winterlovesong 雨の中の恋歌

 敬子が生まれたのは30年前。 先祖代々から続く農家の三女だった。
その家に男子は居なくて5人の娘たちが団欒を飾っていた。 大祖父から数えて10人の大家族である。
 小学生ともなると敬子も姉たちに倣って田仕事に出るようになる。 夏は米、冬は麦。
苗代に種を植えて田んぼに植えられるようになるまで育てる。 それが最初の仕事だった。
 小学校に通いながら田んぼの様子を伺うんだ。 大祖父は腰を悪くしていて寝たきりになっていた。
だから指揮を執っていたのは祖父である。 完璧にやったからといってご褒美なんて貰えるはずも無い。 そこまで裕福ではなかったから。
 やっと欲しかった人形を買ってもらえたのは高校生になってからのこと。 でも文句も言わずに敬子は働いていた。
クラスの友達が遊びに来ても中へは入れなかった。 大祖父が機嫌を悪くするからだ。
敬子はいつも友達に詫びていた。 それが高校を卒業するまで続くなんて、、、。

 さすがに高校を卒業した後はやりたいことをやらせてもらえるようになった。 それで看護学校へ進んだんだ。
2年後、准看護婦になった敬子は世話になったカモメ内科に就職した。 ここの院長が学費を全部出してくれてたから。
 当時、カモメ内科には3人の看護師が働いていた。 正看護師の光原梓、准看護師の柳下舞、そして敬子。
梓は院長の女だって言われていた看護師である。 噂では隠し子も居るらしい。
 だって昭和の看護師は院長には逆らえなかったからね。 そこを梓は器用に渡ってきたわけだ。
5年が過ぎた頃、舞が寿退社を申し出た。 院長は冷たい目で舞に言い捨てた。
「お前、俺の子供を産みたくないんだろう? そんな女にお祝いなんてしねえよ。」 敬子は受付でそれを聞きながら凍り付いていた。
 熱を出してぐずっている赤ちゃんを連れてきたお母さんが居た。 院長は顔を見るなり「俺と寝るなら子供を診てやるよ。」って言った。
お母さんは困惑した顔で院長を見詰めていたが、「分かりました。」と言って奥の部屋へ入っていった。
 その後、その人がどうなったかは知らないが兎にも角にも院長は手当たり次第に手を出すのである。 「ストレスもすごいからしょうがないのよ。」
梓は澄ました顔で敬子にそう言ったもんだ。

