午前八時半頃だ。部下から進行中の案件の進捗状況を聞き、今日のスケジュールについて秘書と話をしていると、午前九時の五分前に内線電話が鳴る。
『受付です。佐久田さまがご来社されました』
「応接スペースではなく、僕のオフィスに通してください」
『わかりました』
数分すると部屋の扉がノックされ、受付社員に先導された千花が姿を現す。
室内にいた秘書が一礼して退室していき、ドアが閉まったタイミングで、奏は笑顔で言った。
「おはよう、千花さん。ここまで迷わずに来れた?」
「地図アプリを見たから大丈夫だったけど、こんなに大きな会社だと思わなかったからびっくりした。社員の人たち、すごく若いんだね」
「平均年齢は、三十三歳かな。社員の半分ほどは海外経験者とか外資系金融の出身で、活気があるよ」
今日の彼女はボウタイ付きのオフホワイトのブラウスにセンタープレスのパンツを合わせ、ジャケットを羽織った清潔感のある服装だ。髪は緩くまとめ、控えめなデザインのピアスとネックレスが清楚な美貌を引き立てている。
千花にソファを勧めた奏は、昨日のうちに作成した雇用契約書を提示した。そして内容をひとつずつ説明し、納得した上でサインしてもらうと、微笑んで言った。
「千花さんは俺の私設秘書的な扱いになるから、うちの会社で仕事をする場合はここで作業をしてもらうことになる。ライターの仕事が優先になるから、一週間単位で出勤可能な時間帯を出してもらっていいかな」
「うん。後で確認して、今日中に伝える」
「それから仕事の連絡用として、同じクラウドの共有設定をしたいんだ。あと位置情報通知アプリを入れたいと思ってるんだけど、了承してくれる?」
するとそれを聞いた彼女が眉を上げ、戸惑ったように言った。
「位置情報アプリって、わたしの居場所が奏にわかるようにするってこと? ちょっと嫌なんだけど」
難色を示す千花に対し、奏は説明する。
「俺の家はいわゆる富裕層だから、誘拐や脅迫といった何かしらの犯罪に巻き込まれる可能性がないわけではないんだ。これから千花さんには俺の婚約者のふりをしてもらうことになるけど、そうなれば〝身内〟と見なされても不思議ではない」
「えっ」
「まあ、あくまでも可能性の話で、そういうことは滅多にないから安心してほしい。万が一の事態に備えて入れておきたいだけで、用事がないときは決して居場所を確認しないと約束するよ」
安心させるようにニッコリ笑ったところ、彼女は複雑な表情をしつつも答えた。
「……わかった。そういうことであれば、位置情報アプリを入れることを承諾する」
「ありがとう」
そのグループ企業として名を連ねる早瀬インベストメント・ストラテジーは戦略投資会社として十年前に設立された会社で、渋谷区の神宮前にオフィスを構えている。
母親の見舞いに行くという千花を病院まで送り届けたあと、秘書の運転で会社に戻った奏は、社員から次々と声をかけられた。
「社長、お疲れさまです」
「これから投資戦略室のミーティングがありますが、出席されますか?」
「出席します。先に始めていてください」
一度自分のオフィスに入り、パソコンを立ち上げてメールのチェックをする。
そうしながらも、先ほどの千花とのやり取りを思い出して微笑んだ。
(千花さんが、俺の提案をのんでくれてよかった。金銭的なことを条件にするのはある意味賭けだったけど、乗ってきたということはやはり相当困っていたんだな)
大学時代に交際していた千花は奏より二歳年上で、とてもきれいな女性だ。
背は成人女性の平均より高い一六七センチだといい、すらりとした体形をしている。顔立ちは整っていて、睫毛の長い大きな目や透明感のある肌、桜色の唇を適度にトレンドを取り入れたメイクが引き立て、背すじが伸びた姿勢やサラサラで艶のある髪、颯爽とした雰囲気で自然と衆目を集める存在だった。
交際のきっかけは友人の紹介だったが、千花は考え方がはっきりしていて相手に媚びた態度を取らず、自立心に溢れていた。聞けば母子家庭で母親に苦労をかけた分、独り立ちすることこそが親孝行だと考えているようで、それまでそういう女性に会ったことがなかった奏の目には新鮮に映った。
大学に休まず通いながらアパートで独り暮らしをし、生活費を自分で賄うというのは、資産家の家に生まれ育った奏にとって理解できない部分だった。わざわざ苦労をしなくても、親元から通えば家賃がかからない上、アルバイトも小遣いを稼ぐ程度で済む。
それなのに実家から離れ、時間に追われる生活をしているのは無駄な苦労に思えてならなかったものの、自分で決めたことのために努力ができる千花がひどく眩しく見えた。
その理由は、奏が昔から富裕層の人間に囲まれており、友人もおのずと同じようなレベルが多かったため、彼女のような境遇の人間に会ったことがなかったからだ。
大学ではトラブルを避けるために実家が裕福であることを伏せ、ごく普通の大学生として振る舞っていた奏は、千花が住んでいるアパートの古さや狭さはもちろん、奨学金を借りなければ大学に進学することもままならない人がいるという事実に驚きをおぼえた。
彼女を見下すつもりはまったくなく、半年間交際するうちに千花の溌剌とした性格や苦労を表に出さない明るい笑顔、何事にも真剣に取り組む真面目な姿勢に強く心惹かれた奏は、「自分が支えになりたい」という気持ちが高じて言ってはいけないことを言ってしまった。
(あのときは、千花さんが俺の申し出にあそこまで反発するとは思わなかった。てっきり感謝してくれると思っていたのに、まさか別れる事態にまで発展するなんて)
