その日はあっさり解放され、意外に思った千花だったが、すぐにその考えが甘いことを悟った。
「あの、奏。今日も……?」
「そうだよ。千花さんが俺の婚約者だって周囲に知らしめるためには、どんどん一緒に出掛けないと」
事も無げに告げた奏が向かったのは、銀座のハイブランドショップだ。
最初に一緒に出掛けた日以降、彼は連日のように千花を連れ出しては、ブランド物の衣服や靴、アクセサリーを大量にプレゼントしてくれる。
どれも法外な値段で、「受け取れない」と固辞すると、「俺と一緒に行動するなら、それなりの恰好をしてもらわないと困る」「これは必要経費だから」の一点張りで、千花はひどく困惑していた。
(確かに奏の傍にいる女性は、それなりの恰好をしていないと釣り合わないかもしれない。でも、こんなに次々とプレゼントする必要がある? 実家のわたしの部屋のクローゼット、もう物が入りきらないくらいなんだけど)
仕事柄ハイブランドのことはよく知っているが、それらを自分で購入するような財力は持ち合わせていない。
大学時代から自分で生活費を稼ぎ、コツコツと貯金して渡仏する費用を貯めた千花にとって、奏のような金の使い方はまったく理解できなかった。しかし恋人ではない以上は文句が言えず、モヤモヤしている。
あれから五日、彼は千花にたくさんの服やアクセサリーをプレゼントするだけではなく、食事やデートに頻繁に出掛けるようになっていた。
フレンチやイタリアン、日本料理の名店で食事をする他、美術館やドライブに誘われることもあり、これまで知らなかったセレブの暮らしを垣間見て腰が引けている。
(それに……)
千花を戸惑わせているのは、それだけではないのが悩みどころだ。
今日も朝から「仕事が終わったあと、クラシックのコンサートに行かないか」というメッセージを受け取り、了承した千花はまず母親の病院に見舞いに行った。するとこちらの服装を見た彼女が、クスリと笑って言った。
「千花、最近すごくきれいな恰好をしてるのね」
「あ、えっと……今日はクラシックのコンサートに誘われてて」
「素敵。うらやましいわ」
そんな母親は何となく顔色が悪く見え、千花は心配になって問いかける。
「お母さん、体調は? ちゃんとご飯は食べられてる?」
「大丈夫よ。千花は心配性ね」
しかし病室を出たあと、看護師から「ここ数日は食事があまり取れておらず、体力が落ちてしまうのが心配です」と伝えられ、千花は不安になる。
(「手術のタイミングは、体調を見極めて」って先生が言ってたけど、体力が落ちたら先延ばしになっちゃうよね。どうしたらいいんだろう)
明日以降、母親が好むような食べ物を持ってくるべきだろうか。
そんなふうに考えつつ奏の会社に出社すると、彼は社内の部署とミーティング中だった。秘書の奥村から今日の作業の指示を受けた千花は、黙々と仕事をする。
一時間ほどすると奏が戻ってきて、声をかけてきた。
「千花さん、お疲れさま。何かわからないところはある?」
「ここなんだけど」
メール返信の言い回しについて質問すると、彼が「どこ?」と言いながら後ろからパソコンのディスプレイを覗き込んでくる。
(あ、また……)
背後から覆い被さるような体勢を取られ、奏の匂いを間近に感じた千花の頬が、じわりと熱くなる。
六年前はまだ線の細さが残る美青年という雰囲気だった彼だが、六年経つうちに大人の男らしい体形になっていた。適度な厚みのある身体、血管の目立つ大きな手、かすかに香る清涼な香りなど、どれも昔とは少しずつ違っていてドキドキする。
(わたし……)
こんなふうに奏を意識してしまうのは、非常に不本意だ。
彼とやり直す気は微塵もないはずなのに、一緒にいる時間が多くなるにつれて気持ちに変化が起きている。
それは奏に、かつてとは違った落ち着きと包容力を感じるようになったからかもしれない。大学生の頃の彼はひたすら柔和で、年下らしく可愛い印象だった。だが現在の奏は会社の代表という立場にあり、その仕事ぶりを目の当たりにしている千花は日々感心していた。
