壁の花がいたので婚約破棄させて連れ帰ってみた。


「このクッキーも美味しいです! こんなに美味しいクッキー、初めて食べましただ。クッキーってこんなにバターの香りや味がするものなのですねっ。すごいっ! 本だけではわからないことも、あるんだ……」
「本が好きなのだな」

 パーティーの会場でも熱心に読んでいた。
 だからと思ってそう聞くと、眼鏡の奥の新緑のひとみが輝く。

「はい! はい! 大好きです! もしかして、ジルグロッセ殿下も本がお好きなのですが!?」
「ぐ」
「ジルグロッセ殿下……!? 胸を押さえられてらどうかされたのですか!? 痛いんですか!?」
「い、いや。大丈夫だ。なにも問題ない」

 控えていた使用人たちも心配そうにする中、また席を立ち上がって心配してくれるシャーリーにますます胸が痛くなる。
 先程までのふわふわしたものはそのままに、呼吸が苦しい。
 だから思わず、咄嗟に胸を押さえた。
 怪我をしたわけでもないのに圧迫感すら感じるこの痛みは――?

「本、本は――戦術書のようなものしか、読まない」
「戦術書ですか! 私が通う図書館には見当たらないです。どこに置いてあるのでしょう? 私も読んでみたいです!」
「本国にある」
「本がお好きなのですね。ロゲオス首都の国公図書館などに置いてあり、帝国民であれば平民でも読むことはできますよ。属国の国民では図書館入場に厳しい条件がありますが」
「国公図書館……! も、ものすごく大きそうです、ね!?」
「大きいですね。国中の出版書籍はかならず国公図書館に蔵書申請しなければなりませんから。城の図書室にはそれ以外の属国にある貴重な書籍が集められているので、本がお好きなら嫁いできたあとに行ってみてはいかがですか?」
「私も入れるんですか!?」

 ものすごい食いつき。
 兄はにこやかに「ええ。ですから、弟のこと、どうぞ前向きにご検討ください」と告げる。
 それに対して目の前の“本”しか見えていない状態になっているような。
 本が本当に好きなのだろう。

「シャレルット嬢はどんな本が好きなのだ?」
「私はなんでも読みます!」
「特に好きなもの、などは?」
「ええと、特に好きなもの……。ううん……読める物ならなんでも……。本当になんでも好きです!」
「そうか」
「あ、でも今まで読んだもので勉強になったのは農業系の書籍で、感情が揺さぶられたのは女性が主人公の物語です。今までで二冊しか読んだことがないんですが……女性が主人公の物語というのがものすごく珍しくて夢中になって読みふけってしまったのを覚えています。でも男性主人公の伝記も面白くて読みます!」
「昨日読んでいたのは?」
「昨日読んでいたのは史実を元にした伝記です。セルジュール様の叔父様がお引越しされるとのことなので、蔵書の一部を譲っていただきましたの。すべて古本なのですが、異国から輸入したものもあり面白かったです!」

 本の話になると、途端に饒舌になるシャーリー。
 自分に対して笑顔を向けるのは家族だけ。
 戦場で笑みなど相手への威圧の時にしか使わない。
 だが彼女は楽しそう。

(俺の身分も通り名も、知ってなお笑顔を向けるのか)

 衝撃に近い。
 他人の笑顔などに関心を抱いたこともないのだが、どうにも彼女の笑顔にはなにか、特別な魔力のようなものがある。
 魅了の魔法でもかかっているのか?
 目が離せない。
 もちろん、もしも本当に魅了の魔法を振りまいていたら自分にも周囲の者にもすぐわかる。
 そもそも、魔力を持つ人間自体が少ない。
 先祖、あるいは血縁に聖人、聖女がいなければ、魔法はおろか魔力も発言しないのだ。
 幸い皇族は全員魔力を得られたが、彼女はどう見ても魔力も持たない一般的な貴族。
 魅了の魔法を使われている可能性は、ない。
 では、これはいったいなんなのか。

「勤勉なのですね。本を読むことはいいことです」
「あ、ありがとうございます」
「さて、早いものでそろそろお時間ですね。今日はお時間をとらせて申し訳ありません。来ていただきありがとうございます」
「あ、いいえ! そんな……こちらこそ……!」
「お父様とジルグロッセとの婚約について、よくお話しください。回答は急かしたくないのですが、我々が帰国するのが明日なのでできるだけ早めに頼みます」
「は、はい。父と話してみます」

 本の話をしている時はあんなに楽しそうにしていたのに、兄が話しかけると唐突に恐縮し始める。
 ぺこぺこ頭を執拗なまでに下げて、実に不思議な娘だと思う。
 お土産に先程「美味しい」と食べていたクッキーを缶で渡し、改めて「お気をつけて」と送り出す。
 使用人たちに案内されて部屋から出ていく彼女を、最後まで目で追ってしまった。
 ばたん、と扉が閉まってから兄がソファーの方へと移動するので、それに続く。

「……あれは、なんというか、その……すごいな」
「すごいのか?」
「ああ。とても、その……見たことがないぐらいに“普通”の娘だ。ジルの好みがあんな素朴な少女だったとは思わなかったな」
「好み……?」

 首を傾げる。
 なぜか目を丸くして見つめられ、変な笑顔を浮かべる兄。
 さらに、部屋に控える使用人たちにまで生温かい眼差しで微笑まれる。

「なんだ?」