家賃や生活費、奨学金を肩代わりすることを申し出たのは、過密なスケジュールで体調を崩した千花を見て歯痒さをおぼえたからだ。
奏にとっては苦も無く用意できる金額で、それで彼女の生活が楽になるならと考えて口にした言葉だった。しかしその発言は千花のプライドを深く傷つけてしまったらしく、彼女は卒論で忙しいのを理由に奏と距離を置いたあと、別れを切り出してきた。
しかも「卒業後はフランスに渡り、向こうで数年間暮らすつもりだ」と予想外のことを告げてきて、それを聞いた奏は愕然とした。
(千花さんがいつかフランスに移住したいという夢を抱いていたのは知っていたけど、実現するのは数年先の話だと思ってた。俺が知らないうちに、卒業後の身の振り方を決めていたなんて)
千花と別れることなどまったく想定していなかった奏は必死に食い下がったものの、彼女の決意は固く、やむなく別れを受け入れた。
しかしどうしても諦めきれず、SNSで千花の動向を見守りながら、いつか日本に戻ってくるときをじっと待ち続けた。
(千花さんは別れることになったきっかけは金銭的な感覚の違いだったけど、俺が援助の話を出すまで関係は上手くいっていた。つまり金に対する価値観が違うだけで、そのギャップは努力で埋められる)
復縁を申し出たときの彼女の反応は芳しくなかったが、母親の治療費で悩んでいるようで、それを知った奏は千花にフランス語の通訳の仕事を持ちかけた。
本業であるライター業を優先しつつ、商談の際にフランス語の通訳をしてもらい、その労働に対価を支払う。金の力で囲い込むのは彼女がもっとも嫌うやり方であり、一か八かの賭けだったが、本当に困窮しているならきっと受けるはずだという勝算があった。
「婚約者のふりをしてくれれば、その倍の報酬を出す」と告げたのは、咄嗟の思いつきだ。復縁に乗り気ではない様子の千花だったが、奏は彼女を逃がすつもりはない。
(一緒にいる時間を増やせば、千花さんはきっとまた俺に恋愛感情を抱いてくれる。でもやり方を間違えば逃げられてしまいそうだから、慎重に事を進めないと)
本来金の力で囲い込むことをよしとしないはずの彼女は、自らのプライドを抑えて奏の婚約者兼通訳になることを了承してくれた。
雇用契約書を交わすために明日ここに来社する予定で、奏は思わず微笑む。そして急ぎのメールに返信し、投資戦略室のミーティングに参加した。議題はスタートアップ投資比率に関してで、現在アメリカに三十五パーセントであるところをアジア圏に四十パーセントへシフトする案が出され、議論を興味深く聞く。
夕方にはシンガポール系の投資ファンドの人間が来社し、協業に関する打ち合わせを行ったあと、夜は麻布で財界の人間と会食して午後十時に帰宅した。
翌朝は六時に起きてマンション内にあるジムで一時間ほど運動し、シャワーを浴びてコーヒーを飲みながら、海外のスタートアップ企業の動向や為替や金利などをチェックする。
出社するのは、いつも午前八時半頃だ。部下から進行中の案件の進捗状況を聞き、今日のスケジュールについて秘書と話をしていると、午前九時の五分前に内線電話が鳴る。
『受付です。佐久田さまがご来社されました』
「応接スペースではなく、僕のオフィスに通してください」
『わかりました』
数分すると部屋の扉がノックされ、受付社員に先導された千花が姿を現す。
室内にいた秘書が一礼して退室していき、ドアが閉まったタイミングで、奏は笑顔で言った。
「おはよう、千花さん。ここまで迷わずに来れた?」
「地図アプリを見たから大丈夫だったけど、こんなに大きな会社だと思わなかったからびっくりした。社員の人たち、すごく若いんだね」
「平均年齢は、三十三歳かな。社員の半分ほどは海外経験者とか外資系金融の出身で、活気があるよ」
今日の彼女はボウタイ付きのオフホワイトのブラウスにセンタープレスのパンツを合わせ、ジャケットを羽織った清潔感のある服装だ。髪は緩くまとめ、控えめなデザインのピアスとネックレスが清楚な美貌を引き立てている。
千花にソファを勧めた奏は、昨日のうちに作成した雇用契約書を提示した。そして内容をひとつずつ説明し、納得した上でサインしてもらうと、微笑んで言った。
「千花さんは俺の私設秘書的な扱いになるから、うちの会社で仕事をする場合はここで作業をしてもらうことになる。ライターの仕事が優先になるから、一週間単位で出勤可能な時間帯を出してもらっていいかな」
「うん。後で確認して、今日中に伝える」
「それから仕事の連絡用として、同じクラウドの共有設定をしたいんだ。あと位置情報通知アプリを入れたいと思ってるんだけど、了承してくれる?」
するとそれを聞いた彼女が眉を上げ、戸惑ったように言った。
「位置情報アプリって、わたしの居場所が奏にわかるようにするってこと? ちょっと嫌なんだけど」
難色を示す千花に対し、奏は説明する。
「俺の家はいわゆる富裕層だから、誘拐や脅迫といった何かしらの犯罪に巻き込まれる可能性がないわけではないんだ。これから千花さんには俺の婚約者のふりをしてもらうことになるけど、そうなれば〝身内〟と見なされても不思議ではない」
「えっ」
「まあ、あくまでも可能性の話で、そういうことは滅多にないから安心してほしい。万が一の事態に備えて入れておきたいだけで、用事がないときは決して居場所を確認しないと約束するよ」
安心させるようにニッコリ笑ったところ、彼女は複雑な表情をしつつも答えた。
「……わかった。そういうことであれば、位置情報アプリを入れることを承諾する」
「ありがとう」