(この部屋にはいろんな部署の人が報告に来るし、外部からの来客も多いけど、奏はとにかく判断が早くて言葉が明朗なんだよね。最初は彼の若さに「大丈夫なのか」っていう顔をしている商談相手も、受け答えをしているうちにみるみる認識を変えていくのがよくわかる)
そんな奏を見るうち、千花は少しずつ彼に対して尊敬の念を抱くようになっていた。
この六年、彼は無為に過ごしていたわけではなく、社会人として着々と研鑽を積んできたに違いない。
しかしそうなるきっかけが自分との別れだったこと、そして「もう一度アプローチするために、一人前の男になろう」と考えてのことだったと聞いて、落ち着かない気持ちになっている。
今の奏は、充分すぎるほど大人だ。たとえ実家が大企業だとしても、その中で結果を出してわずか数年で子会社を任せられるようになったのだから、その努力は並みではない。
そんなことを考えながら努めて平静を保とうとしていると、奏がじっとこちらを見つめているのに気づく。
「な、何?」
どぎまぎして問いかけたところ、彼がふっと笑って言った。
「千花さん、こうやって俺が近くに来ると、いつもすごくわかりやすく緊張してるなと思って。少しは男として意識してくれるようになった?」
からかうような口調にじわりと頬を赤らめた千花は、憤然として言い返す。
「そんなわけないでしょ。調子に乗らないで」
「昔よりだいぶ変わったと思うんだけどな。確かめてみたくならない?」
「確かめるって、何を……」
後ろから覗き込む形で顔を寄せられ、その整った容貌に胸が高鳴る。
切れ長の目元、高い鼻梁、薄い唇が絶妙なバランスで並んだ顔立ちは端整でありながらほんの少し甘さを漂わせ、蠱惑的な雰囲気を醸し出していた。
(あ、どうしよう、これ……)
あと少し近づけば、キスされる――そう思い、覚悟を決めた千花が息を詰めた瞬間、奏がふと気配を緩める。
そしてニッコリ笑って言った。
「なんてね。もしかして、キスされると思った?」
「えっ」
「職場ではそんなことしないよ。俺がどう変わったかは、プライベートで知ってくれるとうれしい」
からかわれたのだと知った千花は、唖然として彼を見つめる。
まさか奏に、こんなふうに手玉に取られるとは思わなかった。かつて恋愛していた頃は年上である自分が主導権を握っていただけに、悔しさに似た思いがこみ上げる。
千花はツンとして言った。
「別にプライベートでも、知るつもりはないから。わたしたちがしているのはあくまでも婚約者の〝ふり〟だってこと、忘れてもらったら困るんだけど」
「そうだね。忘れてないからこそ、また振り向いてもらえるよう、もっと努力するよ」
「そういう意味で言ったんじゃないんだけど」
しかし彼はニコニコしていて、まったく堪えた様子がない。
それから二時間ほど仕事をしたあと、千花と奏は予定どおりにクラシックのコンサートに出掛けた。今夜はドイツの有名な交響楽団の公演で、コンサートホールに足を踏み入れた千花は「こういうことがないと、自分では絶対に来ない場所だな」と考える。
(奏はきっと、こういうところに来慣れてるんだよね。……庶民のわたしとは、やっぱり釣り合わないよ)
そんなことを思いながら演奏を聞き、途中で二十分間の休憩に入る。
ホワイエは開放感のある吹き抜けで、飲み物や軽食を愉しめる大きなホールになっており、たくさんの人で溢れていた。奏にシャンパンを勧められた千花は、彼からグラスを受け取る。テーブルで乾杯した瞬間、ふいに横から声が響いた。
「――奏じゃないか。こんなところで会うなんて、奇遇だな」
視線を向けると、そこには三十歳前後とおぼしき男性が立っている。
仕立てのいいスーツを着た彼は顔立ちこそ整っているものの、どこか尊大な雰囲気を漂わせ、若い女性を同伴していた。奏が男性を見つめて口を開く。
