トルガ・ラグレイが通されたのは、王宮の奥にある小さな応接室だった。
広すぎる謁見の間ではない。
玉座もない。
ただ、磨かれた床と、重厚な机と、壁際に置かれた数脚の椅子があるだけの部屋。
クラルシアは、そこで彼を待っていた。
ロゼと親衛隊は、隣室に控えている。
扉一枚を隔てた向こう。
声を上げれば、すぐに踏み込める距離だった。
それでも、部屋の中にいるのはクラルシアとトルガだけだった。
扉が開く。
その瞬間、クラルシアは思わず息を止めた。
高い。
まず、そう思った。
クラルシアの身長は、百五十にも満たない。
女としても小柄な方だ。
対して、目の前の男は百八十を優に越えているように見えた。
黒い外套は泥を被っている。
手入れの悪い黒髪。
鋭すぎる目。
引き込まれるほど端正な顔立ちだがなぜか綺麗に見えない。
それは王宮の男たちのように磨かれた美しさではなかった。
まるで刃物のよう。
飢えと路地裏と喧嘩で、余分なものだけを削ぎ落としたような身体。
王都の泥と血の匂いに、あまりにも馴染んだ男。
この人が。
聖ルミナ教会に所縁のある人。
クラルシアは、どうしてもそう思えなかった。
あの白鐘の小教会。
シスター・テレサの声。
薄いスープ。
朝の祈り。
古びた木の床に落ちる、柔らかな光。
それらと、目の前の男が結びつかない。
けれど、クラルシアは女王として姿勢を正した。
「はじめまして」
声は、思っていたよりも静かに出た。
「わたくしは、ヴァイスヴェール王国女王、クラルシア・ヴァイスヴェールと申します。貴方が、トルガ・ラグレイ様ご本人でお間違いないでしょうか」
トルガは、すぐには答えなかった。
代わりに、部屋の中を一瞥する。
壁。
窓。
扉。
隣室へ続く気配。
逃げ道と、隠れた護衛の位置を、目だけで測っているようだった。
そして、クラルシアへ視線を戻す。
「俺と一対一か」
低い声だった。
「舐めてんのか」
クラルシアは息を呑む。
トルガは続けた。
「死にてえのか」
その瞬間、隣室の空気が変わった。
扉の向こうで、微かな金属音がした。
ロゼと親衛隊が、いつでも踏み込めるように身構えたのだろう。
けれど、クラルシアは不思議と怖くなかった。
トルガの言葉は乱暴だった。
ひどく無礼だった。
けれど、この男は本気で自分を殺そうとしているわけではない。
不思議だが、そう思った。
女王が、下層区の危険人物と二人きりで会おうとするなど正気ではない。
そう注意されているようにさえ感じた。
クラルシアは、まっすぐ彼を見上げた。
「鐘の音を、覚えていますか?」
トルガの眉が、わずかに動いた。
「おまえのことは覚えてる」
「……わたくしを?」
「ああ」
トルガは、淡々と言った。
「ばばあの後ろに隠れてた、金髪のちっこいガキだ」
クラルシアは目を瞬かせた。
「まさか王宮の人間だったとはな」
トルガは薄く目を細める。
「納得した」
「納得、とは?」
「あの教会に、似合ってなかった」
その言葉は、クラルシアの胸を小さく刺した。
似合っていなかった。
聖ルミナ教会は、クラルシアにとって初めて人として育てられた場所だった。
母を失い、父に捨てられた幼い自分が、ようやく息をしてもいいと思えた場所だった。
その場所にいた自分さえ、場違いだったと言われたような気がした。
怒りなのか、悲しみなのか分からないものが込み上げる。
クラルシアの指先に、わずかに力が入った。
「わたくしは、鐘の音を覚えているかと聞いています」
声に、少しだけ怒気が混じった。
そのことに、クラルシア自身が一番驚いていた。
この男が本当に聖ルミナ教会にいたのか。
本当に白鐘の小教会を知っているのか。
シスター・テレサを知っているのか。
それを確かめたかった。
ただ、それだけだった。
トルガは、面倒くさそうに息を吐いた。
「駆け引きに向いてねえな」
「……駆け引きなどしていません」
「なら、余計に向いてねえ」
クラルシアは、むっとした。
けれど、不思議と嫌悪はなかった。
王宮の者たちは、もっと陰湿な言葉で心を削ってくる。
褒め言葉の形をした命令。
敬意の形をした侮蔑。
優しさの形をした支配。
だが、目の前の男は違う。
無礼で、粗野で、言葉に棘がある。
