執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす

与えられたノートパソコンで三十分ほどメール返信や書類の翻訳業務をこなし、やがて予定していた来客が二人連れで訪れる。

相手はモナコのラグジュアリーブランドの経営陣で、今回は早瀬インベストメント・ストラテジーが新たに投資をするか否かを見極めるプレゼンのためにやって来たらしい。

投資戦略室の室長も同席し、奏に通訳として紹介された千花は、立ち上がって彼らに挨拶をした。

「《初めまして。本日早瀬の通訳を務めさせていただきます、佐久田千花と申します。どうぞよろしくお願いいたします》」

モナコの公用語は、フランス語だ。

投資案件であるため、商談はブランドの魅力や正価販売の比率、どんな価格帯が強いか、値引き依存度などの他、デザイナーやクリエイティブディレクターがどの程度ブランドを牽引できるかなどが詳しく説明され、千花自身深く関わっている業界だけに興味深く話を聞く。

また、取り扱っている商品の意匠や商標権、ライセンス契約、地域独占権といった知財条件や、サプライチェーンや製造品質管理という穿った内容にまで話が及び、奏と投資戦略室室長が資料を見ながら真剣に話を聞いていた。

やがて奏が顔を上げ、日本語で言った。

「本日は貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。こちらで内容を精査し、後日またお会いする機会をいただけたらと考えておりますが、いかがでしょうか」

千花がフランス語で伝えたところ、先方が了承し、双方が立ち上がって握手を交わす。

商談が終わって先方が退室していくと、ホッと息が漏れた。奏と室長が見送りに行き、一人応接室に残った千花は、テーブルの上にある資料を揃えながら考える。

(先方がラグジュアリーブランドで、わたし自身馴染みのある業界だから、スムーズに通訳できてよかった。でもこれが知らないジャンルの話だと、語句の訳し方が難しいのかも)

もしまた通訳する機会があったら、事前に下調べをしたほうがいいかもしれない。

そんなふうに考えながら応接室の茶器を重ね、給湯室に下げようとしていた千花だったが、そこで廊下の向こうから奏が戻ってくる。

彼はこちらの手から茶器を受け取りつつ言った。

「わざわざ下げてくれてありがとう。さっきの通訳、言葉が端的ですごくわかりやすかった。投資戦略室の室長も褒めてたよ」
「よかった。業種的に馴染みがあるから、訳しやすかったのもあるかも」

奏が褒めてくれ、初めての商談に緊張していた千花はうれしくなる。

彼が給湯室に入ると、たまたまそこにいた女性社員が「洗っておきますよ」と言って茶器を受け取った。こちらを振り向いた奏が「これからすぐに外に出られる?」と問いかけてきて、千花は戸惑って答える。

「あの、わたしは着替えのために家に帰ろうと思ってたんだけど。ワインイベントは何時から?」
「午後六時。千花さんが一度自宅に帰るのは手間だし、またこっちに戻ってくるのは大変だから、このまま出掛けよう」

千花が「えっ」とつぶやくと、彼が自分のオフィスに入り、車のキーを手にしてニッコリ笑う。

「ほら、早く」

あれよあれよという間に会社のすぐ近くの駐車場にある奏の車に乗せられた千花は、助手席で慌てて言った。

「ねえ、午後六時まではまだ時間があるよね? だったら家まで送ってくれれば助かるんだけど」
「あ、ちょっとごめん」

そのとき彼のスマートフォンに着信があり、スピーカーフォンで話し始めたため、千花は口をつぐむ。

電話は一度切ったかと思えばすぐに別の人間からかかってきて、奏がいかに多忙かを感じさせた。十五分ほど車を走らせ、パーキングに乗り入れたところで彼が通話を終了させる。 

車から降りた千花は、周囲を見回して言った。

「ここって、銀座?」
「うん」

奏がスマートフォンをマナーモードにし、スーツのポケットにしまいながら問いかけてくる。

「千花さんは、好きなブランドとかある?」
「仕事ではいろいろ見るけど、自分で着る分には特にこだわりはないかな。TPOに応じて、そこそこの値段の清潔感のあるものを選んでる」
「なるほど」

奏が向かったのは、有名百貨店だった。

店内に足を踏み入れるとすぐさま外商部の人間がやって来て、サロンへと案内される。ラグジュアリーな空間に戸惑う千花を前に、五十代とおぼしき男性外商スタッフが彼に一礼して言った。

