「良いですけど、許す代わりに名前を教えてください」
青年の予想外の言葉に志乃は困惑した。名前を教えるという事に意味があるとはとても思えなかったのだ。第一、別に許して欲しいとも思っていないのだし。
彼はまだ、無邪気な笑みを浮かべて私を見つめていた。
仕方ない。これ以上引き伸ばしては、怪しまれる。
第一、志乃の本来の名を知る者は限られているのだ。
「志乃、といいます」
「志乃さん、可愛らしい名前ですねえ」
青年は志乃の名前をなぞるように復唱した。
「そうですか?」
「ええ、よく似合っています」
青年は笑みを絶やさずに志乃を見る。そして何を思ったか、志乃の頼んだ三色団子に手を伸ばすとパクリと一口食べてしまった。
「ちょっと、何するんですか!」
思わず志乃は青年の腕を掴んだ。線の薄い身体だと思っていたが、思いの外鍛えられた筋肉だ。
「まあまあ、いいじゃないですか。友好の証ですよ」
「何言うとるんですか!私の団子じゃ!」
志乃は思わず故郷の言葉を使って、青年の手から団子の串を奪い取った。何故か容易く取れた団子に些か疑問を覚えつつも、迷いなく残りの団子を口に頬張った。砂糖の甘い味が口いっぱいに広がる。
その幸せに呑まれかけた時だった。
「その訛り……どこかで聞いたことがあるような…」
そこで、志乃はやっと自分の犯した失態に気付いた。冷や汗が背を伝う。昨日から随分とツいていない。しかも気付いた相手は武士と来た。丸腰同然の志乃が無事に生きて帰れるかは知れない。
「…そうなんですね。何処でお聞きになったんです?」
「ああ、思い出した!桂さんだ!」
青年は真面目な顔をするのを止めて、またニコニコと笑みを浮かべた。“桂さん”彼が口に出したその人と、私が昨日酒を酌み交わしたその人がどうも同じ人物な気がしてならない。
「実はね。私は江戸の多摩の出なんですが、そこによく手伝いに来てくれていた人が、貴方と同じような訛り方をしていたんですよ」
「確か桂さんの出身は────」
まずい、知れたか。志乃は目をつぶった。
「────どこだったかなあ」
緊張がふわっと抜けた。
もうここには居られない。立ち去ろう。そう考えた志乃は、まだ考えながら唸る青年を尻目に、立ち上がった。
「あれ、もう行かれるんですか?」
「はい、少し急用を思い出しまして。すみません、それでは」
疑われても構わない。もう会うことは無いし、あの男が桂さんの出身を思い出せたところで、それが私の正体を見抜く証拠になる訳でもあるまい。
志乃は知らなかった。この出会いが、後に己の運命を大きく揺るがす事になろうなど。
───────
「行ってしまった……」
青年は志乃の影が遠く小さくなるのを見届けて、その場にまた腰を下ろした。不思議な香りのする人だった。彼は思う。
「あれ、総司じゃんか。何してんの?こんなとこで」
総司、そう呼ばれた青年は顔を上げた。目の前には浅葱色の羽織が風に揺られてたなびいている。
「平助、私は今日非番だよ?何していたって良いじゃないか」
総司と平助が話す後ろで、店の中に居る客が、浅葱色の羽織を見て小さく悲鳴をあげるのが聞こえた。
こういうことはよくあった。
平助はそれを見ると悲しそうに微笑み、総司の肩を叩いてまた市中見廻りに出かけた。
無論、新撰組と親しくしている総司がそれ以上店に居座れる訳もなく、店主に礼を言ってはまた、京の町をふらつく他ない。
にしても、いい女だった。そう、心の中で呟いてみる。まるで土方さんみたいじゃないか、なんて自嘲して、総司は心の中で彼女の名前をまたなぞった。
志乃さん。
「どうしてかな、貴方とはまた近いうちに会える気がする」
総司はそう呟くと、再び京の雑踏に足を踏み入れた。
───────
さて、その日の夜の事である。
再び桂に呼び出された志乃は、森忠親の仮面を被って闇夜を走った。三条木屋町に聳える料亭《四国屋》に、その人は居た。
「桂さん、話とはなんでしょう」
「来たか、忠親」
部屋をぐるりと見渡せば、見知った顔が四つ。宮部鼎蔵、久坂玄瑞、吉田稔麿、そして────
「坂本さん!?何故ここに!」
坂本龍馬、彼は土佐藩の脱藩浪士だ。そんな男が何故長州藩の中に混じっているのか、甚だ疑問でならなかった。
龍馬は志乃の反応に気を良くしたのか、ガハハと豪快に笑った。
「私が呼んだんだ」
桂が志乃の疑問に応えるように言った。
「さて、忠親」
「はい」
志乃は桂の言葉だけに集中した。今朝、稔麿に植え付けられた疑問が、今解消されようとしているのだ。
「君には、私の補佐を降りて任務に出てもらう」
桂の言葉に目を見開く。志乃が桂の元を離れて任務をするなど、初めてのことだ。桂が意図的に志乃を傍から離さないのだと、皆が噂していたのに。
「坂本君の手を借りて、島原遊郭に潜入し情報を集めよ」
話の先が見えずに困惑する。情報を集めるだけなら、志乃が桂の元を離れる必要はない気がした。
「今回の潜入には坂本君の力が不可欠だ。
よって、この桂小五郎を証人として、坂本君に秘密を打ち明ける。異論のある者は?」
誰も何も言わない。
「坂本君、この森忠親という者」
桂は一度言葉を切った。
部屋中の視線が、志乃一点に集まった。