 小酒井先生が何でカモメ内科を開院したのか? まあ、この辺りには内科と呼べる内科が無かったからだ。
何でカモメ内科なの? 海の傍だからだよ。
ここから20分も歩けば潮溜まりが見えてくる。 そこにはいつもカモメが屯している。
時には離れたこの辺りにもカモメが飛んでくる。 それを見ていてカモメ内科って付けたんだそうだ。
 この辺りにだって年寄りがたくさん住んでいる。 しかしまあ老人ホームなどは無い。
小酒井先生は土曜日になるとバッグを持って往診に出掛ける。 必ず梓か舞が同行していた。
60を過ぎた今でも往診は続けている。 今は専ら敬子が同行しているけど。
 診療時間が終わるのは午後8時。 家事を済ませた奥さんたちも受診できるようにしてるんだ。
だから先にも書いたとおり、たまには一緒に寝る奥さんだって居る。 慣習というやつは恐ろしいもんだ。
 そんな日常を敬子も梓も黙って見てきた。 そんなある日のこと。
小酒井先生が日曜日に二人を家に呼んだ。 こんなことは未だかつて無かったが、、、。
 「二人と話したいと思ってね。」 「そうなんですか?」
「いつもは仕事ばかりで走り回ってるからさ。」 コーヒーを飲みながら和やかな空気の中で三人は向き合っている。
 「ところでだ。 カモメ内科をそろそろ閉院しようかと思うんだ。」 「閉院?」
50を過ぎた梓は目を丸くした。 「そうだよ。 俺ももう70だ。 そろそろ引退しようかと思ってね。」
「引退ね? 早過ぎるんじゃないの?」 「いやいや、いつまでやってるんだ?って言われるくらいなら早いくらいがちょうどいいと思っている。」
「そうなんですね。」 梓は下を向いた。
 敬子はコーヒーを飲みながら小酒井の顔を見詰めた。 「林田君にも世話になったね。」
そう言いながら差し出される彼の手はいつしか老人のそれになっていたんだ。 (先生もここまで年を取ったのね。)
 この場所で30年以上やってきた内科が終わる。 この辺りに住んでいる人たちは去年から噂していた。
院長が抱いてきた奥さんたちももう60とか70とかいうお年頃である。 旦那が逝ってしまった人だって居る。
 そろそろみんな揃って年金暮らしになる頃だ。 敬子も次の職場を探し始めた。
取り敢えず小酒井先生にもコネというやつが有る。 あっちこっちの内科と取り敢えず仲はいいから。
 それで敬子が決めたのは鳥島町の安田内科だった。 ここの親父さんと小酒井先生が飲み友達でね。
「息子にいい女を当てがってくれないか?」 そう頼まれた先生が敬子を勧めたんだ。
 この内科で働き始めたのは木枯らしが吹き始めた11月の下旬のこと。 「よろしくお願いします。」
二人の先輩看護婦の前でペコリと頭を下げる。 婦長の柳原雅代は厳しい顔で敬子を見詰めている。
「あんた、カモメの院長とはやらなかったんだね?」 不意に聞かれた敬子は何のことだか分からずにきょとんとしている。
「あそこのじいさんは誰彼構わずに寝るって噂じゃないか。 そんなじいさんとは寝なかったんだね?」 (何だ、そのことか。)
「はい。」 「ならいいわ。 汚らわしい女は要らないから。」
 言うが早いか雅代は敬子にユニフォームの一式を渡して着替えるように勧めてきた。
院長の安田利治は見るからに真面目そうな男である。 高青年とまでは言えないが、、、。
 「林田さん よく来たね。 これから頼んだよ。」 それだけ言うと彼はカルテの山を掘り始めた。
この内科は水曜日が休診日である。 日曜日に開院するためにそうしたんだとか。
 この頃にはもう土日が休みだっていう病院が増え始めていた。 「それじゃあ患者さんが困るだろう。」
そう言って安田は日曜日に病院を開けることにした。 開けてみると意外にも患者さんは飛び込んでくる。
ところが困ったのは薬局だ。 なんせこちらは土日休みを譲らない。
そこで彼は日曜日の分の薬を前もって仕入れておくことを考えた。 「そんなことしたって誰がどの病気で来るか分からないじゃないか。」
屁理屈を捏ね回す薬剤師を説得しながらそれ相応に薬を揃えるのである。 「時代も変わったもんだなあ。」
いつもいつも安田はこうこぼしながらビールを美味そうに飲む。 その向かい側には5年前に捕まえた妻の美恵子が座っている。
 午前9時、忙しい内科の一日が始まる。 敬子は受付で患者から診察券を受け取っている。
「おやおや、あんた新人さんだね?」 「は、はい。」
「ここの看護師はうるさいからしっかりするんだよ。」 「あらあら山田さん。 うるさい看護師って誰のことかなあ?」
「あんたしか居らんやないかい。」 「よくお分かりで。」
 「さあさあ始めるよ。」 安田の元気な声が聞こえる。
待合室は今日もいっぱいだ。 敬子は何も考えられないまま走り回るのであった。

