執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす

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暦の上では今日からゴールデンウィークが始まるせいか、街中は何となく華やいだ雰囲気に満ちている。

今日は朝からよく晴れていて、爽やかな陽気だった。笹塚にある実家を出た千花は、地下鉄に乗って六本木に向かう。三十分ほどかけて目的地付近に到着したものの、約束の時間より三十分ほど早かったため、手近なカフェに入った。

そして窓際の席に座り、これからインタビューする予定のデザイナーに関するデータに改めて目を通す。

(〝メゾン・ドレル〟のデザイナーは、オレール・アルヴィエ。現在三十二歳で、パリのファッション学院で服飾と美術史を学び、卒業後に老舗メゾンのアトリエで修業したんだ)

数年後に独立したオレールは小規模なコレクションを発表し、わずか2シーズンで世間の注目を集め、セレブが着用したことで一気に人気に火が点いた気鋭のデザイナーだ。

ジェンダーレスな雰囲気の流動的なシルエットが特徴で、高級素材を使いながらも軽やかで、動くたびに表情が変わるのが印象的だ。

これまで世界に六店舗しか直営店がなかったものの、今回東京への出店が決まったといい、その発表に先駆けてフランスのハイエンド雑誌で特集が組まれることになった。

そこは元々千花が仕事をしていた雑誌で、日本語版の編集部から「先方が佐久田さんをインタビュアーに指名しています」と言われ、ひどく驚いた。

(わざわざわたしを指名してくれるなんて、すごくうれしい。今まで書いた記事を読んでくれたってことだよね)

話がきたのは十日ほど前で、千花はパリコレを始めとするいくつかのショーの映像をチェックし、ブランドについて勉強した。

今日はそのインタビューの当日で、緊張すると共に気持ちが高揚するのを感じる。だが昨夜別れ際に奏に抱きしめられたことがずっと頭の隅にあり、思い出すとじわりと頬が熱くなった。

(あんなふうに抱きしめられたのは久しぶりだけど、奏、昔よりしっかりした身体つきになってた。……本当に大人になったんだ)

突然のことにひどく動揺し、すぐに彼と距離を取ったものの、スーツ越しに感じる硬い身体の感触や仄かな体温、腕の力の強さが鮮烈で、思い出すたびに心が疼く。

奏はこちらへの想いを口にしてきたが、千花の中には後ろ向きな気持ちしかなく、何も応えることができなかった。なのにあれから一晩が経った今も、昨夜の出来事がずっと脳裏から離れずにいる。

(奏のことは、別に嫌いじゃない。むしろ六年前より大人になった部分を目の当たりにするたび、どんどん意識してる)

通訳兼婚約者の期限は明確に決まっていないものの、おそらく千花の母親の手術が終わって無事に退院できるまでだろう。

治療の結果次第になるものの、おそらく数ヵ月はかかるとみられ、そのあいだ奏と密に顔を合わせることになる。

(奏と復縁する気がないんだから、ちゃんと距離を取るべきだよね。〝婚約者のふり〟をするならそれに徹して、気持ちはドライでいなきゃいけない。でも今のままだと、わたしは……)

自分はきっと、奏に絆される。

彼の端整な容姿や穏やかさ、至れり尽くせりの気遣いに心を奪われ、恋愛感情を抱いてしまう。そうなることが目に見えているが、家柄の格差や経済観念の違いなどは依然として解消しておらず、いずれそのギャップに苦しむに違いない。

何度考えても「やはり復縁には応じられない」という結論しか出ず、千花は鬱々とした気持ちを押し殺した。気がつけば思考が同じところをループしているが、自分はこのあと仕事だ。

そう思い、深く息を吐いた千花は、意識して頭を切り替える。そしてデザイナーに質問する項目を整理してカフェを出ると、編集部に指定された場所に徒歩で向かった。

そこは撮影用に貸し出しているレンタルスタジオで、ブロカントな雰囲気の室内にはアンティークの家具と革張りのソファが置かれ、窓から見える緑と柔らかな自然光が白塗りの壁やドライフラワーを際立たせている。

ヘアメイクとスタイリストは早めに現場入りしていて、カメラマンが機材のセッティングをする中、千花は編集部のスタッフと挨拶をした。そして今日の段取りについて確認したあと、定刻になって別室からオレール・アルヴィエが現れる。

「《初めまして。本日インタビュアーを務めさせていただきます、佐久田千花と申します。どうぞよろしくお願いいたします》」
「《こちらこそ、どうぞよろしくお願いします》」

金髪碧眼の彼は背が高く、しっかりした体形で、整った顔立ちをしていた。

服装はシンプルで華美さはないものの、シルバーの指輪をひとつだけ嵌めているところにデザイナーらしい美意識を感じさせる。カメラマンが何枚か写真を撮り、千花は早速フランス語でインタビューを開始した。

