朝の光が窓から柔らかく差し込む頃、ふみはゆっくりと目を覚ました。居間へ向かうと、貞夫が食卓の前に座ったまま、茶碗に口をつけようともしない姿が目に入る。いつものようにぼんやりとしたままで、箸を動かそうともしない。
「お父さん、どうしたの? ご飯、食べないの?」
心配になって声をかけても、返事はない。
そこへ愛斗がエプロンを身に着けて台所から現れ、状況を聞くとすぐに貞夫の隣へ座り、柔らかい声で食事を促し始めた。
「貞夫さん、少しずつでいいですから、口に入れてくださいね」
愛斗がスプーンですくったおかゆを差し出すと、貞夫はゆっくりと口を開けたが——飲み込む瞬間、はっきりと眉をひそめ、頬を少しだけ歪めた。
痛みが走ったようだ。
「もしかして、歯が痛いのですか?」
問いかけても、貞夫はぼんやりと宙を見つめるばかりで黙り込んだまま。愛斗は無理に飲み込ませずに一旦スプーンを置き、ふみがそっと貞夫の口元を覗き込む。明かりを受けた奥歯のあたりが黒く変色しているのが見えた。
「お父さん、虫歯ができてるよ。でもこの状態で外へ連れ出すのも不安だし、どうしよう……」
ふみが声を落とすと、愛斗はすぐさまスマートフォンを手に取った。行きつけの歯科医院へ電話をかけ、貞夫の認知症の状態や外出が難しいこと、痛がる様子があることを丁寧に伝え、訪問診療の手配を進める。数分のやり取りの後、彼は受話器を置いてふみを向き、安心させるように頷いた。
「今から先生が来てくださるそうだ。早く痛みが取れるといいな」
「ありがとう、愛斗くん。本当に助かったよ」
「いいよ。貞夫さんの虫歯が悪化したら大変だし、ふみの力になれて俺も嬉しいよ」
やがて診療の予定時刻が近づくと、家の中に清潔でほのかに薬品の香りが漂い始めた。窓辺の椅子は背もたれを少し倒し、貞夫がゆったりと腰かけられるように整えられている。
認知症のためいつもはぼんやりと外を眺めている彼だが、見慣れない器具の音に耳を澄まし、わずかに肩を硬くする様子が見て取れた。
ふみはそんな貞夫の側に座り、そっと手を取って指を重ね合わせていた。
「では、口の中を拝見しますね。痛みを感じたら、どうぞ手を上げてお知らせください」
歯科医が柔らかく声をかけ、診療がゆっくりと始まった。貞夫は最初、緊張から口を閉ざしがちだったが、ふみが昔の海辺での記憶を語りかけると、少しずつ顔の力が抜けていくようだった。
やがて奥歯の治療に差しかかり、器具がわずかに歯茎に触れた瞬間——貞夫がぼんやりとした視線のまま、ぽつり、ぽつりと言葉をこぼした。
「……愛斗とふみは、どこだ?」
「ここにいるよ。大丈夫だよ、貞夫さん」
「そうか……昔はな、ふみが子供のとき、歯医者が大嫌いでよく泣いて嫌がってたな。覚えてるか? 頑張った帰りには、必ずおやつを買ってやったものだ」
「……覚えてるよ。貞夫さんがいつもアメをくれたの」
「愛斗も、いつも隣で見ててくれたっけ。二人とも、今日はよく頑張ったな。……ふみ、あのときみたいに、あまり嫌がるなよ」
「もう大人だもん、大丈夫だよ」
「そっか……もう大人か。俺も、ずいぶん年を取るわけだな……」
「治療が終わりました。虫歯はきちんとなおしましたよ」
歯科医が器具を片付けながら告げると、ふみは深く頭を下げてお礼を言った。先生とスタッフが家を出ると、部屋には穏やかな空気が戻ってくる。
ふみは愛斗の胸元へ近づき、目を上げて柔らかく笑う。
「愛斗くん、今日は本当にありがとう。助かったよ。お礼はちゃんとするからね。私たち、ちゃんと付き合ってる恋人同士なんだから、それで当然だよね」
愛斗はふみを抱き寄せ、柔らかく目を細めて問いかける。
「お礼には、何をしてくれるのかな?」
「それは……夜までの楽しみにしておいて」
「わかった。楽しみに待ってるよ」
愛斗は心の中で、これからの時間をふみと過ごす様子をふと思い描き、思わず口元が緩んでニヤリと笑った。
すると貞夫が、ゆっくりと立ち上がりながら明るい口調で言った。
「ふみ、歯医者頑張ったから、おやつを買いに行こう。愛斗も、一緒に連れて行ってやるよ」
ふみは今はもう子供ではないことを伝えようと口を開けたが、愛斗がそっと手で合図をして言葉を遮った。彼は小声でふみに告げる。
「今、違うよ、と言ってしまうと貞夫さんが混乱してしまう。今日は調子の良い日だから、ここは話を合わせておこう」
「……わかった」
「ふみ、今日は歯医者、よく頑張ったな」
「はい、貞夫さん」
「よし、ではお菓子を買いに行くぞ。お菓子は、ひとり500円までだからな」
「はーい」
「まるで遠足みたいだね」
三人は並んで家を出て、町のはずれにある昔ながらの駄菓子屋へ向かった。貞夫の案内で店に入り、ふみと愛斗はそれぞれ好きなお菓子を選び、貞夫が笑顔で代金を支払う。店の外のベンチでは、三人で駄菓子を分け合い、食べながらゆっくりと家への道を歩いて帰った。