しかし、まっすぐだった。
そのまっすぐさに、逆に調子が狂う。
「……では、質問を変えます」
クラルシアは、ほんの少しだけ唇を尖らせた。
「鐘の音は、いつ聞いていましたか?」
トルガは片眉を上げた。
「毎朝だ」
「毎朝……」
「夜明け前から鳴らしやがった。寝てるガキも、寝たふりのガキも、まとめて起こす鐘だ」
クラルシアの胸が、どくりと鳴った。
「忘れるわけねえ」
朝。
白鐘は、朝にしか鳴らなかった。
クラルシアは認めざるを得なかった。
この男は、本当に聖ルミナ教会を知っている。
あの鐘を知っている。
あの朝を知っている。
なのに、素直に喜べなかった。
目の前の男は、あまりにも乱暴だった。
聖ルミナ教会の記憶を、土足で踏み荒らされているような気がした。
トルガは、ふと視線を窓の方へ逸らした。
「最後まで鳴ってたらしいな」
低く、吐き捨てるように言う。
「パンだけ渡しておいて、勝手にくたばりやがった」
クラルシアの呼吸が止まった。
トルガは続けた。
「哀れなばばあだ」
その瞬間、クラルシアの中で何かが切れた。
「……やめて」
声が震えた。
けれど、自分でも驚くほどはっきり響いた。
「そんな言い方、しないで」
トルガが目を戻す。
クラルシアは、涙を堪えたままトルガを睨みつけた。
睨んだつもりだった。
けれど、その瞳は怒りよりも、縋るような痛みに濡れていた。
女王として整えた表情も、静かな声も、すべて剥がれ落ちていた。
「テレサ様は、そんなふうに言われていい人じゃない」
声が震える。
「わたしに、パンをくれたの。食べていいって言ってくれたの。ここにいていいって、生きていていいって、価値があるって……そう言ってくれた人なの」
涙が滲む。
止めたいのに、止められない。
「あなたが本当に聖ルミナ教会にいたなら、分かるはずでしょう? テレサ様が、どんな人だったか」
もう女王の声ではない。
王宮で求められる、静かで、澄んで、傷ついていないふりをする声ではない。
白鐘の小教会で泣いていた、幼い少女の声だった。
「テレサ様は……わたしが何も持っていなかった時に……それでも、ここにいていいって……」
息が切れた。
涙が落ちた。
「だから……そんな言い方、しないでよ……」
最後の言葉は、ほとんど嗚咽に近かった。
トルガは黙っていた。
先ほどまでの冷えた表情が、ほんの少しだけ変わる。
苛立ちではない。
戸惑いでもない。
ただ、目の前の少女を泣かせたのだと理解した顔だった。
しばらくして、トルガは低く言った。
「……さっきのは撤回する」
クラルシアは涙に濡れた目で彼を見上げた。
「撤回、ですか」
「ああ」
「言えば、なかったことになるのですか」
「ならねえ」
トルガは短く答えた。
「悪かった」
謝罪というには、あまりにも短かった。
けれど、その声に嘘はなかった。
クラルシアは唇を噛んだ。
「酷いです」
「知ってる」
「最低です」
「そうだな」
「テレサ様を……哀れなんて、言わないで」
「分かった」
やり取りは短い。
優しさも、慰めも、ほとんどない。
それなのに、クラルシアの胸の奥で、固く凍っていたものが少しだけ揺れた。
トルガは、一歩だけ近づいた。
隣室の気配が膨れ上がる。
「動くな!」
ロゼの声が、扉越しに響いた。
トルガは足を止めた。
だが、振り返らなかった。
ただ、泣いているクラルシアを見下ろす。
「泣くな」
「あなたが泣かせたんです」
「そうだな」
トルガは、少しだけ目を伏せた。
「だから撤回した」
「それで済むと思っているのですか」
「思ってねえ」
トルガは言った。
「殴りたきゃ殴れ」
「……え?」
「泣かせた分だ」
言葉の意味が分からず、クラルシアは固まった。
その隙に、トルガの腕が伸びた。
乱暴ではなかった。
けれど、慣れてもいなかった。
たぶん、昔のテレサがそうしていた。
泣いている子供を、そうやって抱き寄せていた。
トルガには、それくらいしか思いつかなかった。
クラルシアの小さな身体は、トルガの腕の中にすっぽりと収まった。
黒い外套の匂い。
雨と泥と、わずかな血の匂い。
王宮の香ではない。
花でも、香油でもない。
それなのに、不思議と息ができた。
