執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす

「お前の就任祝いで会って以来か。その歳で子会社の代表に抜擢されるなんて、上手いことやったよな。上層部の連中に取り入るのに、何かコツでもあるのか?」

皮肉たっぷりの言葉を投げつけてくる彼は、どうやら奏をよく思っていないらしい。

しかし当の奏は悪意のある発言にまったく表情を変えず、にこやかに答えた。

「僕は本社の経営企画部に入社したあと、求められている仕事をこなしただけですよ。M&A戦略の立案や新規プロジェクトの戦略コンサルティングは、僕に限らずその気になれば誰でもできることです。でも創業者一族という同じ立場で、僕より社歴が長いはずの聡真さんが、さほど実績を積めていないのはおかしいですね。もしかして手を抜いていたんですか?」
「……っ」

正論で痛切に当て擦られ、男性がカッと頬に朱を上らせる。

しかし衆目があるところで言い返すのは外聞が悪いと考えたのか、ひとつ咳払いをして気を取り直すと、「ところで」と言ってこちらを見た。

「最近お前が恋人をあちこちに連れ歩いているという噂を聞いたが、もしかしてその女性が噂の人物なのか?」

突然水を向けられた千花がドキリとして奏を見ると、彼がニッコリ笑って答える。

「ええ、そうです。六年ぶりに再会して、できれば結婚したいと思っています」
「聞くところによると、名家の出身でも何でもなく、しがないライターだそうじゃないか。まあ、そういう相手を選ぶところがお前の意識が低い証だし、ある意味お似合いだといえるな」

それを聞いた連れの女性が、「ねえ、失礼よ」と言ってクスクスと笑う。

彼らの態度には千花への侮蔑が如実ににじんでおり、それまで余裕のある表情だった奏がすっと真顔になった。

彼が何やら口を開きかけたものの、一歩前に出た千花はそれを遮って言う。

「――初めまして。フランスを中心に活動し、主にハイブランドの記事のライターをしております、佐久田千花と申します。こちらが名刺です」

千花はこれまで仕事をしてきた雑誌の名前や、ポートフォリオにアクセスできるQRコードが記載された名刺を取り出し、男性に手渡す。

そして笑顔で言った。

「奏さんとは数年ぶりに再会し、結婚を前提におつきあいさせていただいております。お話を聞くかぎりそれなりに社会的地位のある方とお見受けいたしますが、家柄を鼻にかけて初対面の相手を職業で見下すことが、品格ある振る舞いだとお考えですか?」
「えっ?」
「これまでさまざまなラグジュアリーブランドの経営者やデザイナーにインタビューさせていただきましたが、そうした一流の方々には今のような態度を取られたことはありませんでしたので。少々疑問に思ってしまって」

ニコニコしてそう問いかけたところ、最初何を言われたのかわからなかったのか、男性がポカンとしてこちらを見る。

しかしやがて意味を理解した彼がじわじわと頬に朱をにじませ、奏に向かって告げた。

「おい、ずいぶんと生意気な女だな。こんなのとつきあうなんて、お前の趣味を疑うよ」
「彼女は聡明な上に頭の回転が速い、僕の自慢の恋人です。これ以上恥の上塗りをしないよう、さっさと席に戻られてはいかがですか」

クスリと笑った奏がそう促し、苛立たしげに舌打ちした男性が踵を返して去っていく。

連れの女性が慌ててその後を追いかけていき、それを見送った千花は、遠慮がちに口を開いた。

「あの、何だかごめんね。さっきの人の言い方に腹が立ってつい言い返しちゃったけど、まずかったかな」
「全然。彼は女性からあんなふうに言い返されたことはないだろうから、いい経験になったと思うよ」

あっさりそう答えた奏が、説明する。

「あれは俺の従兄で、早瀬聡真っていうんだ。早瀬ホールディングスの現CEOである伯父の息子で、本社に勤務してる」
「従兄……」
 

先ほどの男性が奏の従兄だと知り、千花は複雑な気持ちになる。彼が言葉を続けた。

「彼の下には直樹(なおき)っていう弟がいるけど、二人とも俺をライバル視してる。同じ創業者一族、そして同年代なのもあって比べられることが多いし、俺が子会社である早瀬インベストメント・ストラテジーの代表に抜擢されたことで、差をつけられたと思ってるんだ。昔から会うたびにチクチク嫌味を言われてたけど、それに拍車がかかった感じだ」
「でも奏は、努力をして結果を出してるわけでしょ。何であんなふうに見下されなきゃならないの」
「俺が年下のくせに生意気だと思ってるからじゃない? CEOの息子である自分たちより結果を出しているのが疎ましくて、何とか頭を押さえつけて下に置きたいんだろうな。だからああして難癖をつけてくる」

それはあまりにも稚拙な理由で、千花は腹立たしさをおぼえる。
そんなこちらを見つめ、奏が「でも」と言って面映ゆそうに笑った。

「千花さんがはっきり言い返してくれて、うれしかった。俺のためにこうやって前に出てくれる人なんだなって」
「だってあんな鼻持ちならない男に言われっ放しでいるのは、悔しいから。でももう少し冷静になるべきだったなって、反省してる」
 