「《今日はメゾン・ドレルのデザイナーであるアルヴィエ氏に、ブランドの核となる独自の美学についてお伺いしたいと思います。ご出身は、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスでいらっしゃるそうですね》」

千花はまず、幼少期の記憶や家族のこと、住んでいた街の風景、芸術的なものとの接点など、服作りの原点となるべき部分から質問していく。

対話を通してどこまで相手の人物像に迫り、読者が知りたい話を引き出せるかが腕の見せ所だ。雑談を交えながら質問していくうち、次第にオレールがリラックスした表情になっていく。

彼は質問のひとつひとつに真摯に答えてくれ、やがて一時間ほどのインタビューが終了して、千花は笑顔で礼を述べる。

「《本日のインタビューは、ここまでになります。大変有意義なお話を聞かせていただき、ありがとうございました》」

立ち上がって握手をしたあと、彼や新作アイテムの写真撮影が行われ、千花は脇に下がってその様子を見守った。

そして雑誌の編集部の人間と記事の構成について話していると、ふいに横から声をかけられる。

「《佐久田さん、少しいいかな》」

そこにいるのはオレールで、彼がにこやかに言う。

「《さっきのインタビュー、とても楽しかったよ。佐久田さんに深い洞察力があるのがわかったし、ブランドについても理解してくれているのを強く感じた》」
「《そう言っていただけて、うれしいです。わたしもムッシュ・アルヴィエの感性を垣間見ることができて、充実したひとときでした》」
「《よかったら、このあと一緒に食事でもどうかな》」
「《はい、喜んで》」

撮影現場から撤収後、千花は編集部の女性二人と共にオレールとのランチ会に参加した。

必然的にフランス語の通訳をすることになり、昨今のファッション業界の話に花を咲かせ、楽しい時間を過ごす。やがて彼女たちが仕事に戻るために解散となり、店の前で二人を見送ったあと、オレールが言った。

「《僕は日本の出店準備やメディア対応のため、これから二週間ほど東京に滞在する予定なんだ。そのあいだ、また会ってもらえないかな》」

食事をしながら彼とすっかり打ち解けていた千花は、笑顔で応える。

「《仕事があるし、いつでもOKなわけじゃないけど、時間が合えば》」
「《よかった。じゃあ、連絡先を交換しよう》」


てっきり社交辞令かと思ったものの、オレールからはその日のうちにメッセージが届き、頻繁にやり取りをするようになった。

彼は出掛けた先の写真をまめにこちらに送ってくれ、日本の滞在を楽しんでいるようで微笑ましさをおぼえる。翌日、千花が午後から早瀬インベストメント・ストラテジーに出勤すると、奏が問いかけてきた。

「昨日、日本初出店のブランドのデザイナーにインタビューするって言ってたけど、どうだったの?」
「有意義な時間だったよ。デザイナーのストイックな感性に触れられたことが、すごくいい刺激になった。今後ブランドがどんなふうに発展していくんだろうって考えて楽しみになったし、そのデザイナーの人とだいぶ打ち解けることができて、昨日から頻繁にメッセージがきてるの。日本の滞在を楽しんでるみたい」

するとそれを聞いた彼が眉を上げ、「……へえ」とつぶやく。
そして自分の目の前のノートパソコンに視線を戻して言った。

「千花さんは取材をした相手と親しくなることって、結構あるの?」
「あまりないかな。インタビューをしているあいだは緊張感を忘れず、馴れ馴れしくならないように気をつけてるし、その後どこかのイベントで見かけたら挨拶はするけど、あくまでもビジネスの相手って感じ」

だがオレールとはランチを通して思いのほか意気投合し、個人的な連絡先を交換した。

「千花のお勧めの店を紹介してほしい」「できれば本格的な和食を食べてみたい」と言われ、今夜は飯田橋にある割烹料理の店に行く約束をしている。

千花がそう告げると、奏がニッコリ笑って言った。

「そっか。確かに普段日本に来ない人間なら、一口に和食と言ってもどこに行っていいかわからないだろうしね。楽しんできて」
「うん」

二時間ほど奏の会社で仕事をしたあと、カフェに移動してタブレットでインタビュー記事の執筆をした千花は、午後五時少し前に着くように飯田橋駅に向かった。

改札を抜けると人待ち顔のオレールがいて、こちらを見てパッと目を輝かせる。

「《千花、わざわざ来てくれてありがとう。今日もとてもきれいだね》」

彼は白いボタンダウンシャツに黒のジャケット、スラックスという恰好で、シンプルながらも均整の取れた体形のせいかスタイリッシュに見える。

目的の店は、駅の目と鼻の先にあった。店内は和モダンな雰囲気で、カウンターの向こうで料理が作られていく様子を眺めることができ、オレールが興奮した様子で言う。

「《こういう本格的な和食の店に来たのは初めてだけど、シェフの仕事を眺められるのはいいね。それに料理もとても美しくて、イマジネーションを刺激されるよ》」
「《気に入ってくれてよかった》」