「こんばんは、聡真さん」
「あの、奏。今日も……?」
「そうだよ。千花さんが俺の婚約者だって周囲に知らしめるためには、どんどん一緒に出掛けないと」
事も無げに告げた奏が向かったのは、銀座のハイブランドショップだ。
最初に一緒に出掛けた日以降、彼は連日のように千花を連れ出しては、ブランド物の衣服や靴、アクセサリーを大量にプレゼントしてくれる。
どれも法外な値段で、「受け取れない」と固辞すると、「俺と一緒に行動するなら、それなりの恰好をしてもらわないと困る」「これは必要経費だから」の一点張りで、千花はひどく困惑していた。
(確かに奏の傍にいる女性は、それなりの恰好をしていないと釣り合わないかもしれない。でも、こんなに次々とプレゼントする必要がある? 実家のわたしの部屋のクローゼット、もう物が入りきらないくらいなんだけど)
仕事柄ハイブランドのことはよく知っているが、それらを自分で購入するような財力は持ち合わせていない。
大学時代から自分で生活費を稼ぎ、コツコツと貯金して渡仏する費用を貯めた千花にとって、奏のような金の使い方はまったく理解できなかった。しかし恋人ではない以上は文句が言えず、モヤモヤしている。
あれから五日、彼は千花にたくさんの服やアクセサリーをプレゼントするだけではなく、食事やデートに頻繁に出掛けるようになっていた。
フレンチやイタリアン、日本料理の名店で食事をする他、美術館やドライブに誘われることもあり、これまで知らなかったセレブの暮らしを垣間見て腰が引けている。
(それに……)
千花を戸惑わせているのは、それだけではないのが悩みどころだ。
今日も朝から「仕事が終わったあと、クラシックのコンサートに行かないか」というメッセージを受け取り、了承した千花はまず母親の病院に見舞いに行った。するとこちらの服装を見た彼女が、クスリと笑って言った。
「千花、最近すごくきれいな恰好をしてるのね」
「あ、えっと……今日はクラシックのコンサートに誘われてて」
「素敵。うらやましいわ」
そんな母親は何となく顔色が悪く見え、千花は心配になって問いかける。
「お母さん、体調は? ちゃんとご飯は食べられてる?」
「大丈夫よ。千花は心配性ね」
しかし病室を出たあと、看護師から「ここ数日は食事があまり取れておらず、体力が落ちてしまうのが心配です」と伝えられ、千花は不安になる。
(「手術のタイミングは、体調を見極めて」って先生が言ってたけど、体力が落ちたら先延ばしになっちゃうよね。どうしたらいいんだろう)
明日以降、母親が好むような食べ物を持ってくるべきだろうか。
そんなふうに考えつつ奏の会社に出社すると、彼は社内の部署とミーティング中だった。秘書の奥村から今日の作業の指示を受けた千花は、黙々と仕事をする。
一時間ほどすると奏が戻ってきて、声をかけてきた。
「千花さん、お疲れさま。何かわからないところはある?」
「ここなんだけど」
メール返信の言い回しについて質問すると、彼が「どこ?」と言いながら後ろからパソコンのディスプレイを覗き込んでくる。
(あ、また……)
背後から覆い被さるような体勢を取られ、奏の匂いを間近に感じた千花の頬が、じわりと熱くなる。
六年前はまだ線の細さが残る美青年という雰囲気だった彼だが、六年経つうちに大人の男らしい体形になっていた。適度な厚みのある身体、血管の目立つ大きな手、かすかに香る清涼な香りなど、どれも昔とは少しずつ違っていてドキドキする。
(わたし……)
こんなふうに奏を意識してしまうのは、非常に不本意だ。
彼とやり直す気は微塵もないはずなのに、一緒にいる時間が多くなるにつれて気持ちに変化が起きている。
それは奏に、かつてとは違った落ち着きと包容力を感じるようになったからかもしれない。大学生の頃の彼はひたすら柔和で、年下らしく可愛い印象だった。だが現在の奏は会社の代表という立場にあり、その仕事ぶりを目の当たりにしている千花は日々感心していた。
