* * *
お昼時を過ぎた午後二時半、神保町にあるカフェはランチタイムの混雑が一段落し、店内はゆったりした雰囲気になっている。
そんな中、窓際の席のテーブルを挟んだ向かい側に座る怜子が驚いた顔で言った。
「えっ、通訳をしてるの? 早瀬くんのところで?」
「うん」
「どうして……」
千花が彼女と会うのは、四日ぶりだ。
青山で行われたイタリアのブランドのプレス発表会に二人で訪れ、そのときの記事の草稿が書き上がったという連絡をしたところ、「せっかくだからお茶をしながら打ち合わせをしよう」と誘われ、こうして怜子の職場近くまで来ている。
彼女の驚きはもっともで、千花はアイスティーのグラスにミルクを注ぎ入れながら答えた。
「わたしが日本に戻ってきた理由は母の病気だって、前に説明したでしょ? 病院に行って主治医から話を聞いたら、思いのほか治療費がかかることがわかったの」
奏からそのことについて聞かれ、世間話の延長でそのことについて話したところ、彼から「フランス語のスキルを活かして通訳をしてほしい」と頼まれた――千花はそう説明し、ストローでグラスを掻き混ぜつつ言葉を続ける。
「医療保険で賄えない分は実費で払うしかないんだけど、いざ収入を増やそうって思っても、ライターが新規案件を獲得しようとすれば地道な営業活動が必要になるんだ。それを察した奏が一日二時間程度、ライターの仕事の合間にメールや書類の翻訳をしたり、商談の際の通訳をしてほしいって提案してきて……それで」
相場よりかなりいい時給で雇うと提案された千花は、迷った末にそれを受けた。
そして先週の金曜から働き始めたが、驚いたのは奏の多忙さだ。彼は社内のさまざまな部署からから上がってくる報告に対応する一方、会社を訪れる国内外のファンド関係者やスタートアップ企業の経営者と面談をしたり、ランチミーティングに出掛けたり、オンライン会議に出席したりと精力的に活動している。
奏は決断が早く、聞かれたことに対して即座に答えを返すか、そうできないときは明確な期限をもうけて返答するようにしており、その意思決定のスピードは目を瞠るばかりだ。
また、「取引先はヨーロッパ圏が多い」と発言していたとおり、メールはフランス語やドイツ語、イタリア語でくるものが多々あり、千花が訳さなければならないのは書類も含めると結構な量になる。
ライターの仕事の合間を縫って一日二時間程度働いているが、いつも終わるまでがあっという間だった。業務量からすると二時間では足りないような気がするものの、奏は「千花さんの無理のない範囲でいいよ」と言ってくれている。
するとそれを聞いた怜子が、ふいに問いかけてくる。
「ねえ、このあいだのプレス発表会の日に私、『早瀬くんを振ったのを後悔してるんじゃない?』って聞いたでしょ。あのとき千花は否定してたけど、やっぱり惜しいっていう気持ちがあるから、そうやって関わりを持ってるの?」
「ち、違うよ。奏との関係は、わたしの中では六年前にとっくに終わってるから。でも母の治療費で頭を悩ませているところで『通訳をやらないか』って持ちかけてくれて、渡りに舟だったから引き受けただけ」
それを聞いた彼女が「そっか」と安心したように笑い、アイスコーヒーを一口飲む。
「あのあと早瀬ホールディングスのことを調べてみたら、ものすごく大きい会社でびっくりしちゃった。確かグループの従業員数は約八万人で、連結売上高は約十二兆円だったかな」
「そうなの?」
「うん。そんな大企業の御曹司なんだから、早瀬くんはとんでもないセレブだってことだよね。そこまで家柄がよくて仕事もできる人に釣り合うのって、絶対私たちみたいな庶民じゃないよ。もし千花が復縁してもいいって考えてるなら、『前途多難だよ』って忠告しようと思ってたけど、そうじゃなくて安心した」
怜子の忠告はもっともで、千花はぎこちなく笑いながら答える。
「さっきも言ったとおり、今さら彼とどうこうなる気はないから。あくまでも仕事だけ」