クラルシアは何が起こったのか分からず、固まっていた。
隣室のロゼと親衛隊も、同じだった。
踏み込むべきか。
止めるべきか。
剣を向けるべきか。
けれど、トルガには殺気がなかった。
ただ、ひどく不器用に、泣いている女王を抱きしめていた。
「……あのばばあは」
クラルシアの頭上で、トルガが低く言った。
「スラムのガキにも、同じパンを寄越した」
その声は、先ほどよりずっと静かだった。
「盗人にも、嘘つきにも、同じだ」
クラルシアの涙が、また落ちた。
「殴らずに名前を呼ぶ大人なんざ」
トルガは短く息を吐いた。
「俺は、あいつしか知らねえ」
クラルシアは、トルガの外套を掴んだ。
「だったら……」
震える声で言う。
「だったら、どうしてあんな言い方をするの」
「知らねえ」
トルガは、少しだけ腕に力を込めた。
「綺麗な言い方を知らねえ」
それは、言い訳にもならない言葉だった。
けれど、クラルシアには分かった。
この男は、テレサ様を忘れていない。
聖ルミナ教会を、忘れていない。
あの朝のパンを、忘れていない。
ただ、失ったものを綺麗に惜しむ方法を知らないだけなのだ。
クラルシアは、トルガの胸元に額を寄せたまま、小さく息を吸った。
まだ怖い。
まだ腹立たしい。
無礼で、乱暴で、どうしようもなく口が悪い。
けれど。
この男は、本当に聖ルミナ教会を知っている。
その事実だけが、胸の奥で白鐘のように震えていた。
そして、もう一つ。
クラルシアは、認めたくないまま気づいてしまった。
この腕の中は、怖くない。
それどころか。
ほんの少しだけ、息ができる。
その事実に驚いた瞬間、張り詰めていた糸が、ふつりと切れた。
「……あ」
視界が白く滲む。
膝から力が抜けた。
トルガの腕が、反射的にクラルシアの身体を支える。
隣室の扉が、勢いよく開いた。
「陛下!」
ロゼの叫びが、遠く聞こえた。
クラルシアは、もう目を開けていられなかった。
最後に感じたのは、硬い腕の温度だった。
雨と泥と血の匂いがする、黒い腕。
シスター・テレサとは何もかも違う。
それなのに、なぜかひどく懐かしかった。
そこで、クラルシアの意識は白く途切れた。
広すぎる謁見の間ではない。
玉座もない。
ただ、磨かれた床と、重厚な机と、壁際に置かれた数脚の椅子があるだけの部屋。
クラルシアは、そこで彼を待っていた。
ロゼと親衛隊は、隣室に控えている。
扉一枚を隔てた向こう。
声を上げれば、すぐに踏み込める距離だった。
それでも、部屋の中にいるのはクラルシアとトルガだけだった。
扉が開く。
その瞬間、クラルシアは思わず息を止めた。
高い。
まず、そう思った。
クラルシアの身長は、百五十にも満たない。
女としても小柄な方だ。
対して、目の前の男は百八十を優に越えているように見えた。
黒い外套は泥を被っている。
手入れの悪い黒髪。
鋭すぎる目。
引き込まれるほど端正な顔立ちだがなぜか綺麗に見えない。
それは王宮の男たちのように磨かれた美しさではなかった。
まるで刃物のよう。
飢えと路地裏と喧嘩で、余分なものだけを削ぎ落としたような身体。
王都の泥と血の匂いに、あまりにも馴染んだ男。
この人が。
聖ルミナ教会に所縁のある人。
クラルシアは、どうしてもそう思えなかった。
あの白鐘の小教会。
シスター・テレサの声。
薄いスープ。
朝の祈り。
古びた木の床に落ちる、柔らかな光。
それらと、目の前の男が結びつかない。
けれど、クラルシアは女王として姿勢を正した。
「はじめまして」
声は、思っていたよりも静かに出た。
「わたくしは、ヴァイスヴェール王国女王、クラルシア・ヴァイスヴェールと申します。貴方が、トルガ・ラグレイ様ご本人でお間違いないでしょうか」
トルガは、すぐには答えなかった。
代わりに、部屋の中を一瞥する。
壁。
窓。
扉。
隣室へ続く気配。
逃げ道と、隠れた護衛の位置を、目だけで測っているようだった。
そして、クラルシアへ視線を戻す。
「俺と一対一か」
低い声だった。
「舐めてんのか」
クラルシアは息を呑む。
トルガは続けた。
「死にてえのか」
その瞬間、隣室の空気が変わった。
扉の向こうで、微かな金属音がした。
ロゼと親衛隊が、いつでも踏み込めるように身構えたのだろう。