「お父さん、どうしたの? ご飯、食べないの?」
心配になって声をかけても、返事はない。
そこへ愛斗がエプロンを身に着けて台所から現れ、状況を聞くとすぐに貞夫の隣へ座り、柔らかい声で食事を促し始めた。
「貞夫さん、少しずつでいいですから、口に入れてくださいね」
愛斗がスプーンですくったおかゆを差し出すと、貞夫はゆっくりと口を開けたが——飲み込む瞬間、はっきりと眉をひそめ、頬を少しだけ歪めた。
痛みが走ったようだ。
「もしかして、歯が痛いのですか?」
問いかけても、貞夫はぼんやりと宙を見つめるばかりで黙り込んだまま。愛斗は無理に飲み込ませずに一旦スプーンを置き、ふみがそっと貞夫の口元を覗き込む。明かりを受けた奥歯のあたりが黒く変色しているのが見えた。
「お父さん、虫歯ができてるよ。でもこの状態で外へ連れ出すのも不安だし、どうしよう……」
ふみが声を落とすと、愛斗はすぐさまスマートフォンを手に取った。行きつけの歯科医院へ電話をかけ、貞夫の認知症の状態や外出が難しいこと、痛がる様子があることを丁寧に伝え、訪問診療の手配を進める。数分のやり取りの後、彼は受話器を置いてふみを向き、安心させるように頷いた。
「今から先生が来てくださるそうだ。早く痛みが取れるといいな」
「ありがとう、愛斗くん。本当に助かったよ」
「いいよ。貞夫さんの虫歯が悪化したら大変だし、ふみの力になれて俺も嬉しいよ」
やがて診療の予定時刻が近づくと、家の中に清潔でほのかに薬品の香りが漂い始めた。窓辺の椅子は背もたれを少し倒し、貞夫がゆったりと腰かけられるように整えられている。
認知症のためいつもはぼんやりと外を眺めている彼だが、見慣れない器具の音に耳を澄まし、わずかに肩を硬くする様子が見て取れた。
ふみはそんな貞夫の側に座り、そっと手を取って指を重ね合わせていた。
「では、口の中を拝見しますね。痛みを感じたら、どうぞ手を上げてお知らせください」
歯科医が柔らかく声をかけ、診療がゆっくりと始まった。貞夫は最初、緊張から口を閉ざしがちだったが、ふみが昔の海辺での記憶を語りかけると、少しずつ顔の力が抜けていくようだった。
やがて奥歯の治療に差しかかり、器具がわずかに歯茎に触れた瞬間——貞夫がぼんやりとした視線のまま、ぽつり、ぽつりと言葉をこぼした。
「……愛斗とふみは、どこだ?」
「ここにいるよ。大丈夫だよ、貞夫さん」
「そうか……昔はな、ふみが子供のとき、歯医者が大嫌いでよく泣いて嫌がってたな。覚えてるか? 頑張った帰りには、必ずおやつを買ってやったものだ」
「……覚えてるよ。貞夫さんがいつもアメをくれたの」
「愛斗も、いつも隣で見ててくれたっけ。二人とも、今日はよく頑張ったな。……ふみ、あのときみたいに、あまり嫌がるなよ」
「もう大人だもん、大丈夫だよ」
「そっか……もう大人か。俺も、ずいぶん年を取るわけだな……」
「治療が終わりました。虫歯はきちんとなおしましたよ」
歯科医が器具を片付けながら告げると、ふみは深く頭を下げてお礼を言った。先生とスタッフが家を出ると、部屋には穏やかな空気が戻ってくる。
ふみは愛斗の胸元へ近づき、目を上げて柔らかく笑う。
「愛斗くん、今日は本当にありがとう。助かったよ。お礼はちゃんとするからね。私たち、ちゃんと付き合ってる恋人同士なんだから、それで当然だよね」
愛斗はふみを抱き寄せ、柔らかく目を細めて問いかける。
「お礼には、何をしてくれるのかな?」
「それは……夜までの楽しみにしておいて」
「わかった。楽しみに待ってるよ」
愛斗は心の中で、これからの時間をふみと過ごす様子をふと思い描き、思わず口元が緩んでニヤリと笑った。
すると貞夫が、ゆっくりと立ち上がりながら明るい口調で言った。
「ふみ、歯医者頑張ったから、おやつを買いに行こう。愛斗も、一緒に連れて行ってやるよ」
ふみは今はもう子供ではないことを伝えようと口を開けたが、愛斗がそっと手で合図をして言葉を遮った。彼は小声でふみに告げる。
「今、違うよ、と言ってしまうと貞夫さんが混乱してしまう。今日は調子の良い日だから、ここは話を合わせておこう」
「……わかった」
「ふみ、今日は歯医者、よく頑張ったな」
「はい、貞夫さん」
「よし、ではお菓子を買いに行くぞ。お菓子は、ひとり500円までだからな」
「はーい」
「まるで遠足みたいだね」
三人は並んで家を出て、町のはずれにある昔ながらの駄菓子屋へ向かった。貞夫の案内で店に入り、ふみと愛斗はそれぞれ好きなお菓子を選び、貞夫が笑顔で代金を支払う。店の外のベンチでは、三人で駄菓子を分け合い、食べながらゆっくりと家への道を歩いて帰った。