怜子の発言を聞き、改めて奏の家柄の凄さや世間一般の感じ方を再確認した千花は、「お金のために婚約者のふりを了承したなんて、とても言えない」と考える。
(怜子が本当のことを知ったら、きっとわたしを軽蔑するよね。でも婚約者のふりは期間限定でいつかは解消するわけだし、わざわざ怜子に言わなくてもいいかな。だってわたしは、実際に奏と結婚するつもりはないんだから)
そんなふうに結論づけた千花だったが、心がシクリと疼いた。
日本に帰国してからというもの、かつて別れたはずの奏と急接近してしまい、彼との距離感をつかみかねている。
しかも仕事の場所は奏のオフィスで、作業中は二人きりになることが多いが、パソコンの画面を見ながら指示をするときやこちらのディスプレイを覗き込む際など、距離が近いと感じることが多々あった。
(後ろから覆い被さるようにマウスを使われるときとか、奏の顔がすぐ傍にあってドキドキしちゃう。相変わらず整った顔をしてるし、何だかいい匂いがするし)
彼がわざとやっているのか、たまたま距離が近くなってしまっているのかは、千花にはわからない。
だが六年前より格段に男らしくなった奏の大きな手やしっかりした体格、端整な顔を間近に感じ、意識している自分に忸怩たる思いがこみ上げる。
「復縁はない」と考えているのなら、明確に線を引くべきだ。そう思うのに、彼を男性として意識しているのは、矛盾しているのではないか。
そもそも奏からは再会した当日に気持ちを仄めかされており、その状況で婚約者兼通訳を引き受けたのは彼の好意を利用しているのに他ならない。そんな考えが頭をかすめ、千花の中で罪悪感が募る。
(わたし……)
その後、原稿の草案の修正点について怜子と打ち合わせ、カフェを出た千花は神宮前に向かった。
早瀬インベストメント・ストラテジーはスタイリッシュなオフィスビルの上層階にあり、ガラス張りのドアを開けて中に入ると、こちらに気づいた社員たちが「お疲れさまです」と声をかけてくれる。
それに挨拶を返した千花は、真っすぐに奏のオフィスに向かった。ドアをノックして中に入ると、デスクに向かって仕事をしていた彼が微笑んで言う。
「千花さん、お疲れさま」
「奏もお疲れさま。今日の仕事は?」
「三十分後に、新規の事業案件で来客があるんだ。モナコの法人だからフランス語で話すらしいんだけど、通訳をしてもらえる?」
今までは翻訳を主にやってきていて、通訳を依頼されたのはこれが初めてだ。
千花は少し緊張しつつ問いかけた。
「えっと、わたしは奏の横にいればいいのかな」
「そうだね。隣りに座って、相手が話した内容を小声で伝えてくれれば助かる。それとこっちの発言を、なるべく正確に相手に伝えてほしい」
これまで多くの海外ブランドに取材をして来た千花は、自分のフランス語は充分ビジネスで通用するレベルだと自負しているものの、通訳は本職ではないためにやはり緊張する。
(でも高い報酬を約束されているんだから、ちゃんとやらなきゃ。引き受けたからには、奏に「仕事を依頼してよかった」って思ってほしいもんね)
千花がそんなふうに考えていると、彼が「それから」と言葉を続け、問いかけてくる。
「今日、夕方以降に時間はあるかな」
「特に用事はないけど、仕事?」
「俺と一緒に出掛けてほしいなと思って」
千花が「それって……」とつぶやくと、奏が説明した。
「代官山のフレンチレストランで、ワインイベントがあるんだ。立食形式で、芸能や経済関係、時計やジュエリーブランドの関係者、アート系の人とか、いろいろな分野の人間が集まる。そこに俺と一緒に出席してほしい」
それはつまり、人前で〝婚約者〟のふりをしろということだ。
ついにそのときが来たことにドキリとしながら、千花は彼を見つめて答える。
「いいけど、それならわたし、一度家に帰らないと。それなりの恰好をしなきゃいけないでしょ」
「ああ、そっか。服装の問題があるんだ」
