財閥令嬢の私が、三つ子の不良御曹司に世界を教えられるなんて

書斎の重い扉が静かに閉まった瞬間、私は無意識のうちに肩から力を抜いていた。



けれど。



楽になったわけではない。



むしろ逆だった。



お父様と話すたびに胸の奥へ少しずつ鉛のような重さが積み重なっていくような感覚があって、今もその重苦しさが消えないまま私の心の中に居座っている。



来春までに誰かからプロポーズされるようにしろ。



どうせ結婚するのだから早く関係を持て。



そんな言葉が何度も頭の中で繰り返される。



私はただ静かに廊下を歩いた。



窓の外には夕暮れの庭園が広がっている。



本当なら久しぶりに帰ってきた我が家の景色を懐かしく感じるはずなのに、今はそれを眺める余裕すらなかった。



その時だった。



「六花!」



聞き慣れた声が響く。



私は顔を上げた。



廊下の向こう。



曲がり角の先から誰かが走ってくる。



黒い執事服。



見慣れた栗色の髪。



そして焦ったような表情。



優斗だった。



「優斗……」



私が名前を呼ぶよりも早く、優斗は駆け寄ってきた。



普段の優斗はもっと落ち着いている。



執事としての教育を受けているから、人前で走ることも滅多にない。



それなのに今はそんなことも忘れてしまったみたいに一直線にこちらへ向かってくる。



そして。



私の目の前で足を止めた。



「大丈夫か?」



開口一番、それだった。



私は少し驚いた。



「え?」



「会長に呼ばれたんだろ」



優斗の眉は心配そうに寄せられている。



その顔を見た瞬間。



胸の奥に張り詰めていた何かが少しだけ緩んだ。



道明寺家にいる間も何度か電話はしていた。



けれど。



やっぱり直接会うのは違う。



優斗の顔を見るだけで不思議と安心する。



私は少しだけ笑おうとした。



「大丈夫よ」



しかし。



優斗はすぐに首を振った。



「嘘だ」



即答だった。



私は思わず目を瞬く。



「そんなに分かりやすい?」



「分かりやすい」



優斗は迷いなく頷く。



「六花、今にも倒れそうな顔してる」



私は苦笑した。



そんな顔をしていただろうか。



自分では普通のつもりだったのに。



けれど。



優斗に言われると反論できない。



昔からそうだ。



私が無理をしている時。



泣きそうな時。



体調が悪い時。



優斗だけはすぐに気付く。



私よりも先に。



「何言われたんだ」



優斗の声が少し低くなる。



私は視線を逸らした。



言いたくない。



というより。



言葉にしたくない。



お父様の言葉を口にしたら、本当に傷付いてしまいそうだった。



だから私は代わりに小さく笑う。



「ただのお説教よ」



優斗は黙った。



明らかに信じていない顔だった。



けれどそれ以上は聞いてこない。



それが優斗だった。



私が話したくない時は無理に聞かない。



ただ隣にいてくれる。



しばらく沈黙が流れる。



そして。



優斗はふっと表情を和らげた。



「おかえり」



その一言は。



今日お父様から言われたどんな言葉よりも。



ずっと温かかった。



私は思わず目を伏せる。



胸の奥がじんわり熱くなる。



「……ただいま」



そう返した瞬間。



ようやく私は。



本当に屋敷へ帰ってきたのだと感じた。