「早瀬さま、いらっしゃいませ。秘書の奥村(おくむら)さまからご連絡があり、今夜開催される予定のワインイベントにお連れの女性が参加されるため、それにふさわしい服装をトータルコーディネートしてほしいと伺っておりますが、お間違えないでしょうか」
「はい」
「ドレスと靴、バッグ、ジュエリーを、二パターンご用意してございます。ご覧になっていただけますか」

どうやら奏の秘書があらかじめ百貨店の外商に連絡し、千花の特徴を伝えてコーディネートを頼んでいたらしい。

こうしたサロンに足を踏み入れたことがない千花は、奏に向かってヒソヒソ声で言った。

「ねえ奏、これって……」
「今日のワインイベントに着ていく服、俺がプレゼントするよ。バッグや靴、ジュエリーも含めて」
「えっ、でも……っ」

にこやかな笑みを浮かべた女性外商が「こちらにどうぞ」と奥へと誘導し、千花は焦りをおぼえる。

(どうしよう、百貨店の外商がトータルコーディネートするなんて、安くても数十万はするはず。そんなのをプレゼントされても、わたしは奏にお返しなんてできないよ)

しかし断りきれずに奥へと向かい、ブースの中で手渡されたものに着替える。

最初に試着したのは、優雅なリボンディティールが印象的な、黒のワンピースだった。品のいい光沢とストンとした落ち感のある素材で、左右非対称のネックラインにクチュールらしさが漂っている。

それにダイヤとブルーの色石を連ねて作った垂れ下がるデザインのピアス、チェック生地のコンパクトなパーティーバッグ、ビジューで華やかに彩られたハイヒールを合わせた姿は華やかで、それを見た奏が微笑んで言う。

「きれいだね。もう一着のほうを着たところも見たいな」

もうひとつのコーディネートは、ひとつひとつ手作業で仕上げたという小さなローズモチーフを生地全面に隙間なく縫い付けた、リュクスなデザインのワンピースだった。

デコルテと背中の一部分がシアー素材になっていて、鮮やかな赤が印象的なルビーのピアスとビジューをふんだんにあしらったパーティーバッグ、ストラップ付きのパンプスを合わせたスタイルには可愛らしさもあり、奏が満足そうな顔で告げた。

「甲乙つけがたいけど、今日はこっちにしようか。ヘアメイクもお願いしていいですか?」
「はい、もちろんです。佐久田さま、こちらへ」
「あ、……」

すべてのアイテムを把握しているわけではないものの、大体のブランドの価格帯を知っている千花は、総額を想像して青くなる。

二十分ほどかけてヘアメイクをしてもらい、奏が待っているサロンに戻ると、彼が立ち上がって言った。

「すごくエレガントで、素敵だ。千花さんは着飾ったら絶対きれいだと思ってたけど、想像以上だよ」
「あの、奏……このドレスの代金のことなんだけど」

すると奏がニッコリ笑い、事も無げに言う。

「最初に試着したものも、せっかくだから購入させてもらったんだ。ちょうどいい時間だから、もうイベント会場に行こう」

彼は最初に対応してくれた男性外商に向き直り、礼を述べる。

「急な話にご対応いただき、ありがとうございます。助かりました」
「とんでもございません。お客さまのご要望にお応えするのが、わたくしたち外商の務めてです。ご用意したものがお眼鏡に適い、ようございました」

千花が先ほどまで着ていた服と奏が買い上げた商品は、後で届けてくれるらしい。

スタッフたちに深々と頭を下げられながらサロンを出た千花と奏は、専用エレベーターで階下に向かう。百貨店の外に出たところで、千花は彼に向かって言った。

「ねえ、こういうことは困る。わたしが今着ているものと買い上げたものの総額って、数百万円でしょ。あまりに高額すぎるよ」
「言っただろ、プレゼントだって。俺の婚約者として社交の場に出るなら、それなりの恰好をしてもらわないといけない。いわば必要経費だ」
「それはそうかもしれないけど……っ」
「それに千花さんはきれいだから、着飾らせる甲斐がある。俺の楽しみも増えて、一石二鳥だ」

ニコニコしてそんなことを言われ、千花はムッとして言い返す。

「言っておくけど、あくまでも婚約者の〝ふり〟だよ。わたしは報酬のためにやるんだから、勘違いしないで」
「もちろんそうだよ。忘れてない」