藍色の溺愛〜あなたの声が好きすぎて〜

「今、新曲作っててさ。聴いてくれる?」

「聴きたいです!」

月哉は、立ち上がると、ベンチの真ん中にスマホを置いた。

スマホの画面をタップする月哉の指先。

「まだ仮歌だし、ベースも打ち込みだけど」

スマホの内蔵スピーカーから流れるデモ音源。確かに、ベースの音は、まだ機械的だったけれど、そんなのはどうでもいいくらい、月哉のリアルで赤裸々な歌声が流れ出す。
 
ライブハウスの音とは全く違う、耳元で囁かれているような錯覚に落ちる。
 

ー*ー*ー*


音が途切れ、曲が終わった瞬間の余韻が胸の中にゆっくりと沈んでいく。

夜風の音だけが静かに戻ってきた。タイムトリップしていたかのように。

月哉はスマホの画面をタップすると、私の横顔を見つめながら、「どうだった?」とほんの少しだけ不安そうに聞いた。

私は胸がいっぱいで。

月哉のリアルで赤裸々な歌声が、熱となって今も耳を刺激している。耳の奥でループして離れない。未知数なイメージ世界に感覚が引き起こされる。身体の芯が熱くて、涙が出そう。こんな感覚になったのは初めてだ。

今なら、月哉のことが、心の底から、わかる気がする。壊れることのない揺らぎの中にある、確かな想い。

「好きです。あっ、ごめんなさい。好きって言葉しか出てこなくて。好きです、この曲!」

「そっか。なら、よかった」

月哉は、この曲で正解だったと納得するように頷くと、安堵した様子で柔らかい表情になった。私がまだ知らなかった開放感のあるその表情が、たまらなく愛おしい。

私は今まで、月哉は言葉を紡ぐことが上手で、才能の塊、みたいな人だと思っていた。いや、才能の塊であることに間違いはないけれど。でも、計り知れないようなプレッシャーや縛りの中で曲を作っているのかもしれない。

ビールのタイアップを取るのも、そんなに簡単じゃなかったはず。

歌詞のセンスやクオリティの高いメロディーだけでは手が届かないところに、しっかりと、心が昇華して届いている。その世界は、藍色。

私も藍色に染められたい。心に映る過去の苦い残像や痛みも、明日の爽やかな朝陽でさえも、藍色に染められたい。

「あのさっ」

月哉は、そう言い掛けた自分の言葉を打ち消すように、ビールをゴクゴクと飲み干した。

「ごめん、俺、だいぶ引き留めちゃったな。琴音さんのご両親に心配かけちゃうな」

「一人暮らしだから、平気です」

「そっか。でも女の子だからさ。ちゃんと帰さないと」

女の子って、言われると息苦しいくらい胸の奥がキュンとなって、嬉しいと感じてしまう。

スマホを見ると、もう終電は過ぎた後で。
そもそも『アーバンベリー』は、会場を借り切っている時間ぎりぎりまでライブをしてくれる。

私はそれを知っていて、呟いた。

「終電、もうないですね」

「大丈夫。タクシー止めるから、待ってて」

月哉は、緑に優しく包まれた公園から大通りに出ると、目を凝らし、見つけたタクシーに手を挙げた。

渋滞を振りほどいたタクシーのヘッドライトの光が滑り込んで来る。

眩しい。

私は、月哉のテーラードジャケットの裾を掴んだ。

月哉は、それを望んでいたかのように手を下ろす。

タクシーが何事もなかったかのように、ふたりの前を通り過ぎてゆく。タイヤのロードノイズが闇の向こうへ消えた。

ふたりだけの世界が、またゆっくりと静寂の中に広がっていく。幸せが浮かび上がって、月哉と私の鼓動が重なった気がした。

「あの曲のタイトル、まだ決まってなくて。今夜、一緒に考えてくれる?」

月哉の甘い声に、私は、黙って頷いた。

「じゃあ、今夜は耳元で言ってあげる。『おやすみ。ゆっくり休んでね』って」

その時の私は、まだ知らなかった。その言葉をこれからも耳元で言ってもらえるようになることを。

そして、愛し合った後、月哉の胸の中で安心して眠れる心地よさを。

これが、月哉の溺愛の始まりだった。激しいだけではない、心地よい揺らぎを秘めた『藍色の溺愛』。

この愛は、まだ、ふたりだけの秘密。惜しみない愛が注がれる。もう、急いで暗がりで転んだりしない。涙で滲んだ心の裏側が癒されていく。

月哉は私を優しく抱き寄せた。

いつもはギターを弾いている長い繊細な指で、私の唇をそっとなぞる。藍色に染まった夜風の中で、月哉の唇が、私のわずかに濡れた唇を優しく塞いだ。 


『藍色の溺愛〜あなたの声が好きすぎて〜』END