タクシーに乗り込み、奏が運転手に行き先を告げる。
代官山までの距離は、二十分少々だった。イベント会場となる店は大路から一本中に入ったところにある瀟洒な洋館で、鉄製の門扉の向こうに小さな石畳のアプローチが見え、両脇の植え込みの隙間に置かれた間接照明が淡く辺りを照らしている。
建物内は既に多くの客でにぎわっているようで、来場者が次々と中に入っていくところだった。タクシーから降り立った途端、奏が当たり前のようにこちらの腰に手を添えてきて、千花はドキリとして声を上げる。
「ちょっと、手……っ」
「〝婚約者〟なんだから、このくらいするのが普通だよ。いちいち慌てるなんて、千花さんは意外とこういうことに免疫がないのかな」
からかう口調でそんなことを言われ、千花はカチンときて答える。
「そんなわけないでしょ。フランスでは、いろんな男の人にエスコートされまくりだったんだから」
「へーえ、そうなんだ」
実際はそんなことはなく、フランスで交際した男性もいなかったが、侮られるのは我慢できない千花はつい見栄を張る。
そうする一方、「奏はどうだったのだろう」と頭の隅で考えた。
(奏はこの六年間でつきあった相手はいないって発言してたけど、それって本当かな。だってこの容姿で大企業の御曹司なんだもの、女の人が放っておくわけなくない?)
そういう女性たちからのアプローチが煩わしくて千花に〝婚約者のふり〟を頼んできたというが、ここまでハイスペックな男性が六年ものあいだ誰ともつきあわずにいられるだろうか。
そんな疑問がこみ上げたものの、千花はふと気まずさをおぼえる。たとえ会わなかったあいだに奏に他に交際していた女性がいたとしても、それは自分には関係ない。
自分たちはきっちり話をして別れ、長いこと互いにフリーだったからだ。しかもこちらには復縁する意思がないのだから、余計にとやかく言う権利は皆無だといえる。
(でも……)
こうして間近に彼の身体を感じると、その背の高さやしっかりした体形を意識してしまい、ドキドキする。
それをぐっと抑え、精一杯何食わぬ顔を作った千花は、顔を上げて建物の中に足を進めた。建物は二階建てで、一階は天井が高く開放的だ。白い塗り壁にアンティークの家具が映え、壁面には大小の絵画が飾られていてロマンチックな雰囲気を醸し出している。
奥にはガラス張りのワインセラーがあり、数百本のボトルが温度管理されて整然と並んでいた。立食形式であるために客席は撤去されており、抑えた音量で流れる音楽と人々が笑いさざめく声、グラスの触れ合う音が響き、華やかだ。
千花は圧倒されつつ口を開いた。
「すごいね。こういうイベントには初めて来たけど、招かれているのってどんな人たちなの?」
「ここは名店として名高い店だから、客層は幅広いよ。服装を見れば、どんな業界の人かだいたいわかる」
奏いわく、スタートアップ企業の経営者や投資家、大企業の広報や役員といった人々は、無地の高級スーツを着ていて一見地味であるものの、ハイブランドの時計やアクセサリーでさりげなく格を示しているらしい。
一方で俳優やモデル、スタイリストや番組プロデューサーなどの芸能関係者は服装にやや遊びがあり、自然と目を引くオーラがあるものの、やりすぎないラインを心得ているのだという。
(そうなんだ。確かに奏もいいスーツを着ているけど、派手さはなくて時計や靴でクラス感を出してるもんね。しかし華やかだな)
会場の中央には島のように配置されたテーブルがあり、そこにワインボトルと産地や特徴が書かれたカード、そして色とりどりの小皿料理が並んでいる。
鴨のパテやトリュフの香りを纏ったマッシュポテト、サーモンとほうれん草、クリームチーズのキッシュ、ジュレ仕立ての牡蠣など、どれもワインに合いそうな料理ばかりで千花が感心していると、奏が問いかけてきた。
「千花さんは、どんなワインがいいかな。最初はスパークリングにする?」
「うん、そうだね」