お昼時を過ぎた午後二時半、神保町にあるカフェはランチタイムの混雑が一段落し、店内はゆったりした雰囲気になっている。
そんな中、窓際の席のテーブルを挟んだ向かい側に座る怜子が驚いた顔で言った。
「えっ、通訳をしてるの? 早瀬くんのところで?」
「うん」
「どうして……」
千花が彼女と会うのは、四日ぶりだ。
青山で行われたイタリアのブランドのプレス発表会に二人で訪れ、そのときの記事の草稿が書き上がったという連絡をしたところ、「せっかくだからお茶をしながら打ち合わせをしよう」と誘われ、こうして怜子の職場近くまで来ている。
彼女の驚きはもっともで、千花はアイスティーのグラスにミルクを注ぎ入れながら答えた。
「わたしが日本に戻ってきた理由は母の病気だって、前に説明したでしょ? 病院に行って主治医から話を聞いたら、思いのほか治療費がかかることがわかったの」
奏からそのことについて聞かれ、世間話の延長でそのことについて話したところ、彼から「フランス語のスキルを活かして通訳をしてほしい」と頼まれた――千花はそう説明し、ストローでグラスを掻き混ぜつつ言葉を続ける。
「医療保険で賄えない分は実費で払うしかないんだけど、いざ収入を増やそうって思っても、ライターが新規案件を獲得しようとすれば地道な営業活動が必要になるんだ。それを察した奏が一日二時間程度、ライターの仕事の合間にメールや書類の翻訳をしたり、商談の際の通訳をしてほしいって提案してきて……それで」
相場よりかなりいい時給で雇うと提案された千花は、迷った末にそれを受けた。
そして先週の金曜から働き始めたが、驚いたのは奏の多忙さだ。彼は社内のさまざまな部署からから上がってくる報告に対応する一方、会社を訪れる国内外のファンド関係者やスタートアップ企業の経営者と面談をしたり、ランチミーティングに出掛けたり、オンライン会議に出席したりと精力的に活動している。
奏は決断が早く、聞かれたことに対して即座に答えを返すか、そうできないときは明確な期限をもうけて返答するようにしており、その意思決定のスピードは目を瞠るばかりだ。
また、「取引先はヨーロッパ圏が多い」と発言していたとおり、メールはフランス語やドイツ語、イタリア語でくるものが多々あり、千花が訳さなければならないのは書類も含めると結構な量になる。
ライターの仕事の合間を縫って一日二時間程度働いているが、いつも終わるまでがあっという間だった。業務量からすると二時間では足りないような気がするものの、奏は「千花さんの無理のない範囲でいいよ」と言ってくれている。
するとそれを聞いた怜子が、ふいに問いかけてくる。
「ねえ、このあいだのプレス発表会の日に私、『早瀬くんを振ったのを後悔してるんじゃない?』って聞いたでしょ。あのとき千花は否定してたけど、やっぱり惜しいっていう気持ちがあるから、そうやって関わりを持ってるの?」
「ち、違うよ。奏との関係は、わたしの中では六年前にとっくに終わってるから。でも母の治療費で頭を悩ませているところで『通訳をやらないか』って持ちかけてくれて、渡りに舟だったから引き受けただけ」
それを聞いた彼女が「そっか」と安心したように笑い、アイスコーヒーを一口飲む。
「あのあと早瀬ホールディングスのことを調べてみたら、ものすごく大きい会社でびっくりしちゃった。確かグループの従業員数は約八万人で、連結売上高は約十二兆円だったかな」
「そうなの?」
「うん。そんな大企業の御曹司なんだから、早瀬くんはとんでもないセレブだってことだよね。そこまで家柄がよくて仕事もできる人に釣り合うのって、絶対私たちみたいな庶民じゃないよ。もし千花が復縁してもいいって考えてるなら、『前途多難だよ』って忠告しようと思ってたけど、そうじゃなくて安心した」
怜子の忠告はもっともで、千花はぎこちなく笑いながら答える。
「さっきも言ったとおり、今さら彼とどうこうなる気はないから。あくまでも仕事だけ」