けれど、クラルシアは不思議と怖くなかった。
トルガの言葉は乱暴だった。
ひどく無礼だった。
けれど、この男は本気で自分を殺そうとしているわけではない。
不思議だが、そう思った。
女王が、下層区の危険人物と二人きりで会おうとするなど正気ではない。
そう注意されているようにさえ感じた。
クラルシアは、まっすぐ彼を見上げた。
「鐘の音を、覚えていますか?」
トルガの眉が、わずかに動いた。
「おまえのことは覚えてる」
「……わたくしを?」
「ああ」
トルガは、淡々と言った。
「ばばあの後ろに隠れてた、金髪のちっこいガキだ」
クラルシアは目を瞬かせた。
「まさか王宮の人間だったとはな」
トルガは薄く目を細める。
「納得した」
「納得、とは?」
「あの教会に、似合ってなかった」
その言葉は、クラルシアの胸を小さく刺した。
似合っていなかった。
聖ルミナ教会は、クラルシアにとって初めて人として育てられた場所だった。
母を失い、父に捨てられた幼い自分が、ようやく息をしてもいいと思えた場所だった。
その場所にいた自分さえ、場違いだったと言われたような気がした。
怒りなのか、悲しみなのか分からないものが込み上げる。
クラルシアの指先に、わずかに力が入った。
「わたくしは、鐘の音を覚えているかと聞いています」
声に、少しだけ怒気が混じった。
そのことに、クラルシア自身が一番驚いていた。
この男が本当に聖ルミナ教会にいたのか。
本当に白鐘の小教会を知っているのか。
シスター・テレサを知っているのか。
それを確かめたかった。
ただ、それだけだった。
トルガは、面倒くさそうに息を吐いた。
「駆け引きに向いてねえな」
「……駆け引きなどしていません」
「なら、余計に向いてねえ」
クラルシアは、むっとした。
けれど、不思議と嫌悪はなかった。
王宮の者たちは、もっと陰湿な言葉で心を削ってくる。
褒め言葉の形をした命令。
敬意の形をした侮蔑。
優しさの形をした支配。
だが、目の前の男は違う。
無礼で、粗野で、言葉に棘がある。
しかし、まっすぐだった。
そのまっすぐさに、逆に調子が狂う。
「……では、質問を変えます」
クラルシアは、ほんの少しだけ唇を尖らせた。
「鐘の音は、いつ聞いていましたか?」
トルガは片眉を上げた。
「毎朝だ」
「毎朝……」
「夜明け前から鳴らしやがった。寝てるガキも、寝たふりのガキも、まとめて起こす鐘だ」
クラルシアの胸が、どくりと鳴った。
「忘れるわけねえ」
朝。
白鐘は、朝にしか鳴らなかった。
クラルシアは認めざるを得なかった。
この男は、本当に聖ルミナ教会を知っている。
あの鐘を知っている。
あの朝を知っている。
なのに、素直に喜べなかった。
目の前の男は、あまりにも乱暴だった。
聖ルミナ教会の記憶を、土足で踏み荒らされているような気がした。
トルガは、ふと視線を窓の方へ逸らした。
「最後まで鳴ってたらしいな」
低く、吐き捨てるように言う。
「パンだけ渡しておいて、勝手にくたばりやがった」
クラルシアの呼吸が止まった。
トルガは続けた。
「哀れなばばあだ」
その瞬間、クラルシアの中で何かが切れた。
「……やめて」
声が震えた。
けれど、自分でも驚くほどはっきり響いた。
「そんな言い方、しないで」
トルガが目を戻す。
クラルシアは、涙を堪えたままトルガを睨みつけた。
睨んだつもりだった。
けれど、その瞳は怒りよりも、縋るような痛みに濡れていた。
女王として整えた表情も、静かな声も、すべて剥がれ落ちていた。
「テレサ様は、そんなふうに言われていい人じゃない」
声が震える。
「わたしに、パンをくれたの。食べていいって言ってくれたの。ここにいていいって、生きていていいって、価値があるって……そう言ってくれた人なの」
涙が滲む。
止めたいのに、止められない。
「あなたが本当に聖ルミナ教会にいたなら、分かるはずでしょう? テレサ様が、どんな人だったか」
もう女王の声ではない。
王宮で求められる、静かで、澄んで、傷ついていないふりをする声ではない。
白鐘の小教会で泣いていた、幼い少女の声だった。
「テレサ様は……わたしが何も持っていなかった時に……それでも、ここにいていいって……」
