執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす

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目の前でタクシーのドアが閉まり、静かに走り去っていく。

遠ざかっていく赤いテールランプを見送った奏は、雑多なに匂いのする夜風に吹かれて小さく息をついた。

(千花さんの反応、あまりよくなかったな。……やっぱり俺との復縁には、前向きじゃないんだろうか)

通訳兼婚約者になることを了承してもらってから約二週間、奏は連日のように千花を連れ出し、プレゼントや食事などにつきあわせていた。

それはひとえに、自分に関心を持ってもらいたいがためだ。彼女には「婚約者の〝ふり〟をしてほしい」と持ちかけたものの、それは聞こえのいい方便で、デートを通じて何とかもう一度異性として意識してほしいと考えてのことだった。

(千花さんは財力に物を言わせてプレゼントされることに腰が引けているみたいだけど、経済力は俺にとって強みだ。むしろそれがあるからこそお母さんの治療費を援助できるんだから、決してマイナスではない)

かつて金銭感覚の違いが別れのきっかけになったために強く反発される可能性があったものの、奏は自身の財力を前面に押し出すことに決めた。

フランス語の通訳をしてほしいという申し出は彼女を経済的に支援したいと考えて提案したことであり、今までは外部に依頼していた仕事だが、千花は思いのほか有能だ。

彼女は語句の選び方が的確で、商談の際に通訳をしてもらったときも言葉が簡潔でわかりやすく、専門の通訳者と比べてもほとんど遜色ない。また、ハイブランドの創業者やデザイナーにインタビューしていたせいか、人と接するときの態度と口調がしっかりしていて安定感がある。

そんな千花だが、奏があちこちに連れ歩くと物慣れない様子を見せることがあり、普段の凛とした顔とのギャップに庇護欲をそそられた。

(千花さんは素直で、思ったことが全部顔に出る。楽しいときは目をキラキラ輝かせているし、美味しいものを食べたときはパッと笑顔になるから、連れ歩くのが楽しい)

富裕層の集まりは噂話と虚飾に満ちており、社交に必須なために仕方なく参加しているものの、そこに身を置くのはひどく疲れる。

だが千花の態度には嘘がなく、そんな彼女と参加すると退屈な社交が楽しく感じられるのが不思議だった。今日はクラシックのコンサートに出掛けたが、そこで思わぬ人物に出くわしてしまい、奏は内心「面倒だな」と考えた。

(よりによって聡真に会ってしまうなんて、厄介だ。いつもネチネチ絡んできて、鬱陶しくてたまらない)

彼――早瀬聡真は、奏の五歳年上の従兄だ。

現CEOである伯父の長男で、財務とIR、M&Aを統括する統括するグループ戦略本部におり、グループの再編や資本政策などを担っている。

子会社で投資を行っている奏とは真正面から競合する立場にあり、何かと比べられることが多い。CEOの長男として将来の後継者候補と目されているため、余計にだ。

昔からこちらに対抗意識を燃やしている聡真は、会えば何かと突っかかってきていた。今日もコンサート会場でわざわざ声をかけてきた彼は案の定、嫌味を繰り出してきて、奏は不快になった。

(でもあの状況で、千花さんが言い返してくれたことは心底意外だったな。しかもあくまでも穏やかに、角が立たない言い方で)

彼女は名刺を差し出し、笑顔のまま聡真の態度をやんわり批判して、上手いことやり込めてしまった。

聡真を適当にあしらってあの場を切り抜けようとしていた奏は、その姿を見てじんと胸が震えるのを感じた。相手に対して委縮せず、堂々と言い返す千花は恰好よく、「やはり自分は、この人が好きだ」と強く思った。

(だから――)

先ほどは離れがたい想いが募り、つい抱きしめてしまったものの、彼女の態度は硬かった。

千花はやはりこちらと復縁する気はなく、ただ母親の治療費のためだけにビジネスライクにつきあってくれているだけなのだろうか。いっそ母親の治療にかかる費用をすべて自分が払いたいくらいだが、彼女がそれを望まないことはよくわかっている。

つまり通訳兼婚約者の〝対価〟として金を渡すしかなく、もどかしさが募った。だが何とかして千花の力になりたいと考えた奏は、一計を案じた。

(彼女の本業はファッション系のライターなんだから、仕事が増えればきっとやりがいを感じるはずだ。これまでの実績は申し分ないんだし、決して分不相応ということはない)

明日、彼女はラグジュアリーブランド〝Maison d’Aurelle(メゾン・ドレル)〟のデザイナーにインタビューする予定でいる。

現在ファッション業界で注目されている急成長中のブランドで、直営店はパリやロンドン、ミラノを始めとした六店しかないものの、今回東京に出店することが決定した。

それは早瀬インベストメント・ストラテジーがメゾン・ドレルに投資して実現したもので、そのインタビュアーとして千花が指名されたのは奏が裏で手を回したからだ。

フリーライターである彼女に活躍の場を与えたい一心でしたことだが、自分の目の届く範囲に囲い込みたいという強烈な独占欲があるのも否めない。

当の千花は何も知らず、詳細はオフレコとしながらも、「日本に初出店するブランドのインタビュアーに指名された」「これまでの仕事を認めてもらえたってことだから、すごくうれしい」と喜んでいた。

そのときの表情は可愛らしく、先ほど抱きしめた際に感じた細い身体の感触と鼻先をかすめた花のような匂いを思い出し、奏の胸が疼く。

(俺はプライベートでも、仕事の面でも、できるかぎり千花さんを支援する。そして信頼感を高め、〝婚約者のふり〟ではなくもう一度異性として意識してほしい)

今はまだその気になっていないようだが、奏は彼女を逃がすつもりはない。何としても千花を振り向かせ、再び恋人になりたいという思いでいっぱいだった。

小さく息をついた奏は、すぐ近くに停まっていたタクシーに乗り込む。そして運転手に行き先を告げ、シートに背中を預けながら、この先自分がどう動きべきかを考えつつじっと目を閉じた。