色とりどりの八寸を前に感嘆のため息を漏らした彼が、少しぎこちない手つきで箸を使う。

日本酒も口に合ったようで、酒器の造形に感心しているオレールを見つめ、千花は深く安堵した。彼は昼間に会ったメディア関係者の話や、オープンを控えた店舗の話を面白おかしく話してくれ、気詰まりな空気はまったくない。

(今ファッション業界で注目されているデザイナーなのに、すごく気さくな人だな。ユーモアがあって話題が豊富だし、話していて楽しい)

そんなふうに考えながらコース料理をデザートまで堪能し、店を出る。

宿泊先のホテルまでタクシーで帰るオレールのために乗り場に向かおうとすると、ふいに彼が提案した。

「《よかったら、他の店で飲み直さない? 僕はもう少し君と一緒にいたい》」
「《ごめんなさい。わたしは明日も仕事があるから、おつきあいできないの。また別の機会に》」

笑顔で断ったところ、オレールはあからさまにがっかりした顔で言う。

「《そうか、残念。もう気づいていると思うけど、僕はインタビューのときから千花のクレバーさを気に入っている。君はファッションに関して造詣が深く、とても繊細な感性で作品のディティールを理解してくれているから、話していて楽しいんだ。そんな千花ともう少し長く一緒にいたいし、君の内面をもっとよく知りたい》」

ストレートな言葉で気持ちを伝えてきた彼は、こちらを見下ろして言葉を続ける。

「《でも僕らは知り合ったばかりで、最初からしつこくして嫌われるのは本意じゃない。だから今日は、素直に身を引くよ》」

ウインクしながら茶目っ気たっぷりにそう言われ、千花はクスリと笑う。
そして夜風に靡く髪を押さえ、オレールを見上げて言った。

「《ありがとう。じゃあ、また》」
「《うん、おやすみ》」

彼を乗せたタクシーが緩やかに走り出し、千花はそれを見送る。

まさか今をときめく気鋭のデザイナーであるオレール・アルヴィエにアプローチされるとは思わず、複雑な気持ちになっていた。彼のことは嫌いではなく、周りの評価に流されない謙虚さや服作りに対する真剣さ、非凡な才能に対して尊敬の念をおぼえている。

インタビューの最中は真面目な印象を受けたものの、素のオレールは思いのほか明るい性格で、話題が豊富な彼とは話していてとても楽しい。

(ああいう人とつきあったほうが、わたしは自然体でいられるのかな。奏みたいに家柄や財力のことを考えなくて済むし、共通の話題も多いから。でも……)

かつては年下らしい可愛さがあった奏は、今は優秀なビジネスマンになっている。

大人っぽさが増して落ち着きを感じる一方、ときおり眼差しに強い恋情をにじませる瞬間があり、千花はそんな彼にぐっと気持ちを惹きつけられていた。

オレールのように等身大でつきあうことができる相手のほうがいいと思うのに、奏の存在を消し去ることができない。だがいずれ通訳兼婚約者の役目を終了し、彼と距離を取らなくてはならないことはわかっていて、目を伏せる。

(考えてみれば、これはいい機会かもしれない。他の人に目を向けたり、交友関係を広げたほうが、奏との関係にきっちり線を引ける気がするもの。うん、きっとそのほうがいい)

せっかくオレールが誘ってくれるのなら、断らず積極的に関わってみるのもひとつの手だ。そしてそれを奏にもさりげなくアピールすることで、こちらに復縁する意思はないのだと伝わればいい。

そんなふうに結論づけた千花はゴールデンウイークのあいだ、オレールからくるメッセージにまめに返信した。そして四日ぶりに早瀬インベストメント・ストラテジーに出社して奏と同じ部屋で仕事をする際も、彼と食事をしたことや会話の内容を話題に出す。

すると連休中に海外出張に行っていたという奏は、自身のデスクでパソコンに向かいながら言った。

「短期間で、ずいぶんそのデザイナーと親しくなったんだね。千花さんもここの仕事と本業のライター業、それにお母さんのお見舞いで忙しいだろうに」
「オレールが日本に来たのは今回が初めてで、あちこち行きたいところがあるけど、わからないことが多いって言うから。フランス語ができるわたしと行動するのは、いろいろと楽みたい」
「そっか。でも今夜は、俺につきあってくれるとうれしい。知り合いのレセプションパ―ティーに顔を出さないといけなくて、そこに千花さんを同伴したいんだ」
「あ、うん。わかった」

彼の態度は至っていつもどおりで、千花は何となく肩透かしを食う。

オレールとの親しさが伝わるように話してみたが、奏は何とも思わなかったのだろうか。

(それとも、わたしの交友関係に自分が口を出すべきじゃないって思った? ……なかなか匙加減が難しいな)