「───────この者は女だ」
青年の予想外の言葉に志乃は困惑した。名前を教えるという事に意味があるとはとても思えなかったのだ。第一、別に許して欲しいとも思っていないのだし。
彼はまだ、無邪気な笑みを浮かべて私を見つめていた。
仕方ない。これ以上引き伸ばしては、怪しまれる。
第一、志乃の本来の名を知る者は限られているのだ。
「志乃、といいます」
「志乃さん、可愛らしい名前ですねえ」
青年は志乃の名前をなぞるように復唱した。
「そうですか?」
「ええ、よく似合っています」
青年は笑みを絶やさずに志乃を見る。そして何を思ったか、志乃の頼んだ三色団子に手を伸ばすとパクリと一口食べてしまった。
「ちょっと、何するんですか!」
思わず志乃は青年の腕を掴んだ。線の薄い身体だと思っていたが、思いの外鍛えられた筋肉だ。
「まあまあ、いいじゃないですか。友好の証ですよ」
「何言うとるんですか!私の団子じゃ!」
志乃は思わず故郷の言葉を使って、青年の手から団子の串を奪い取った。何故か容易く取れた団子に些か疑問を覚えつつも、迷いなく残りの団子を口に頬張った。砂糖の甘い味が口いっぱいに広がる。
その幸せに呑まれかけた時だった。
「その訛り……どこかで聞いたことがあるような…」
そこで、志乃はやっと自分の犯した失態に気付いた。冷や汗が背を伝う。昨日から随分とツいていない。しかも気付いた相手は武士と来た。丸腰同然の志乃が無事に生きて帰れるかは知れない。
「…そうなんですね。何処でお聞きになったんです?」
「ああ、思い出した!桂さんだ!」
青年は真面目な顔をするのを止めて、またニコニコと笑みを浮かべた。“桂さん”彼が口に出したその人と、私が昨日酒を酌み交わしたその人がどうも同じ人物な気がしてならない。
「実はね。私は江戸の多摩の出なんですが、そこによく手伝いに来てくれていた人が、貴方と同じような訛り方をしていたんですよ」
「確か桂さんの出身は────」
まずい、知れたか。志乃は目をつぶった。
「────どこだったかなあ」
緊張がふわっと抜けた。
もうここには居られない。立ち去ろう。そう考えた志乃は、まだ考えながら唸る青年を尻目に、立ち上がった。
「あれ、もう行かれるんですか?」
「はい、少し急用を思い出しまして。すみません、それでは」
疑われても構わない。もう会うことは無いし、あの男が桂さんの出身を思い出せたところで、それが私の正体を見抜く証拠になる訳でもあるまい。
志乃は知らなかった。この出会いが、後に己の運命を大きく揺るがす事になろうなど。
───────
「行ってしまった……」
青年は志乃の影が遠く小さくなるのを見届けて、その場にまた腰を下ろした。不思議な香りのする人だった。彼は思う。
「あれ、総司じゃんか。何してんの?こんなとこで」
総司、そう呼ばれた青年は顔を上げた。目の前には浅葱色の羽織が風に揺られてたなびいている。
「平助、私は今日非番だよ?何していたって良いじゃないか」
総司と平助が話す後ろで、店の中に居る客が、浅葱色の羽織を見て小さく悲鳴をあげるのが聞こえた。
こういうことはよくあった。
平助はそれを見ると悲しそうに微笑み、総司の肩を叩いてまた市中見廻りに出かけた。
無論、新撰組と親しくしている総司がそれ以上店に居座れる訳もなく、店主に礼を言ってはまた、京の町をふらつく他ない。
にしても、いい女だった。そう、心の中で呟いてみる。まるで土方さんみたいじゃないか、なんて自嘲して、総司は心の中で彼女の名前をまたなぞった。
志乃さん。
「どうしてかな、貴方とはまた近いうちに会える気がする」
総司はそう呟くと、再び京の雑踏に足を踏み入れた。
───────
さて、その日の夜の事である。
再び桂に呼び出された志乃は、森忠親の仮面を被って闇夜を走った。三条木屋町に聳える料亭《四国屋》に、その人は居た。
「桂さん、話とはなんでしょう」
「来たか、忠親」
部屋をぐるりと見渡せば、見知った顔が四つ。宮部鼎蔵、久坂玄瑞、吉田稔麿、そして────
「坂本さん!?何故ここに!」
坂本龍馬、彼は土佐藩の脱藩浪士だ。そんな男が何故長州藩の中に混じっているのか、甚だ疑問でならなかった。
龍馬は志乃の反応に気を良くしたのか、ガハハと豪快に笑った。
「私が呼んだんだ」
桂が志乃の疑問に応えるように言った。
「さて、忠親」
「はい」
志乃は桂の言葉だけに集中した。今朝、稔麿に植え付けられた疑問が、今解消されようとしているのだ。
「君には、私の補佐を降りて任務に出てもらう」
桂の言葉に目を見開く。志乃が桂の元を離れて任務をするなど、初めてのことだ。桂が意図的に志乃を傍から離さないのだと、皆が噂していたのに。
「坂本君の手を借りて、島原遊郭に潜入し情報を集めよ」
話の先が見えずに困惑する。情報を集めるだけなら、志乃が桂の元を離れる必要はない気がした。
「今回の潜入には坂本君の力が不可欠だ。
よって、この桂小五郎を証人として、坂本君に秘密を打ち明ける。異論のある者は?」
誰も何も言わない。
「坂本君、この森忠親という者」
桂は一度言葉を切った。
部屋中の視線が、志乃一点に集まった。
「───────この者は女だ」