息が切れた。
涙が落ちた。
「だから……そんな言い方、しないでよ……」
最後の言葉は、ほとんど嗚咽に近かった。
トルガは黙っていた。
先ほどまでの冷えた表情が、ほんの少しだけ変わる。
苛立ちではない。
戸惑いでもない。
ただ、目の前の少女を泣かせたのだと理解した顔だった。
しばらくして、トルガは低く言った。
「……さっきのは撤回する」
クラルシアは涙に濡れた目で彼を見上げた。
「撤回、ですか」
「ああ」
「言えば、なかったことになるのですか」
「ならねえ」
トルガは短く答えた。
「悪かった」
謝罪というには、あまりにも短かった。
けれど、その声に嘘はなかった。
クラルシアは唇を噛んだ。
「酷いです」
「知ってる」
「最低です」
「そうだな」
「テレサ様を……哀れなんて、言わないで」
「分かった」
やり取りは短い。
優しさも、慰めも、ほとんどない。
それなのに、クラルシアの胸の奥で、固く凍っていたものが少しだけ揺れた。
トルガは、一歩だけ近づいた。
隣室の気配が膨れ上がる。
「動くな!」
ロゼの声が、扉越しに響いた。
トルガは足を止めた。
だが、振り返らなかった。
ただ、泣いているクラルシアを見下ろす。
「泣くな」
「あなたが泣かせたんです」
「そうだな」
トルガは、少しだけ目を伏せた。
「だから撤回した」
「それで済むと思っているのですか」
「思ってねえ」
トルガは言った。
「殴りたきゃ殴れ」
「……え?」
「泣かせた分だ」
言葉の意味が分からず、クラルシアは固まった。
その隙に、トルガの腕が伸びた。
乱暴ではなかった。
けれど、慣れてもいなかった。
たぶん、昔のテレサがそうしていた。
泣いている子供を、そうやって抱き寄せていた。
トルガには、それくらいしか思いつかなかった。
クラルシアの小さな身体は、トルガの腕の中にすっぽりと収まった。
黒い外套の匂い。
雨と泥と、わずかな血の匂い。
王宮の香ではない。
花でも、香油でもない。
それなのに、不思議と息ができた。
クラルシアは何が起こったのか分からず、固まっていた。
隣室のロゼと親衛隊も、同じだった。
踏み込むべきか。
止めるべきか。
剣を向けるべきか。
けれど、トルガには殺気がなかった。
ただ、ひどく不器用に、泣いている女王を抱きしめていた。
「……あのばばあは」
クラルシアの頭上で、トルガが低く言った。
「スラムのガキにも、同じパンを寄越した」
その声は、先ほどよりずっと静かだった。
「盗人にも、嘘つきにも、同じだ」
クラルシアの涙が、また落ちた。
「殴らずに名前を呼ぶ大人なんざ」
トルガは短く息を吐いた。
「俺は、あいつしか知らねえ」
クラルシアは、トルガの外套を掴んだ。
「だったら……」
震える声で言う。
「だったら、どうしてあんな言い方をするの」
「知らねえ」
トルガは、少しだけ腕に力を込めた。
「綺麗な言い方を知らねえ」
それは、言い訳にもならない言葉だった。
けれど、クラルシアには分かった。
この男は、テレサ様を忘れていない。
聖ルミナ教会を、忘れていない。
あの朝のパンを、忘れていない。
ただ、失ったものを綺麗に惜しむ方法を知らないだけなのだ。
クラルシアは、トルガの胸元に額を寄せたまま、小さく息を吸った。
まだ怖い。
まだ腹立たしい。
無礼で、乱暴で、どうしようもなく口が悪い。
けれど。
この男は、本当に聖ルミナ教会を知っている。
その事実だけが、胸の奥で白鐘のように震えていた。
そして、もう一つ。
クラルシアは、認めたくないまま気づいてしまった。
この腕の中は、怖くない。
それどころか。
ほんの少しだけ、息ができる。
その事実に驚いた瞬間、張り詰めていた糸が、ふつりと切れた。
「……あ」
視界が白く滲む。
膝から力が抜けた。
トルガの腕が、反射的にクラルシアの身体を支える。
隣室の扉が、勢いよく開いた。
「陛下!」
ロゼの叫びが、遠く聞こえた。
クラルシアは、もう目を開けていられなかった。
最後に感じたのは、硬い腕の温度だった。
雨と泥と血の匂いがする、黒い腕。
シスター・テレサとは何もかも違う。
それなのに、なぜかひどく懐かしかった。
そこで、クラルシアの意識は白く途切れた。