(この部屋にはいろんな部署の人が報告に来るし、外部からの来客も多いけど、奏はとにかく判断が早くて言葉が明朗なんだよね。最初は彼の若さに「大丈夫なのか」っていう顔をしている商談相手も、受け答えをしているうちにみるみる認識を変えていくのがよくわかる)
そんな奏を見るうち、千花は少しずつ彼に対して尊敬の念を抱くようになっていた。
この六年、彼は無為に過ごしていたわけではなく、社会人として着々と研鑽を積んできたに違いない。
しかしそうなるきっかけが自分との別れだったこと、そして「もう一度アプローチするために、一人前の男になろう」と考えてのことだったと聞いて、落ち着かない気持ちになっている。
今の奏は、充分すぎるほど大人だ。たとえ実家が大企業だとしても、その中で結果を出してわずか数年で子会社を任せられるようになったのだから、その努力は並みではない。
そんなことを考えながら努めて平静を保とうとしていると、奏がじっとこちらを見つめているのに気づく。
「な、何?」
どぎまぎして問いかけたところ、彼がふっと笑って言った。
「千花さん、こうやって俺が近くに来ると、いつもすごくわかりやすく緊張してるなと思って。少しは男として意識してくれるようになった?」
からかうような口調にじわりと頬を赤らめた千花は、憤然として言い返す。
「そんなわけないでしょ。調子に乗らないで」
「昔よりだいぶ変わったと思うんだけどな。確かめてみたくならない?」
「確かめるって、何を……」
後ろから覗き込む形で顔を寄せられ、その整った容貌に胸が高鳴る。
切れ長の目元、高い鼻梁、薄い唇が絶妙なバランスで並んだ顔立ちは端整でありながらほんの少し甘さを漂わせ、蠱惑的な雰囲気を醸し出していた。
(あ、どうしよう、これ……)
あと少し近づけば、キスされる――そう思い、覚悟を決めた千花が息を詰めた瞬間、奏がふと気配を緩める。
そしてニッコリ笑って言った。
「なんてね。もしかして、キスされると思った?」
「えっ」
「職場ではそんなことしないよ。俺がどう変わったかは、プライベートで知ってくれるとうれしい」
からかわれたのだと知った千花は、唖然として彼を見つめる。
まさか奏に、こんなふうに手玉に取られるとは思わなかった。かつて恋愛していた頃は年上である自分が主導権を握っていただけに、悔しさに似た思いがこみ上げる。
千花はツンとして言った。
「別にプライベートでも、知るつもりはないから。わたしたちがしているのはあくまでも婚約者の〝ふり〟だってこと、忘れてもらったら困るんだけど」
「そうだね。忘れてないからこそ、また振り向いてもらえるよう、もっと努力するよ」
「そういう意味で言ったんじゃないんだけど」
しかし彼はニコニコしていて、まったく堪えた様子がない。
それから二時間ほど仕事をしたあと、千花と奏は予定どおりにクラシックのコンサートに出掛けた。今夜はドイツの有名な交響楽団の公演で、コンサートホールに足を踏み入れた千花は「こういうことがないと、自分では絶対に来ない場所だな」と考える。
(奏はきっと、こういうところに来慣れてるんだよね。……庶民のわたしとは、やっぱり釣り合わないよ)
そんなことを思いながら演奏を聞き、途中で二十分間の休憩に入る。
ホワイエは開放感のある吹き抜けで、飲み物や軽食を愉しめる大きなホールになっており、たくさんの人で溢れていた。奏にシャンパンを勧められた千花は、彼からグラスを受け取る。テーブルで乾杯した瞬間、ふいに横から声が響いた。
「――奏じゃないか。こんなところで会うなんて、奇遇だな」
視線を向けると、そこには三十歳前後とおぼしき男性が立っている。
仕立てのいいスーツを着た彼は顔立ちこそ整っているものの、どこか尊大な雰囲気を漂わせ、若い女性を同伴していた。奏が男性を見つめて口を開く。
「こんばんは、聡真さん」