彼はワインを注いでくれたり、料理を取ってくれたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
そうするうちに顔見知りらしいゲストが奏に話しかけてくるようになり、千花は会場内にいる女性客たちの視線がときおり自分に向けられているのを強く意識した。
やがて話しかけてきた客の一人が、「そちらの女性は?」と水を向けてくる。
「彼女は僕の、恋人です。フランスのハイエンド雑誌でブランドに関する記事を書いていたライターで、さまざまな有名メゾンの経営陣とコネクションを持つ、優れたインタビュアーでもあります」
奏がこちらの腰を抱き寄せながらそう答え、身体が密着した千花はドキリとする。
すると二十代とおぼしきお嬢さま然とした女性が、確かめるように問いかけた。
「でも早瀬さん、少し前までおつきあいされている方はいらっしゃらなかったんじゃ……」
「実は彼女は、大学時代に交際していた相手なんです。数年ぶりに再会して、結婚を前提におつきあいすることになりました」
すると周囲にいた人々が、一斉に千花に注目する。
中にはあからさまに値踏みする視線を向ける者もいて、ひどく居心地の悪い気持ちを味わった。驚いたのは、年配の男性や女性が棘のある視線を向けてきたことだ。彼らは娘らしき若い女性を同伴しており、もしかすると奏との縁談を具体的に考えていたのかもしれない。
(そっか。上流階級の人たちの結婚は家の格が重要視されるっていうから、早瀬ホールディングスの創業者一族である奏はそうした意味で価値がある人物なんだ)
それに加え、若くして子会社の代表に抜擢されるほどの才覚を持ち合わせ、この容姿だ。
自分たちの娘の結婚相手としてふさわしいと考えていた彼が、ごく普通の女性を婚約者として連れ歩いているのを見たら、確かに面白くないだろう。
そんなふうに考え、周囲から向けられる眼差しに思わず委縮する千花をよそに、奏は上機嫌だ。お代わりのワインをせっせと注いでくれ、蕩けるように甘く見つめてきて、演技だとわかっていてもつい赤面してしまう。しかもこれ見よがしに身体を寄せてきて、千花は彼にだけ聞こえる声でひそひそと言った。
「ねえ、近いからちょっと離れて」
「俺たちが恋人同士だっていう、アピールのためだ。あくまでもこれは〝演技〟だよ」
演技――と言われると拒否できず、千花はぐっと返す言葉に詰まる。
結局二時間ほど会場にいたが、終わる頃にはどっと疲れていた。外に出ると既に日が暮れており、奏がこちらを見下ろして言う。
「今日は初めて千花さんを同伴したから、だいぶ詮索されたな。でも恋人だとアピールできて、出だしとしてはなかなかよかったと思う。つきあってくれてありがとう」
「こう言っちゃ何だけど、ああいう社交の場に来る人って、あそこまで不躾な視線を投げかけてくるものなの? わたし、若い女の子の何人かにものすごく睨まれたり、こっちを見ながらヒソヒソ言われて、生きた心地がしなかったんだけど」
すると彼が、さらりと答える。
「まあ、そうだね。家柄を鼻にかけてる連中が多いけど、上品ぶっているのとは裏腹に実情は結構えげつないよ。口を開けばどこそこの家の誰が何をしたとかいう話ばかりだし、わざと気に食わない人間の噂を流したり、足の引っ張り合いも多いから」
そんなことが日常的な世界に彼がいるのだと思うと、千花は何ともいえない気持ちになる。
(奏、大学の頃は実家のことを全然話さなかったから、上流階級の人だってわからなかった。でも本当は、昔からお金持ちなりの苦労があったのかな)
千花が複雑な気分になっていると、ふいに奏が「さて」とつぶやく。
「さっき会場で軽く料理を摘まんだけど、よかったらこれから夕食でもどう? 千花さんの好みの店を押さえるよ」
「悪いけど、疲れたから遠慮しとく。帰ってからやらなきゃいけないこともあるし」
すると彼が「そっか」と言い、気遣うようにこちらを見た。
「確かに慣れないところに行ったら、疲れるよな。タクシーで自宅まで送っていくから」