怜子の発言を聞き、改めて奏の家柄の凄さや世間一般の感じ方を再確認した千花は、「お金のために婚約者のふりを了承したなんて、とても言えない」と考える。
(怜子が本当のことを知ったら、きっとわたしを軽蔑するよね。でも婚約者のふりは期間限定でいつかは解消するわけだし、わざわざ怜子に言わなくてもいいかな。だってわたしは、実際に奏と結婚するつもりはないんだから)
そんなふうに結論づけた千花だったが、心がシクリと疼いた。
日本に帰国してからというもの、かつて別れたはずの奏と急接近してしまい、彼との距離感をつかみかねている。
しかも仕事の場所は奏のオフィスで、作業中は二人きりになることが多いが、パソコンの画面を見ながら指示をするときやこちらのディスプレイを覗き込む際など、距離が近いと感じることが多々あった。
(後ろから覆い被さるようにマウスを使われるときとか、奏の顔がすぐ傍にあってドキドキしちゃう。相変わらず整った顔をしてるし、何だかいい匂いがするし)
彼がわざとやっているのか、たまたま距離が近くなってしまっているのかは、千花にはわからない。
だが六年前より格段に男らしくなった奏の大きな手やしっかりした体格、端整な顔を間近に感じ、意識している自分に忸怩たる思いがこみ上げる。
「復縁はない」と考えているのなら、明確に線を引くべきだ。そう思うのに、彼を男性として意識しているのは、矛盾しているのではないか。
そもそも奏からは再会した当日に気持ちを仄めかされており、その状況で婚約者兼通訳を引き受けたのは彼の好意を利用しているのに他ならない。そんな考えが頭をかすめ、千花の中で罪悪感が募る。
(わたし……)
その後、原稿の草案の修正点について怜子と打ち合わせ、カフェを出た千花は神宮前に向かった。
早瀬インベストメント・ストラテジーはスタイリッシュなオフィスビルの上層階にあり、ガラス張りのドアを開けて中に入ると、こちらに気づいた社員たちが「お疲れさまです」と声をかけてくれる。
それに挨拶を返した千花は、真っすぐに奏のオフィスに向かった。ドアをノックして中に入ると、デスクに向かって仕事をしていた彼が微笑んで言う。
「千花さん、お疲れさま」
「奏もお疲れさま。今日の仕事は?」
「三十分後に、新規の事業案件で来客があるんだ。モナコの法人だからフランス語で話すらしいんだけど、通訳をしてもらえる?」
今までは翻訳を主にやってきていて、通訳を依頼されたのはこれが初めてだ。
千花は少し緊張しつつ問いかけた。
「えっと、わたしは奏の横にいればいいのかな」
「そうだね。隣りに座って、相手が話した内容を小声で伝えてくれれば助かる。それとこっちの発言を、なるべく正確に相手に伝えてほしい」
これまで多くの海外ブランドに取材をして来た千花は、自分のフランス語は充分ビジネスで通用するレベルだと自負しているものの、通訳は本職ではないためにやはり緊張する。
(でも高い報酬を約束されているんだから、ちゃんとやらなきゃ。引き受けたからには、奏に「仕事を依頼してよかった」って思ってほしいもんね)
千花がそんなふうに考えていると、彼が「それから」と言葉を続け、問いかけてくる。
「今日、夕方以降に時間はあるかな」
「特に用事はないけど、仕事?」
「俺と一緒に出掛けてほしいなと思って」
千花が「それって……」とつぶやくと、奏が説明した。
「代官山のフレンチレストランで、ワインイベントがあるんだ。立食形式で、芸能や経済関係、時計やジュエリーブランドの関係者、アート系の人とか、いろいろな分野の人間が集まる。そこに俺と一緒に出席してほしい」
それはつまり、人前で〝婚約者〟のふりをしろということだ。
ついにそのときが来たことにドキリとしながら、千花は彼を見つめて答える。
「いいけど、それならわたし、一度家に帰らないと。それなりの恰好をしなきゃいけないでしょ」
「ああ、そっか。服装の問題があるんだ」