従兄に見下された奏が、それを何でもないことのように振る舞うのを目の当たりにした瞬間、千花の中に強い怒りが湧いた。
 

彼は創業者一族という恵まれた立場に胡坐をかかず、いつも真剣に仕事をしている。それを知っている千花は「なぜ頑張っている奏が、こんな言い方をされなければならないのだろう」と考え、気がつけば彼を庇うべく口を開いていた。

(……わたし……)
 

思いのほか自分が奏に心を寄せていることに気づいてしまい、千花は複雑な思いにかられる。
 
毎日会社に通って短い時間ながらも仕事をし、あちこちに一緒に出掛けては婚約者のふりをするうち、情が移ってしまったのだろうか。
 

その後、ホワイエから会場に戻って公演の続きを鑑賞したが、早瀬聡真の姿を見ることはなかった。奏から「軽く食事でもしない?」と誘われた千花はそれに応じ、ビストロでワインを飲みながら演奏会の感想を言い合う。

そしてほろ酔いで店の外に出てタクシー乗り場に向かい、彼を振り返った。

「じゃあ、わたしはここで。明日は新規の打ち合わせがあってそっちの会社には行けないから、明後日ね」
「うん。――千花さん」
 

ふいに名前を呼ばれた千花が「何?」と顔を上げた瞬間、奏が腕を伸ばし、こちらの身体を引き寄せる。

「あ……っ」
 

気がつけば彼の胸に抱きしめられていて、千花は驚きに目を見開いた。
 
スーツ越しに感じる奏の身体は硬く、清涼な香りが鼻をかすめる。こちらをすっぽり抱き込めるほどの体格は男らしく、心臓が大きく跳ねて、千花は慌てて声を上げた。

「は、放して」
「俺たちはかりそめとはいえ〝婚約者〟なんだから、このくらいの接触は普通だよ」
「そうかもしれないけど、今は周りに人がいないんだし、こんなことをしたって意味はないでしょ」
 

彼の胸に手をつき、何とか距離を取った千花は、動揺を押し殺す。
すると奏がこちらを見下ろして言った。

「たとえそうでも、どうしても抱きしめたくてたまらなかった。――あんなふうに俺の気持ちに寄り添ってくれて、それを目の当たりにすると、やっぱり千花さんへの想いを再確認して」

早瀬聡真とのいざこざについて言っているのだとわかり、千花の頬がじわりと熱くなる。

その声音と眼差しには押し殺した熱情がにじみ、彼が本当に自分のことを好きなのだと実感して、いたたまれなさをおぼえた。

ここ最近、連日のように奏と出掛けては「〝婚約者〟なのだから」と高価なプレゼントをされたり、デートを重ねては折に触れて甘い態度を取られていたため、彼の気持ちを察していなかったと言ったら嘘になる。

(でも――)

自分たちは六年前に終わった関係であり、今さら復縁するつもりはない。

それは奏のことが嫌いだからではなく、超がつく御曹司である彼と自分はまったく釣り合わないからだ。六年前に嫌というほど痛感したことであり、何より金銭感覚や考え方が違うのだから、上手くいきようがない。

(そうだよ。再会して以降、奏はわたしへのプレゼントでもう何百万円使ったかわからない。そういうお金の使い方ができる人とはあまりにも価値観が違いすぎるし、さっきの従兄が言うように家柄自体が違うんだから、上手くいきっこないよ)

そんな後ろ向きな気持ちが胸に渦巻き、千花は惨めさを噛みしめる。

こんな格差など、感じたくはなかった。奏がごく普通の家柄であればこんなにも悩むことはなかったのに、越えられない壁が自分たちの間に高くそびえ立っている。

「奏、わたし……」

千花が千々に乱れる想いを押し殺しながら口を開きかけると、彼が腕の力を緩め、こちらの身体を離す。

そしてやるせなく微笑みながら言った。

「ごめん。こんなことを言って、俺は千花さんを困らせてるな。あのとき庇ってくれたのはあくまでも婚約者の〝ふり〟をしてるからで、それ以上の意味はないのに」
「……っ」

それは違う――と千花は考える。

あのとき奏を見下した発言をする早瀬聡真に腹が立ったのも、彼を庇いたいと思ったのも、紛うことなき本心だ。

しかし奏を意識しているのは確かだが、それを伝えることはできない。彼との身分差に尻込みしている以上、変に期待させることを言うほうが残酷に思える。

そう考え、千花が黙り込むと、しばらく無言でこちらを見つめていた奏がニッコリ笑った。

「さて、帰ろうか」
「あ、……」

目の前でタクシーのドアが開き、彼が運転手に「これでお願いします」と言って料金トレイに五千円札を置く。

そして上体を起こし、千花に向かって言った。

「じゃあ千花さん、また明後日。会社に来る時間がわかったら連絡して」
「うん、……おやすみなさい」