代官山までの距離は、二十分少々だった。イベント会場となる店は大路から一本中に入ったところにある瀟洒な洋館で、鉄製の門扉の向こうに小さな石畳のアプローチが見え、両脇の植え込みの隙間に置かれた間接照明が淡く辺りを照らしている。
建物内は既に多くの客でにぎわっているようで、来場者が次々と中に入っていくところだった。タクシーから降り立った途端、奏が当たり前のようにこちらの腰に手を添えてきて、千花はドキリとして声を上げる。
「ちょっと、手……っ」
「〝婚約者〟なんだから、このくらいするのが普通だよ。いちいち慌てるなんて、千花さんは意外とこういうことに免疫がないのかな」
からかう口調でそんなことを言われ、千花はカチンときて答える。
「そんなわけないでしょ。フランスでは、いろんな男の人にエスコートされまくりだったんだから」
「へーえ、そうなんだ」
実際はそんなことはなく、フランスで交際した男性もいなかったが、侮られるのは我慢できない千花はつい見栄を張る。
そうする一方、「奏はどうだったのだろう」と頭の隅で考えた。
(奏はこの六年間でつきあった相手はいないって発言してたけど、それって本当かな。だってこの容姿で大企業の御曹司なんだもの、女の人が放っておくわけなくない?)
そういう女性たちからのアプローチが煩わしくて千花に〝婚約者のふり〟を頼んできたというが、ここまでハイスペックな男性が六年ものあいだ誰ともつきあわずにいられるだろうか。
そんな疑問がこみ上げたものの、千花はふと気まずさをおぼえる。たとえ会わなかったあいだに奏に他に交際していた女性がいたとしても、それは自分には関係ない。
自分たちはきっちり話をして別れ、長いこと互いにフリーだったからだ。しかもこちらには復縁する意思がないのだから、余計にとやかく言う権利は皆無だといえる。
(でも……)
こうして間近に彼の身体を感じると、その背の高さやしっかりした体形を意識してしまい、ドキドキする。
それをぐっと抑え、精一杯何食わぬ顔を作った千花は、顔を上げて建物の中に足を進めた。建物は二階建てで、一階は天井が高く開放的だ。白い塗り壁にアンティークの家具が映え、壁面には大小の絵画が飾られていてロマンチックな雰囲気を醸し出している。
奥にはガラス張りのワインセラーがあり、数百本のボトルが温度管理されて整然と並んでいた。立食形式であるために客席は撤去されており、抑えた音量で流れる音楽と人々が笑いさざめく声、グラスの触れ合う音が響き、華やかだ。
千花は圧倒されつつ口を開いた。
「すごいね。こういうイベントには初めて来たけど、招かれているのってどんな人たちなの?」
「ここは名店として名高い店だから、客層は幅広いよ。服装を見れば、どんな業界の人かだいたいわかる」
奏いわく、スタートアップ企業の経営者や投資家、大企業の広報や役員といった人々は、無地の高級スーツを着ていて一見地味であるものの、ハイブランドの時計やアクセサリーでさりげなく格を示しているらしい。
一方で俳優やモデル、スタイリストや番組プロデューサーなどの芸能関係者は服装にやや遊びがあり、自然と目を引くオーラがあるものの、やりすぎないラインを心得ているのだという。
(そうなんだ。確かに奏もいいスーツを着ているけど、派手さはなくて時計や靴でクラス感を出してるもんね。しかし華やかだな)
会場の中央には島のように配置されたテーブルがあり、そこにワインボトルと産地や特徴が書かれたカード、そして色とりどりの小皿料理が並んでいる。
鴨のパテやトリュフの香りを纏ったマッシュポテト、サーモンとほうれん草、クリームチーズのキッシュ、ジュレ仕立ての牡蠣など、どれもワインに合いそうな料理ばかりで千花が感心していると、奏が問いかけてきた。
「千花さんは、どんなワインがいいかな。最初はスパークリングにする?」
「うん、そうだね」