 看護学校を卒業した敬子がカモメ内科の受付に立ったのは4月1日のことだった。 恨めしいくらいの土砂降りの日だったことを覚えている。
「あんたも俺に負けんくらいの雨女なんだなあ。」 小酒井先生はニヤニヤしながら敬子の体を見回すのである。
「まあまあ先生は物好きねえ。」 梓がそこへ割って入る。
「俺の楽しみを取る気か?」 今にも噴火しそうな先生を抑えながら梓は笑うんだ。
「先生のお気に入りは私でしょう? 私以上の女は居ないわよ。」 「それもそうだな。」
ニヤニヤしている院長の顔は気になるが敬子はホッとするのだった。 そして、、、。
 (梓さん 何処に行ったんだろう?) 不思議に思っていると診察室の脇の部屋から梓の甘い声が聞こえてきた。
その声に敬子が固まっていることに気付いた舞は耳打ちした。 「あれは毎日の恒例行事よ。 黙っててね。」
 そうやって小酒井院長は毎日のように梓を抱いていたわけだ。 患者さんに手を出されるよりはいいからって。
男と女、この世に二つの性が有る限り抑えることは出来ない。 それは分かっているけれど、、、。
 もうこの時点で梓は院長の子供を一人育てていた。 10歳の女の子だとか聞いていたっけ。
その子ももう大人になっている。 母親はいいとして父親のことをどう思ってるのだろう?
 小酒井院長にも奥さんが居て3人の子供が居る。 それぞれに独立していてこの町を離れているんだそうで、、、。
長女の真理子さんはアメリカに移住してピアニストをしているらしい。 結婚しているからって日本には帰ってこない。
 長男の正弘さんは外科医なんだけど大学病院で働いている。 仕事が忙しくて実家には寄れないらしい。
次男の薫さんは珍しくラーメン屋で働いている。 お父さんが来ると店を閉めてしまうんだって。
 「そういえば私も実家には帰ってないな。」 カモメ内科で勤めだしてからずっとアパート暮らしだ。
2dkの安いアパートを梓さんに教えてもらってから引っ越す事無く住み続けている。 10年も住んでるんだなあ。
 取り敢えず必要な家財道具は院長にお金を借りて揃えたんだ。 だからって抱かれたことは無い。
院長が言い寄ってくると必ず梓さんが割って入ってくれたから。

 カモメ内科で勤め始めて三日目。 その日は木曜日だった。
「今夜は敬子のお祝いをしよう。 明日は休みにするから飲みたいだけ飲んでくれ。」 院長が珍しくご機嫌でそう言うのである。
「明日はまたまた私のお宮参りをするのね?」 梓がいたずらっぽく笑う。
「何だいそりゃ?」 「これなんだからなあ。 毎年毎晩やってるでしょう?」
「やってるって何をさ?」 すっとぼけた顔で院長が聞いてくる。
「嫌だなあ。 奥さんより私のほうがいいって毎晩甘えてるのはだあれ?」 「何だ。 そのことか。」
「そのことかは無いわよねえ? 毎晩私が可愛がってあげてるんだから。」 「まいった。 まいったよ。」
 とはいえ、この時には梓さん 二人目の子供を妊娠していたんだ。 またまた女の子だって言ってたっけ。
その夜、町ではなかなか高級だと言われている料亭 鈴屋に私たちはやってきた。 舞さんもどっか嬉しいのかそうでないのか複雑な顔をしている。
 座敷に通されて待っていると梓さんの明るい笑い声が聞こえてきた。 「先生も意地悪なんだからなあ。 ほらほらみんな待ってるじゃない。」
「そう急かすなよ。 夜はまだまだこれからだ。」 「先生はそうでしょうけど新人さんも来てるんだから。」
 何とまあやんちゃな先生なんだろう? 敬子は広いテーブルを前に畏まってしまっている。
「よしよし。 みんな来たか。」 「とっくの昔に揃ってるわよ。 先生。」
「分かった。 分かったからお前が乾杯の音頭を執りなさい。」 いつも世話になっている薬剤師も居る。
建物を貸してくれている大家も居る。 敬子はその一番隅っこで縮こまっている。
 「今日は他でもないんだ。 カモメ内科に久しぶりに新人の看護婦が入ったんでな。 そのお祝いをしようっていうわけだ。 みんな飲んでくれよ。」
院長がお猪口をさし上げるとみんなも続くように飲み始めた。 「新人さんか。 今度は長続きするかなあ?」
 大家の木下泰三がボソッとこぼしているのを聞いて梓はクスッと笑った。「木下さん この子は大丈夫よ。 根性も座ってるから。」
「梓ちゃんが言うなら間違いは無かろう。 なあ、院長。」 でも院長は薬剤師の岡本幸恵とばかり話し込んでいる。
「こりゃあダメだわ。 聞いてない。」 「大丈夫よ。 私が聞いとくから。」
 飲みながら舞さんは何を考えていたんだろう? 今から思えば辞める4年前のことだった。
小鉢に入った海鼠とか漬物とか軽い物が出され、宴会はここからが本番。 煮物とか焼き魚とか和え物とかいろんな皿やお椀が出てくる。
 敬子は初めての酒を恐る恐る飲みながら食べている。 「新人さんの名前は何て言うんだね?」
泰三は湯飲みを持ったまま敬子を見詰めた。 「林田恵子です。」
「いい名前だな。 院長さんよ、この子は大事にするんだぞ。」 「分かった。 分かったよ。」