彼はワインを注いでくれたり、料理を取ってくれたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
そうするうちに顔見知りらしいゲストが奏に話しかけてくるようになり、千花は会場内にいる女性客たちの視線がときおり自分に向けられているのを強く意識した。
やがて話しかけてきた客の一人が、「そちらの女性は?」と水を向けてくる。
「彼女は僕の、恋人です。フランスのハイエンド雑誌でブランドに関する記事を書いていたライターで、さまざまな有名メゾンの経営陣とコネクションを持つ、優れたインタビュアーでもあります」
奏がこちらの腰を抱き寄せながらそう答え、身体が密着した千花はドキリとする。
すると二十代とおぼしきお嬢さま然とした女性が、確かめるように問いかけた。
「でも早瀬さん、少し前までおつきあいされている方はいらっしゃらなかったんじゃ……」
「実は彼女は、大学時代に交際していた相手なんです。数年ぶりに再会して、結婚を前提におつきあいすることになりました」
すると周囲にいた人々が、一斉に千花に注目する。
中にはあからさまに値踏みする視線を向ける者もいて、ひどく居心地の悪い気持ちを味わった。驚いたのは、年配の男性や女性が棘のある視線を向けてきたことだ。彼らは娘らしき若い女性を同伴しており、もしかすると奏との縁談を具体的に考えていたのかもしれない。
(そっか。上流階級の人たちの結婚は家の格が重要視されるっていうから、早瀬ホールディングスの創業者一族である奏はそうした意味で価値がある人物なんだ)
それに加え、若くして子会社の代表に抜擢されるほどの才覚を持ち合わせ、この容姿だ。
自分たちの娘の結婚相手としてふさわしいと考えていた彼が、ごく普通の女性を婚約者として連れ歩いているのを見たら、確かに面白くないだろう。
そんなふうに考え、周囲から向けられる眼差しに思わず委縮する千花をよそに、奏は上機嫌だ。お代わりのワインをせっせと注いでくれ、蕩けるように甘く見つめてきて、演技だとわかっていてもつい赤面してしまう。しかもこれ見よがしに身体を寄せてきて、千花は彼にだけ聞こえる声でひそひそと言った。
「ねえ、近いからちょっと離れて」
「俺たちが恋人同士だっていう、アピールのためだ。あくまでもこれは〝演技〟だよ」
演技――と言われると拒否できず、千花はぐっと返す言葉に詰まる。
結局二時間ほど会場にいたが、終わる頃にはどっと疲れていた。外に出ると既に日が暮れており、奏がこちらを見下ろして言う。
「今日は初めて千花さんを同伴したから、だいぶ詮索されたな。でも恋人だとアピールできて、出だしとしてはなかなかよかったと思う。つきあってくれてありがとう」
「こう言っちゃ何だけど、ああいう社交の場に来る人って、あそこまで不躾な視線を投げかけてくるものなの? わたし、若い女の子の何人かにものすごく睨まれたり、こっちを見ながらヒソヒソ言われて、生きた心地がしなかったんだけど」
すると彼が、さらりと答える。
「まあ、そうだね。家柄を鼻にかけてる連中が多いけど、上品ぶっているのとは裏腹に実情は結構えげつないよ。口を開けばどこそこの家の誰が何をしたとかいう話ばかりだし、わざと気に食わない人間の噂を流したり、足の引っ張り合いも多いから」
そんなことが日常的な世界に彼がいるのだと思うと、千花は何ともいえない気持ちになる。
(奏、大学の頃は実家のことを全然話さなかったから、上流階級の人だってわからなかった。でも本当は、昔からお金持ちなりの苦労があったのかな)
千花が複雑な気分になっていると、ふいに奏が「さて」とつぶやく。
「さっき会場で軽く料理を摘まんだけど、よかったらこれから夕食でもどう? 千花さんの好みの店を押さえるよ」
「悪いけど、疲れたから遠慮しとく。帰ってからやらなきゃいけないこともあるし」
すると彼が「そっか」と言い、気遣うようにこちらを見た。
「確かに慣れないところに行ったら、疲れるよな。タクシーで自宅まで送っていくから」
